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竹熊健太郎のツィートだが、これを

「第一次世界大戦で連合国側の人間をもっとも殺したのはドイツではなく、同じ連合国の米国だった」

と読み替えると面白い。なお、米国自体が原住民(インディアン)の大量虐殺で建国された国である。その虐殺の記憶が「自国民や自民族以外を殺すのは悪ではなく(自分たちが生き残るための)善である」という無意識の自己正当化思想となり、伝統化していると思う。

(以下引用)


米軍に最初のクラスターが出ていたスペイン風邪、時あたかも第一次世界大戦の真っ最中で、米国の参戦によって欧州に広まったが、どこも戦争中で疫病蔓延の事実は極秘扱いだった。スペインは中立で参戦しなかったため情報が発信されており、このためスペイン風邪という迷惑な名称になってしまった。
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「思い出のマーニー」は映画の途中だけ少し見たが、画面はきれいで絵がしっかりしているところは良かったが、途中から見たのでは話に乗れず、五分か十分しか見ていない。
下のツィート(漫画家あさりよしとお)を見て、この映画がなぜさほど評判にならなかったのか、分かったように思う。同じ監督の「アリエッティ」でもそうだったのだが、監督自身に話を構成する能力が無いから脚本家にお任せし、その脚本の欠点を把握することができないのだろう。つまり、監督として根本的な欠陥があるのではないか。映像専門で、作画監督などをするべき人だと思う。
その欠陥を端的に言えば、「映像メディアは説明ではなく描写で語れ」という大原則をこの監督は分かっていないのだろう。言葉だけで説明するなら、画面(映像)は何のためにあるのか。ある意味、映像以外に何も無い初期の「映像詩人」監督(名前は失念。「君の名は。」の監督。あ、新海誠)が、映像だけでも多くのファンを得たのも、それが映像メディアの本質にかなっていたからである。無理に話を作った「ジブリのパチモン」アニメでは新海誠は失敗している。脚本に他人の手を入れることで「君の名は」は成功した。
話を作る能力が無い点では細野監督も同じである。原作があり、脚本は他人が書いた「時を駆ける少女」は成功したが、自分が脚本の大筋を書いていると思われる「狼こども」以降は愚作の連発だ。


(以下引用)

マーニーの過去、久子の説明が軸ではなく、映画『砂の器』みたいに、当時の再現で進んでくれていたら、また評価は変わったんだろうけど。
漫画家の弓月光のツィートだが、男はメカを描くのが上手で、女は衣服を描くのが上手らしい。それぞれ、「好きこそものの上手なれ」なのだろう。
問題は、なぜ男はメカが好きで女は衣服が好きなのか、ということだ。メカというのは「力の拡大」手段だから、男の闘争本能に通じ、衣服は「美の拡大」手段だから女の性的本能に通じるのだろうか。
なお、私はメカよりも武器が好きで、ただの木の棒でも持っていると嬉しくなる。刃物も大好きだし、道具類は(武器に転用できるので)だいたい好きだ。より原初的な、あるいは幼稚なタイプなのだろう。鉛筆でも一本の紐でも武器になる。


(以下引用)


メカが必要な漫画なら女性作家のところに男が行くのは珍しくもないと思いますよ?一条ゆかりは言わずもがな、青池保子さんの「エロイカより愛をこめて」の戦車とかも男性の手でしょう。 水野英子さんのところでは初めて「日文ペン」というペン先を知りました。
竹熊健太郎のツィートだが、芥正彦とは全共闘の闘士で討論上手で有名だった男らしい。ただし、その文章は「一言も理解できない文章が延々と続く」ものらしく、そこから判断するとその討論とは、「相手に勝てばいい」という、誤魔化しと詭弁と勢いだけのものだったと推測できる。
だが、彼の「ホモフィクタス」という言葉には、魅力を感じる。おそらく、「作り物としての人類」の意味ではないか。人間の本質を「フィクション性」に置いているのだと思う。
そのフィクション能力が人類の高度な文明を作ったわけである。

(以下引用)


芥正彦「ホモフィクタス宣言」より。全ページこの調子でこれが数百ページ続く。これがアングラだ!







「東海アマ」ブログ記事で、趣旨の半分くらいは賛同できないが、参考として転載しておく。
私は、「騎馬民族」という言い方に疑問を持つのである。騎馬民族と言う以上は、モンゴル人のように日常生活のほとんどが騎馬と関係する、牧畜民族であるわけだが、日本にそのような牧畜が古代に行われた形跡があるだろうか。せいぜいが、「労働力」としての牛馬しか身近に無く、「騎馬する」という習慣も希だったと思う。だからこそ義経の騎馬戦法が革新的で有効だったわけだ。それは平安末期のことでしかない。
歴史的に「騎馬民族の渡来」とされるのは、弥生時代だろう。
つまり、大陸系(おそらく朝鮮系)の人々が日本に渡来し、大陸文化(稲作もそのひとつだろう)を伝え、その中心である一族が天皇家の元祖だろうが、それは「騎馬民族」だとは私は思わないのである。騎馬民族なら、馬の背中で育つ民族であり、馬がいれば必ず乗馬をし、それを遊びや戦の手段にしたはずだ。しかし、古代にはそういう形跡は無い。従って、天皇家の祖は、おそらく朝鮮半島での政争に敗れた王族だろう(白村江の戦いで、天智天皇が朝鮮の或る国の救援に大軍を出し敗れるが、なぜそこまで肩入れしたかというと、その国の王家が天皇家の祖だったからだろう。)。
なお、天皇家の祖が大陸からの渡来人であっても、天皇制という政治システムは日本の歴史そのものであり、一朝一夕に排除するのは、貴重な文化遺産と貴重な伝統と日本人の精神の一部の破壊だと私は思っている。逆に、天皇の存在を、政治という不安定な存在の「重石」とするシステムを構築することを考えるのが賢明だと思うわけだ。それは、もちろん天皇絶対主義という邪悪な思想、あるいはそのシステムとは対極的なものであるべきだ。

(以下引用)


いつまでも天皇家を朝鮮由来の大陸系騎馬民族であることを認めない日本社会

カテゴリ : 未分類

 江上波夫が、「騎馬民族征服王朝説」を発表したのは、戦後まもない1947年のことであった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC

 東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないし、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたという説。

 東洋史学者の江上波夫が考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した考古学上の説である。

 この学説は戦後の日本古代史学界に波紋を広げた。手塚治虫が『火の鳥 黎明編』でモチーフにし、一般の人々や一部のマスメディアなどで広く支持を集めたが、学会では多くの疑問も出された。
 支持する専門家は少数派にとどまっているとされている。なお、この説の批判者は、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると主張している。

**************************************************************
 江上説は、なぜ史学界に受け入れられていないのか?

 日本国民に「天皇制絶対主義」の呪いをかけたのは、勝山平泉寺の神主を兼ねた東大史学部教授=平泉澄であった。
 この男こそ、「天皇の万世一系神話=皇国史観」の生みの親である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E6%BE%84

 敗戦後、とはいっても、まだ戦後2年しか経ていない日本の史学界では、「天皇制絶対主義の呪われた洗脳工作」から脱して、自由な思考を回復した研究者など、ごく少数だった。
 神武天皇はBC660年に天孫降臨したとし、日本皇紀は2680年現在であるとする稚拙な神話にすぎないのだが、江上=騎馬民族征服説が、もし戦前に公開されていたなら、瞬時に(たぶん数時間で)逮捕され、不敬罪で場合によっては獄中で、小林多喜二のように殺害されたかもしれなかった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%B4%80%E5%85%83

 まだ、大部分の学者の呪いは醒めていなかったので、「万世一系神話」に洗脳されて完全に凍結した歴史観のなかにいた多くの史学者にとって、江上説は許しがたい不敬であり、天皇制に対する誹謗、脅威に他ならなかった。
 戦前では、ごく自然で合理性のある「天皇機関説」を発表した美濃部達吉でさえ、とんでもない弾圧を受けて追放されたのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 戦後、75年も経て、さすがに学者たちは、天皇制への信仰も醒めて、現実の歴史学に立ち返ることができているかというと、とんでもない!
 日本の天皇制は、戦前と変わらないほど強固に、人々の、現実的根拠から大きく乖離した洗脳妄想のなかに棲んでいる。
 学者たちの多くも、万世一系神話に未だに拘泥している者が多く、すでに100年近い、歴史によって合理性が証明されている、天皇家、騎馬民族由来説を、いまだに、どうしても認められない者が多いのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%B4%80%E5%85%83

 今、ユーチューブを開けると、歴史学者の大半が、右翼系の国粋主義を信奉している連中ばかりで、たとえばチャンネル桜の、武田邦彦や櫻井よしこらが、なぜか優先的に表示され、歴史を学ぼうとしても、皇国史観系の学者による解説動画しか表示されない。
 https://www.youtube.com/watch?v=usEPYPBe_D4&list=PLG1SNOv6LToRvnVkpE5KDJ_esHW4ex4pS

 右翼系学者も、DNA解析を持ち出してはいるが、詳しく調べると、勝手な決めつけばかりで、厳格な学問的根拠とは、とてもいえないで、何でもいいから皇国史観を守りたいという陳腐な発想しか見えない。

 私は、日本人の源流として、
 ①先住民 原人(滅亡したが、「狒々伝説」などに現れるので江戸時代までいた)
 ②先住民 縄文人(アイヌ含む)
 ③呉(蘇州)由来の弥生人
 ④朝鮮半島由来の騎馬民族
 ⑤その他、オロチョンなど
 を認めている。しかも、それは、戦前あたりまで、混血が非常に少ない状態で、数千年前の形質をそのまま残した状態で、日本列島に分布していると考えた。

 戦後は急速に混血が進み、それぞれの民族的形質は大きく失われているが、私は、日本列島の地方、山奥を旅しながら、その民族的特性、痕跡を発見することを趣味としてきた。
 例えば、四国や遠州の山岳居住民たちの文化伝統が、雲南ヒマラヤの高地族に酷似していることや、私の住む、中津川を通る東山道(中山道)沿いに騎馬民族が分布していることなどを発見してきた。
 いわゆる「源平藤橘」武家階級こそ、騎馬民族を受け継ぐ人々であった。

 アマテラスオオミカミが恵那山で誕生したのだが、このとき、実はイザナギ・イザナミが東山道を旅する途中だったことから、アマテラスは神話時代ではなく、東山道の普遍化した古代の人だったのだと理解した。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E9%82%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 最近、私が、日本の民族的混血の歴史を調べていたら、以下のウィキを見つけた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%95_(%E6%B7%B7%E8%A1%80)
 ここには、なんと朝鮮系騎馬民族の記述が皆無であることに驚かされた。
 つまり、この記述を行っている者も、なんとかして、天皇の騎馬民族由来説を否定したい意図が見え隠れしている。

 日本人の混血を語る上で、朝鮮半島経由の騎馬民族、元をただせば、満州女真族に行き着き、さらに始皇帝の秦国に行き着き、さらに弓月国に行き着くことを示さなければ、学問的に何一つ価値がない。
 蘇州(呉国)由来の弥生人にしても、呉越戦争の敗者であった呉国民が、「敗戦国民皆殺し」を免れるため、船を総動員して、海上を移動し、朝鮮南岸や、九州有明海などに上陸したことが学問的に確立すると、皇国史観の始祖である神武が、中国由来ということになってしまうので、これも決して文章化されないのだ。

 だが、中国の史学界では、神武天皇が呉国由来であることは、すでに常識である。
  
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-925.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1006.html

イエズス会ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』は、神武天皇は「呉の太伯」の2番目の弟である季歴の第6代の子孫であるとしている。
 鹿児島神宮(大隅国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。『新撰姓氏録』では、松野連は呉王夫差の後とある。
 日本国内史でも、神武天皇が呉からの逃亡民であることは常識として語られている。

 だが、平泉皇国史観では、あくまでも「天孫降臨」であり、呉越戦争に敗北した民族の子孫などという史実は絶対に許されない。生々しい戦争避難民が日本開祖だったなら、天皇制の権威に傷がつくとでも思っているのだろう。

 ましてや三世紀あたりに、日本文化に突如、騎馬民族文化が持ち込まれ、古墳の様式まで変えられてしまって、AD700年代、百済武寧王の娘(高野新笠)の子が桓武天皇だと、明仁天皇までが発言した。
 https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html

 これを見て、多くの皇国史観系史学者がぶったまげた。天皇自らが、天孫降臨の子孫などではなく、実は、朝鮮系の末裔だったことを明らかにしたのだ。
 これなど、明人氏が、平泉皇国史観のあまりの虚構、性懲りのない嘘八百に嫌気がさして、自分の口から真実を暴露したものであり、天皇家が朝鮮半島由来の騎馬民族である歴史的事実を公言したのである。

 これは、明仁天皇が、事実上、江上波夫=騎馬民族征服王朝説をそのまま容認したのに等しいのであって、自分たちが日本先住民の子孫ではないと主張したのである。
 これで万世一系皇国史観は完全に崩壊し、根拠を失ったわけだ。

 それなのに、相変わらず、江上説が虚構であるかのような論調が史学界で主流になっていて、あらゆる歴史観から、蘇州由来弥生人説と、朝鮮由来騎馬民族説は、事実上、無視され排除されているといってよい。
 これは、学問的な必然であろうはずがない。日本国家を戦前のような強固な天皇専制史観に押し込めたい右翼的な潮流による、政治的な操作なのである。
 おそらく、「日本会議」あたりが、半世紀も前から、再び日本国民に皇国史観を洗脳しようと画策し、江上説を意図的に追放しているのだ。

 明人氏は、民主主義の洗礼を強く受けていて、天皇制から、できるかぎり虚構性を排除したいと願って儀式や形式を最小限に抑制し、ジャンパーを羽織って、災害避難民の元に駆けつけ、避難者と同じ目線で語り合うといった人間性だったので、皇国史観のあからさまな嘘に耐えられず、自らの口で真実の歴史を述べたのだ。

 安倍晋三の背後には、皇国史観を利用して、独裁政治を行いたい連中が集まっている。
 日本会議のメンバーを見れば、彼らが、いったいどんな国家を目指そうとしているのか一目瞭然だ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0

 基本的な思想は、生長の家創始者=谷口雅春や岸信介によるものである。
 結局、彼らの基本的な思想は、天皇制を神格化し、「神の権威」を利用するものである。だから、天皇家が朝鮮や満州からやってきたなんてことがバレれば、無条件に神格的権威にひれ伏す人々が、真実に目覚めてしまうと心配しているわけだ。
 しかし、いつまでも虚構を押し通し、嘘をつけ続けられるわけではない。

 今では、もはや天皇家の足取りは、相当に詳しく解析され、清国・秦国・弓月国との関わりから、古代ユダヤとの関係にまで論議が進んでいる。
 真実を隠し通すことなど、絶対にできないのであり、「日本のなかの女真族」も、これから真正面に取り上げられることになるだろう。

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