ふとした機縁で上橋菜穂子の「旅人シリーズ」のうち2巻「虚空の旅人」と「蒼路の旅人」を続けて読んだのだが、「守り人シリーズ」とは違って、国家対国家の闘争や国家内の政治関係者同志の闘争などが大筋で、「大人の鑑賞」に耐える作品である。だが、子供受けはあまりしないだろう。また、「守り人」シリーズを読んで性に合わないと思った大人は、「旅人」シリーズは最初から手も出さないのではないか。実のところ、私がそうだったのである。私は守り人シリーズのウエットなファンタジー性(異世界描写)が嫌いで、ところどころのアクション場面はいいな、と思ったが、全体としては「好みではない」作品だった。そもそも、「男が妊娠する(卵を懐胎する)」とか、「女に守られる」いう状況自体が、たとえファンタジーであっても男としては気味がわるい。
「旅人シリーズ」でも、ナユグとかいう異世界(異次元世界)の話は出てくるが、全体としては「政治と人間」の物語であり、骨組みもしっかりしている。これだけしっかりした物語を構成できる能力は大したものだと思う。低年齢向け「松本清張」といったところか。(これは私の最大の褒め言葉である。日本近代の最大の小説家は松本清張だと私は思っている。ただし、時代小説に限定される。)
なお、上橋も松本もそうだが、緻密な作品を得意とする作家は、概してユーモア感覚が欠如していることが多いと私は見ている。ユーモア精神というのは「嘘」を嫌うからそれを笑い飛ばす精神だと考えるなら、長大な物語、つまり「嘘の塊り」を延々と書くことに精神が耐えられないのではないかと思う。
古今東西のユーモリスト、ユーモアのある作家は概して短編小説作家である。数少ない例外がバルザックとドストエフスキーだが、どちらも時々ポツンと笑いを出すだけである。
「旅人シリーズ」でも、ナユグとかいう異世界(異次元世界)の話は出てくるが、全体としては「政治と人間」の物語であり、骨組みもしっかりしている。これだけしっかりした物語を構成できる能力は大したものだと思う。低年齢向け「松本清張」といったところか。(これは私の最大の褒め言葉である。日本近代の最大の小説家は松本清張だと私は思っている。ただし、時代小説に限定される。)
なお、上橋も松本もそうだが、緻密な作品を得意とする作家は、概してユーモア感覚が欠如していることが多いと私は見ている。ユーモア精神というのは「嘘」を嫌うからそれを笑い飛ばす精神だと考えるなら、長大な物語、つまり「嘘の塊り」を延々と書くことに精神が耐えられないのではないかと思う。
古今東西のユーモリスト、ユーモアのある作家は概して短編小説作家である。数少ない例外がバルザックとドストエフスキーだが、どちらも時々ポツンと笑いを出すだけである。
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これ(この担任の言葉)は或る意味哲学的な問題であり、最初から問答無用で大前提とするような思想だとは思わない。
殺人犯を弁護する弁護士などを見る時に感じる嫌悪感は、「殺人という、他人の人権を根底的に否定する行為を行った人間が法律で守られる」理不尽さに対するものである。つまり、他人の人権を否定する人間に人権はあるのか、ということだ。本当に「いつでも どこでも だれにでも」でいいのか。もちろん、法律が犯罪者にも人権を与えるのは、犯罪行為の立証には完全性が欠如し、常に冤罪の可能性があるということへの予防措置ではあるだろう。しかし、そのことと「いつでも どこでも だれにでも」ということの是非を哲学として論じるのは別である。
(以下引用)
殺人犯を弁護する弁護士などを見る時に感じる嫌悪感は、「殺人という、他人の人権を根底的に否定する行為を行った人間が法律で守られる」理不尽さに対するものである。つまり、他人の人権を否定する人間に人権はあるのか、ということだ。本当に「いつでも どこでも だれにでも」でいいのか。もちろん、法律が犯罪者にも人権を与えるのは、犯罪行為の立証には完全性が欠如し、常に冤罪の可能性があるということへの予防措置ではあるだろう。しかし、そのことと「いつでも どこでも だれにでも」ということの是非を哲学として論じるのは別である。
(以下引用)
大人になっても戦争を他人事と思い、娯楽扱いの戦争フィクションを描き、戦争で金儲けをしようとする人間は、この子供の感覚を嘲笑するのだろう。馬鹿なのはもちろん、子供でも持っている、「理不尽な死」への恐怖や「生命の尊重」というまともな倫理観の欠如した戦争マニアのほうだ。
フィクションにはヒロイズムは不可欠だが、死を克服する勇気と、死をまともに見ない軽薄な態度はまったく別である。つまり、「人間は他人の死(「不幸」だったかもしれない)に平然と耐えきれるほど勇敢であるwww」(誰の言葉か忘れたし言葉も不正確だが)ということである。あくまで「他人の死」であり「他人の不幸」なのだ。
私が小説を書くのが苦手な理由のひとつは、たとえフィクションでも「他人の不幸」や「鬼畜のような人物」を描くこと自体が不愉快でたまらないからである。だが、それを避けていては小説は書けない。
フィクションにはヒロイズムは不可欠だが、死を克服する勇気と、死をまともに見ない軽薄な態度はまったく別である。つまり、「人間は他人の死(「不幸」だったかもしれない)に平然と耐えきれるほど勇敢であるwww」(誰の言葉か忘れたし言葉も不正確だが)ということである。あくまで「他人の死」であり「他人の不幸」なのだ。
私が小説を書くのが苦手な理由のひとつは、たとえフィクションでも「他人の不幸」や「鬼畜のような人物」を描くこと自体が不愉快でたまらないからである。だが、それを避けていては小説は書けない。
去年の学芸会のとき、帰ってきた息子の元気がなかった。劇で失敗したのかな?と話を聞いてみたら、高学年の劇に戦争シーンがあって見てたらつらくなったんだそうだ。
「戦争ヤダよ。ぼく、戦争で死にたくない」
と半ベソをかいていた。ほんと、その気持ち忘れんなよ!
「戦争ヤダよ。ぼく、戦争で死にたくない」
と半ベソをかいていた。ほんと、その気持ち忘れんなよ!
竹熊健太郎のツィートだが、これを
「第一次世界大戦で連合国側の人間をもっとも殺したのはドイツではなく、同じ連合国の米国だった」
と読み替えると面白い。なお、米国自体が原住民(インディアン)の大量虐殺で建国された国である。その虐殺の記憶が「自国民や自民族以外を殺すのは悪ではなく(自分たちが生き残るための)善である」という無意識の自己正当化思想となり、伝統化していると思う。
(以下引用)
米軍に最初のクラスターが出ていたスペイン風邪、時あたかも第一次世界大戦の真っ最中で、米国の参戦によって欧州に広まったが、どこも戦争中で疫病蔓延の事実は極秘扱いだった。スペインは中立で参戦しなかったため情報が発信されており、このためスペイン風邪という迷惑な名称になってしまった。
「第一次世界大戦で連合国側の人間をもっとも殺したのはドイツではなく、同じ連合国の米国だった」
と読み替えると面白い。なお、米国自体が原住民(インディアン)の大量虐殺で建国された国である。その虐殺の記憶が「自国民や自民族以外を殺すのは悪ではなく(自分たちが生き残るための)善である」という無意識の自己正当化思想となり、伝統化していると思う。
(以下引用)
米軍に最初のクラスターが出ていたスペイン風邪、時あたかも第一次世界大戦の真っ最中で、米国の参戦によって欧州に広まったが、どこも戦争中で疫病蔓延の事実は極秘扱いだった。スペインは中立で参戦しなかったため情報が発信されており、このためスペイン風邪という迷惑な名称になってしまった。
「思い出のマーニー」は映画の途中だけ少し見たが、画面はきれいで絵がしっかりしているところは良かったが、途中から見たのでは話に乗れず、五分か十分しか見ていない。
下のツィート(漫画家あさりよしとお)を見て、この映画がなぜさほど評判にならなかったのか、分かったように思う。同じ監督の「アリエッティ」でもそうだったのだが、監督自身に話を構成する能力が無いから脚本家にお任せし、その脚本の欠点を把握することができないのだろう。つまり、監督として根本的な欠陥があるのではないか。映像専門で、作画監督などをするべき人だと思う。
その欠陥を端的に言えば、「映像メディアは説明ではなく描写で語れ」という大原則をこの監督は分かっていないのだろう。言葉だけで説明するなら、画面(映像)は何のためにあるのか。ある意味、映像以外に何も無い初期の「映像詩人」監督(名前は失念。「君の名は。」の監督。あ、新海誠)が、映像だけでも多くのファンを得たのも、それが映像メディアの本質にかなっていたからである。無理に話を作った「ジブリのパチモン」アニメでは新海誠は失敗している。脚本に他人の手を入れることで「君の名は」は成功した。
話を作る能力が無い点では細野監督も同じである。原作があり、脚本は他人が書いた「時を駆ける少女」は成功したが、自分が脚本の大筋を書いていると思われる「狼こども」以降は愚作の連発だ。
(以下引用)
マーニーの過去、久子の説明が軸ではなく、映画『砂の器』みたいに、当時の再現で進んでくれていたら、また評価は変わったんだろうけど。
下のツィート(漫画家あさりよしとお)を見て、この映画がなぜさほど評判にならなかったのか、分かったように思う。同じ監督の「アリエッティ」でもそうだったのだが、監督自身に話を構成する能力が無いから脚本家にお任せし、その脚本の欠点を把握することができないのだろう。つまり、監督として根本的な欠陥があるのではないか。映像専門で、作画監督などをするべき人だと思う。
その欠陥を端的に言えば、「映像メディアは説明ではなく描写で語れ」という大原則をこの監督は分かっていないのだろう。言葉だけで説明するなら、画面(映像)は何のためにあるのか。ある意味、映像以外に何も無い初期の「映像詩人」監督(名前は失念。「君の名は。」の監督。あ、新海誠)が、映像だけでも多くのファンを得たのも、それが映像メディアの本質にかなっていたからである。無理に話を作った「ジブリのパチモン」アニメでは新海誠は失敗している。脚本に他人の手を入れることで「君の名は」は成功した。
話を作る能力が無い点では細野監督も同じである。原作があり、脚本は他人が書いた「時を駆ける少女」は成功したが、自分が脚本の大筋を書いていると思われる「狼こども」以降は愚作の連発だ。
(以下引用)
マーニーの過去、久子の説明が軸ではなく、映画『砂の器』みたいに、当時の再現で進んでくれていたら、また評価は変わったんだろうけど。
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冬山想南
性別:
非公開
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