夕刊のちっちゃなニュースを見て描いた作品です。https://twitter.com/geddy_873/status/1192698788940374023 …
「赤毛のアン」が、新聞記事が一番最初の創作動機になったことはあまり知られていないと思う。確か、孤児院から養子を貰ったが、依頼したのと別の子供が「配送」されたという記事ではなかったかと思う。つまり、「赤毛のアン」の始まりとまったく同じ状況だ。だが、それ以前から創作意欲は身体に漲っていて、何を書こうか迷っていたところに、その記事が「燃料に点火した」わけだ。そして、この作品の凄いところは、発端の事件以上に面白い出来事が次から次へと起こっていくという、作者の想像力の豊かさと、「作中の人間が生きている」ことだ。
弓月 光 @h_yuzuki
夕刊の隅っこの五行くらいのニュースでも結構人の心に残る漫画になりますから、何にでもアンテナ広げて置いて損はないです
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「トラブル急行2巻」に掲載の「3DKのサバイバル」です(すてま)https://twitter.com/sodium/status/1192695395945603072 …
「夜の想い」あるいは「夜の思想」あるいは「夜の思想群」という題名は非常に好きで、確かに昼の思想と夜の思想は違うよなあ、と思ったものである。
The Complaint:または、Night-Thoughts on Life、Death、&Immortalityは 、単にNight-Thoughtsとして知られていますが、 エドワードヤングによる長い詩で 、1742年から1745年の間に9部(または「夜」)で公開されています
詩は空白の詩で書かれています 。 それは、彼が妻と友人の喪失を熟考し、人間の弱さを嘆く一連の9つの「夜」にわたる死に関する詩人の黙想を説明しています。 詩の中で最もよく知られている行(「Night I」の最後)は、「原罪は時間の泥棒です」という格言です。これは、詩人が人生と機会がどれほど早く逃げることができるかを議論する一節の一部です。
Night-Thoughtsは出版後何年もの間非常に高い評価を得ていましたが、1797年にウィリアム・ブレイクによる一連の主要なイラストで最もよく知られています。1799年にトーマス・ストザードによってあまり知られていないイラストが作成されました。
9泊はそれぞれ独自の詩です。 それらは「生、死、不滅」( アーサー・オンスローに捧げられた)です。 「時間、死、友情」( スペンサーコンプトン専用); 「ナルシッサ」( マーガレットベンティンク専用); 「キリスト教の勝利」( フィリップ・ヨーク専用)。 「The Relapse」( ジョージリー専用)。 「The Infidel Reclaim'd」(2つのパート、「Glories and Riches」と「The Nature、Proof、and Importance of Immortality」。HenryPelhamに捧げられます)。 「美徳の謝罪;または、答えられた世界の男」(献身なし); そして「慰め」( トーマス・ペルハム・ホールズに捧げられた)。
ジェームス・ボズウェルは、 サミュエル・ジョンソンの生涯で 、 ナイト思考を 「人間の天才がこれまでに生み出した最も壮大で豊かな詩」と呼んだ。
優れたポスターは有名画家の絵よりも多くの人々を感動させ記憶に残る。1964年の東京オリンピックのポスターは、オリンピックに関心などなく絵心も無い私にも、凄い画像だ、と思わせたものだ。ほかにも記憶に残るポスターは多いし、それは美術の成果の一部である。
なお、下ではミュシャの名前が挙げられているが、ここはポスターの絵を芸術として画壇に認めさせた(意図的にそうしたのではなく、偶然的にその契機となったのだが)ロートレックを挙げるべきだろう。もちろん、ミュシャの名を挙げたのはナチスの弾圧を岩淵氏と結びつける意図だとは分かる。だがミュシャの場合はポスター云々とは無関係に「退廃芸術」としてナチスから排斥されたと思うので、実は、九郎氏の論理は少し怪しい。
なお、岩淵氏は「ポスターは芸術ではない」ではなく「ポスターは作品ではない」と言っているが、そちらのほうが意味不明なので、記事タイトルでは「芸術ではない」と変えた。ポスターが「作品ではない」なら何なのか。動植物や霧や雲のように自然に生まれたのか。
いずれにしても、岩淵氏は筑摩書房から著書を出したほどの知性や知識や見識の持ち主とは思えない。(ただし、『ヴァチカンの正体』という署名には惹かれるものがある。確かに、ヴァチカンというのは得体の知れない組織である。)
朝から「ポスターは作品ではない」とかパワーワード流れて来て、しかもそれが芸術界隈の中枢が言っていて頭抱えてる
昔ポスターを描くミュシャを弾圧した政党があるんですよ…ナチスって言うんですが
山本貴嗣 @atsuji_yamamoto 7時間前
まあ、何かの物語のついでに遠景のようにそういう悪党が出ることはあるかもですが、そんなのシリーズもので毎回描いてたらしにます;
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以前もつぶやきましたが、最後悪党を倒してカタルシスで終わるアクション漫画のバリエーションで、動物虐待してる悪党を倒す主人公ってできないかなって考えたことあって、冒頭で悪党が虐待してる動物描く段階で精神が折れるんで無理だってやめました。
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で、彼らの多くが一般人に較べたら天才と言っていい才能の持ち主であることは確かだろうが、その中には絵だけは上手いが物語作りには無能な漫画家もけっこうおり、そういう人々はやはり大物漫画家にはなれなかった。
山上たつひこという漫画家は、奇妙な絵の個性を持っていたが、ギャグ漫画の世界では革命者と言っていい存在で、ギャグ漫画の革命者としては赤塚不二夫に続く天才だったと思う。だが、大物漫画家になったかと言うと、一般的にはそうは見られていないのではないか。作品のレベルは素晴らしいし、業績も凄いが、途中で小説家に転向したせいもあって、たとえばつげ義春あたりと比べられるような異端の作家という位置に落ちついているように思える。もともとギャグ漫画家というのは軽く見られる傾向があるのだ。
本題に入る。
「がきデカ」という作品についてである。これは「サウスパーク」の先取りとも言える作品ではないだろうか。もちろん、少年漫画誌に掲載される作品だから、かなりオブラートに包まれているが、その潜在的なアナーキズムや「良識ぶったもの」への批判の精神など、よく似ていると思う。
私が昔はまったく気にもしなかったのが、なぜこの作品の主人公のこまわり君は「少年警察官」を自称しているのか、という問題だ。もちろん、それは単なる「ごっこ」遊びだと周囲の人間たちは思っているのだろうが、当人はかなり真面目に「警官としての権力」をふるおうとする意思を見せているのである。
つまり、山上たつひこがこの漫画を書いた心の底には、「普通の人間が、ある職業に就いただけで権力を持つ」ことの不思議さ、権力というものの怪奇さではなかったか、と今の私は思う。
それが、「光る風」のような痛烈なディストピア漫画を描いた漫画家が、このハチャメチャな少年ギャグ漫画の底に秘めた牙だったのではないか。