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■第二章「血盟団とテロリズム」

第1節「血盟団の性格」

 一方民間においては井上日召なる日蓮宗に強く影響を受けた布教師(僧籍はない)の指導による「血盟団」(裁判官が後に付けた名前で井上が当初から名乗っていた団体名ではない)が影響力を持つようになる。血盟団は井上の思想に感化されたカルト集団である。井上の思想の根底にあるものは、仏教的神秘主義と言ってよい。井上は日召と称して日蓮主義を基本とする仏教的神秘主義であると指摘する書籍もある。仏教的神秘主義に皇国思想、国家改造に対する熱情が重なって、井上日召の独自な思想が形成されたのではないか。井上が田中智学(明治の宗教家)から大きな影響を受けていることは明白である。特に国家主義者である田中の著書「日蓮上人乃教義」から大きな影響を受けているという指摘は、当たっているのではないかと思われる。それと同時に北一輝、大川周明にも会って国家改新を論じているようであるが、彼等の主張とは相入れず、自己の思想の理論化は放棄している。彼の関心があったのは、あくまで実力行動にあったと考えられる。

 血盟団は多くの要人を殺害したが、暗殺後の国家改造計画に関する具体策を何等持ち合わせていなかった。彼等の論理は、自分たちがテロを行うことによって捨て石になることで、後に続く者達の国家改造の先鞭をつけたという単純なものであった。血盟団事件自体はクーデター計画でもなく、クーデター未遂事件ですらなかった。井上自身自分は単なるテロではなくクーデターを指向していたと云っているが、その結果は要人暗殺というテロ事件以上のものではない。

第2節「血盟団の形成」

 井上日召は1886年(明治19年)群馬県の出身で、父は明治維新後に起こった熊本の士族の反乱「神風連の乱」に参加しその後医師となる。本人は早稲田大学、拓殖大学を経て大陸に渡り、天津駐在の日本軍の通訳やスパイを務めたいわゆる大陸浪人である。帰国後先に述べたように日蓮宗に帰依して、茨城県の大洗にあった大洗護国堂に入り「日本精神の尊重」という思想のもとに、青年の教育に努めていた。その主要なメンバーが後に血盟団といわれ暗殺事件に関わる一般に大洗組といわれる小沼正、菱沼五郎、古内栄治、さらに東大グループといわれる四元義隆、田中邦雄、京大グループの田倉利之など16名のグループである。

 このように井上は立正護国堂を道場にして、地元の若者や一部インテリの学生を集めて彼らを鍛え上げた後、各地の農村に派遣して同志を増やし、自らの教団を起こして信者の数を数年間で数十万人に迄増やして国家改造の一大勢力を先ず築き、これらの同志をかたらって国会議事堂を取り巻き、国家改造を迫るといういささか誇大妄想じみた計画(井上はこれを「倍加計画」と称していた)を実行しようとしていたのであって、1929年(昭和4年)の時点では、テロリズムによる実行行動を考えていたわけではなかった。

第3節「血盟団をテロリストに変えた原因」

 それでは井上がテロによる直接行動を考えるようになったのは何故か?その原因は護国堂に集まる海軍の青年将校達、特に藤井斉(第一次上海事変で戦死)の影響が大きかったと云われている。藤井を介して井上と海軍との関係が生まれたことにより、血盟団の性格が大きく変わった。具体的には1929年(昭和4年)に藤井は、第20期飛行学生となり霞ケ浦海軍航空隊に赴任し、この時期に井上日召や橘孝三郎、権藤成卿と交わるようになる。藤井は、1904年(明治37年)佐賀県の生まれである。彼は海軍兵学校入校以来目立った存在だった。在校中から大アジア主義を唱え、当時問題となっていたワシントン、ロンドン海軍軍縮条約を非難して、兵学校上部からマークされる存在であった。血盟団員の中で重要な役割をはたしたのは、大洗グループ内の古内(小学校教員出身)と東大グループの四元の2人である。また血盟団員ではなく、先に述べた海軍将校の藤井斉の影響は大きい。藤井こそ元々実力行使には慎重であった井上日召を、テロリストに仕向けた張本人である。また東大グループや京大グループ、海軍将校と井上を緊密に結び付け、大洗の小さなグループに過ぎなかった血盟団を、広域に活動するグループに変貌させたのであった。

 藤井は日召の唱える倍加運動を聞いて、日召に対して「貴君は寺に居て世間の事情にうといからそのような呑気な事を云っているのだ。最近の国家の様子をもっと勉強しろ。国家の現状が今程行き詰っているのがわからないのか。国民大衆の苦境を救うためには、一刻も早く我々殉国の志士が立ち上がって、国家の改造を行わなければならない」と日召に迫ったのであった。

 日召は、藤井を初めは嘲笑していたが、次第に考えを変え、暴力を肯定する方向に変わっていった。それ以来藤井は頻繁に護国堂に出入りするようになる。その後日召は護国堂を出て東京で活動するようになる。先に述べた陸軍の未遂に終わった3月事件(1931年(昭和6年)3月)及び10月事件(1931年10月)に日召を始めとして血盟団のメンバーは関係している。


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