それじゃオフビートな書き方や時代小説に外来語使うような文章は全部ダメじゃないかと。そういえば、井上ひさしの「直木賞のストライクゾーン」に関するエッセイで、あらかじめ決められた結末に向かうミステリは圏外と書いてあってゾッとしました。それらと無縁なライトノベルが爆発したのも当然ですよ
昔のように文系の人間の書く小説ではなく、理系の人間たちが書いたのではないかと思うが、思考が緻密で描写力も優れている人が多い。なぜこういう人達が芥川賞の候補にならないのか不思議である。まさしく、小説の可能性を広げる書き手たちだろう。
特に、櫻木みわと麦原遼という二人の共作と思われる「海の双翼」という作品は、SFという形でしか描けない領域だと思う。章ごとに話し手が違い、おそらく「人間」の語る部分を櫻木氏が、「ロボット(と言うべきだろうか。)」が語る部分を麦原氏が書いていると思うが、その接続にまったく「足下が見えている」拙劣さが無く、まさに人間ならこう思考し、ロボットならこう思考するだろう、という描き方が素晴らしい。もちろん、ロボットが語る部分に「感情」らしきものが見える部分もあるが、ロボットには感情が無いという「定義」も絶対的とは言えないだろう。
それと並ぶか、あるいは「小説」としてはそれ以上の完成度を持っているのが陸秋槎という中国人作家の作品を稲村文吾という人が訳した「色のない緑」という作品で、言語学の未来にまつわる人間模様を描くという、一見取っつきにくい内容の話だが、その細部の堅牢さが凄く、まったく私の知識にない「言語学と人工知能の結婚」の話が切実さをもって伝わるのである。確かに、未来の話だからSFだが、それ以前に、まさに「小説」としての水準が高いのである。
私の主観では、このふたつの作品よりは少し劣るように思うが、南木義隆の「月と怪物」、そして伴名練の「彼岸花」も読ませる作品で、どちらも芥川賞を取っても不思議ではない作品だと思う。(「月と怪物」は題名で損していると思う。内容は「ドクトル・ジバゴ」を短編に圧縮したような濃密な作品で、凄い力量の書き手だと思う。)
つまり、九つある作品の中で四つも素晴らしい水準の作品があるわけで、これが「百合SF」という馬鹿な売り方をしていなければ世間から先入観で低く見られることもなく、高い評価を得ていただろうと思う。逆に、「百合SF」と名付けたから一定以上に売れたのだ、と編集者は言うだろうし、実際、「百合SF」というテーマだから創作意欲を掻き立てられたという作家もいるかもしれない。
しかし、ここに載せられた作品の中で「このアンソロジーのための書き下ろし」、つまり最初から「百合SF」というテーマで書いたのは最後に載っているSF界のベテラン小川一水の作品だけなのだが、これが一番面白くない。まあ途中からは斜め読みなので正しい評価ではないが、他の作品がどちらかと言えば「百合」というよりは同性間の友情や「異生物間の愛情」という、「通常の男女関係ではない」愛情を描いているのに対し、まさにレズビアンそのものを描いたのが小川一水のこの作品だけで、しかもその会話がいかにも「オッサンが想像した女子高生の会話」風で読む方がいたたまれない。(小川一水の性別を私は知らないが、オッサン臭い印象だ。)作中に出てくる言葉がいちいち意味不明で、苦労して意味を推測するのも馬鹿馬鹿しい内容だ。宇宙で若い女性ふたりで漁師をする話である。そこにフェミニズム要素を少しまぶして女性のご機嫌伺いをした感じ。SF、特に「ハードSF」の欠点を凝縮しながら、会話が異常に若者ぶっているような印象である。
冒頭の作品(「キミノスケープ」)も「二人称小説」という、いかにも奇をてらった作品で、しかも問題の解決も何もなしに投げ出した終わり方であり、単なるSF的スケッチでしかなく、情景描写は上手いが、それだけの作品で、このアンソロジーを手に取った人は、最初で投げ出す可能性が高く、また最後まで読んだ人は最後の作品でがっかりするだろう。で、「やっぱりSFは糞だ」と思う読者も多いと思う。まあ、編集者のセンスの無さは「アステリズムに花束を」という書名にも表れている。「アルジャーノンに花束を」のもじりだろうが、この中の作品とアステリズムに何の関係があるのか。
なお、草野原原という作家の「幽世知能」という作品は陰鬱な雰囲気と面倒くさい文章にうんざりして読むのを途中でやめたので、評価はできない。何となく「電脳コイル」の影響がありそうな感じだ。
その超難問を藤子不二雄は、顔を黒く塗りつぶし、そこに見開いた目を描くという、凄い発想で解決した。これがどれほど難しい問題だったか、子供のころはまったく思いも及ばないだろうが、その「面白さ」だけは幼児にも伝わるというのがまた凄い。
確か、別の作品でも藤子不二雄は、空を白く、地上を黒く描くことで、夜の野原を表現していたと思う。
エスパー魔美「地底からの声」読み聞かせで、暗闇の中眠れない魔美の顔で子供が爆笑。おしっこを幸子さんの膀胱に部分テレポートするくだりはまだそのえげつなさが理解できなくてウケが今ひとつ。
ちなみに、私はユージン・スミスくらいしか知らないが、彼が撮った、水俣病の娘を抱いて風呂に入れている母親の写真には感動した。「20世紀のピエタ」と言いたいくらいだったが、あの写真は「被写体遺族の要請」で公開差し止めになっている。おそらく、チッソ(水俣病の原因となる汚染物質を垂れ流した会社)の工作で遺族が動かされたのだと推測している。
(以下引用)
《 俗物にはしょせん俗物の写真しか撮れない。》 これは本当だ/笑。
先日ROBERT FRANKが94歳で死んでぼくのなかでは「現代写真」の時代が完全に終わった
ぼくにとっての現代写真を構成した Richard Avedon Diane Arbus William Eugene Smith
Leni Riefenstahl Henri Cartier-Bresson Jacques-Henri Lartigue Ansel Easton Adams
Lee Friedlander Irving Penn Ernst Haas 濱谷浩 土門拳 石元泰博 緑川洋一 渡辺克己
中平卓馬など重要な人物はほとんど泉下に睡る 今後「ポスト現代写真」を牽引力の
象徴はティルマンス/Wolfgang Tillmans だとおもう 彼は単なる写真家というよりは
もっと複合的/綜合的なアーティストで Tillmansはむしろ20世紀美術のマエストロだった
ロバートラウシェンバーグの後継者だろう ホックニー ジャスパージョーンズ ウォーホル
ボブラウシェンバーグなど「現代美術はホモセクシュアルが領導した」とも言えるから
ティルマンスはその意味でも正当な嫡子ということになるだろう 。。
過渡的にはムーヴィーキャメラマンなどの職業写真家も必要とされるだろうが 機材の簡便化
により写真家という業種は消えていくだろう 写真家と操縦士こそ20世紀の新職業だった 。。
私も文章の拙劣な作家は苦手で、たとえば時代劇小説にカタカナ外来語が出るのも嫌いである。ただし、意図的なギャグとして用いるのと、文章への神経が粗雑なために時代劇に外来語を使うのは区別されるべきだろうと思うし、前者の場合でもユーモア感覚が低レベルなためにうんざりする場合がある。高橋三千綱の時代劇小説などがそんな感じだ。
基本的には、作家としての「誠実さ」や「真剣さ」の問題であり、大衆小説だからいい加減な書き方でいい、という作家の作品は一時は受けても長続きはしない。久生十蘭など、無数のジャンルの作品を書いたが、真剣に書いてない作品はほとんど無いと思う。だから長い作品生命がある。
なお、「あらかじめ決められた結末に向かう」作品、つまり登場人物が単に作家の操る人形でしかない作品は私も嫌いで、ミステリなどもほとんどは嫌いである。私が「シャーロックホームズ」が好きなのは、あれはミステリではなく冒険小説で、キャラが絶妙に優れているからだ。
また、私は松本清張は昭和を代表する文豪だと思っているが、彼の推理小説がやはり「あらかじめ決められた結末に向かう」作品でしかなく、数作しか読んでいないがまったく面白いとは思わない。しかし、彼の時代劇小説(特に長編)は、最高のエンタテイメントである。
つまり、小説で大事なのは読者を先へ先へを引っ張る「小説エンジン」だと私は思っているが、謎というのはその小説エンジンのひとつではあるがキャラクターが生きているかどうかほどの重要性は無い、と思う。たとえばジェイン・オースティンの「高慢と偏見」は、主人公の結婚問題がどうなるかという謎しか謎は無いが、それでも読者を先へ先へと引っ張る力は古今無双なのである。それは作中の人物たちが現実の人物よりはるかに面白く、現実の人物よりもはるかに生きているからだ。
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昔の時代小説には平気でカタカナ外来語が使われていた話、存外みなさんに喜んでもらえたんだけど、実はこういう書き方は今は否定されてんですね。前にある人から「直木賞を狙うなら(僕には何の関係もないが)まず文章です。原稿用紙何枚かの間に一つでも同じ形容詞があったらダメとされます」と聞いて