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この絵を見るたびに、誰かに似ているなあ、と思うのだが、「シャイニング」のあの奥さんだった。若いころはこんな顔だったのではないか。特に口元や目が似ている。
記事は面白いが、真珠が「錯覚」だというのは言い過ぎだろう。まるで絵描きのミスみたいな言い方である。飾りのフックというか、留め金は描かなくても、見る人が脳裏で補うという計算だったと思う。実際、留め金のことなど誰も疑問に思わなかったのだから。

(以下引用)


AFPBB News

「真珠の耳飾りの少女」 科学調査で隠れた詳細判明

マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査で作成された各種画像を合成した画像。© Sylvain Fleur and the Girl in the Spotlight team マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査で作成された各種画像を合成した画像。

【AFP=時事】オランダ絵画の巨匠ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の世界的名画「真珠の耳飾りの少女(Girl with a Pearl Earring)」(1665年)を所蔵するマウリッツハイス(Mauritshuis)美術館は28日、同作に対し初の科学的調査を行ったところ、モデルとなった少女の「人間味」を高める要素が浮かび上がったと発表した。ただ、少女の正体は依然として謎のままだという。

マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査により浮かび上がった右目のまつげ(右)。© Annelies van Loon: Mauritshuis/Rijksmuseum マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査により浮かび上がった右目のまつげ(右)。

 同館によると、国際科学者チームが2018年2月から実施している調査により、少女の目の周りには肉眼では見えない小さなまつげが描かれていることや、一見何もない背景に緑色のカーテンが存在していたことが判明した。カーテン部分は「折り重なった布地」のようになっており、数世紀の間に黒く色あせたとみられる。

マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査により、絵の右上部分に浮かび上がったカーテン。© René Gerritsen Art & Research Photography/Tom Callewaert: TU Delf/Annelies van Loon: Mauritshuis/Rijksmuseum マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査により、絵の右上部分に浮かび上がったカーテン。

 同館によると、調査では非侵襲性のイメージングやスキャン技術、デジタル顕微鏡法、塗料サンプル分析法を使用。フェルメールが使った顔料や、さまざまな重ね塗りにより作品を生み出した過程が明らかになった。

マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査で浮かび上がった絵の下層部分(右)。© John Delaney and Kate Dooley, National Gallery of Art, Washington マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査で浮かび上がった絵の下層部分(右)。

 例えば、フェルメールは少女の耳やスカーフの上部、首筋の位置をずらして絵の構図を修正していた。世界各地の原料も使い、群青色を作り出すために17世紀当時「金よりも貴重」だったアフガニスタン産のラピスラズリ(瑠璃)を使っていた。

マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査で撮影された、真珠部分の拡大写真。© Hirox Europe, Jyfel マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査で撮影された、真珠部分の拡大写真。

 一方、真珠自体は「錯覚」であり、「白い顔料の半透明で不透明なタッチ」により描かれ、耳飾りのフックは描かれていないという。

マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査で浮かび上がったフェルメールの署名。© Polarised light photograph: René Gerritsen Art & Research Photography/Annelies van Loon: Mauritshuis/Rijksmuseum/Julianna Ly: Mauritshuis マウリッツハイス美術館が実施したフェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の科学調査で浮かび上がったフェルメールの署名。

【翻訳編集】AFPBB News

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絵描きが意外なところから描き始めるのは知っていたし、ある点から別の点へと描く場所がワープして、それが出来上がると全体の統一性が見事にある、というのがプロの絵描きの特徴だと思うが、漫画だとどうなのか。絵画と違って、点から点へのワープはしないようだ。絵描きでも人物画だと線の連続性を重視するかもしれない。(絵は「線」ではなく、画筆で塗られる無数の「面」の集合として物を描くと言うべきか。)
私が感心したというか、意外に思ったのが、刀を持った侍を描くのに、まず刀(抜き身の部分)から描き始めたことで、なるほど、人物そのものより前景にある物体を先に描かないと、後でやり直しが利かないから、位置的に前にある物を先に描くべきなのだなあ、と思った。
もうひとつは、描き始める前にキャンバスを眺め、そのどの位置に何が来る、というのを、筆を持った手で「アタリをつけて」から描き始めたことだ。これは、実際に手を動かして描く前に手の動作の予行演習をすることで、手の動きが正確になるわけだろう。書道などにも応用できそうである。実際、平田弘史は書の達人でもある。

(以下「竹熊健太郎」ツィッターから平田弘史の公開パフォーマンスについてコメント)

下描き無しの筆描き一発でこういう絵が描けるのも凄いが、人物を描く順番が頭ではなく袴からというのも凄い。




ふとした機縁で上橋菜穂子の「旅人シリーズ」のうち2巻「虚空の旅人」と「蒼路の旅人」を続けて読んだのだが、「守り人シリーズ」とは違って、国家対国家の闘争や国家内の政治関係者同志の闘争などが大筋で、「大人の鑑賞」に耐える作品である。だが、子供受けはあまりしないだろう。また、「守り人」シリーズを読んで性に合わないと思った大人は、「旅人」シリーズは最初から手も出さないのではないか。実のところ、私がそうだったのである。私は守り人シリーズのウエットなファンタジー性(異世界描写)が嫌いで、ところどころのアクション場面はいいな、と思ったが、全体としては「好みではない」作品だった。そもそも、「男が妊娠する(卵を懐胎する)」とか、「女に守られる」いう状況自体が、たとえファンタジーであっても男としては気味がわるい。
「旅人シリーズ」でも、ナユグとかいう異世界(異次元世界)の話は出てくるが、全体としては「政治と人間」の物語であり、骨組みもしっかりしている。これだけしっかりした物語を構成できる能力は大したものだと思う。低年齢向け「松本清張」といったところか。(これは私の最大の褒め言葉である。日本近代の最大の小説家は松本清張だと私は思っている。ただし、時代小説に限定される。)
なお、上橋も松本もそうだが、緻密な作品を得意とする作家は、概してユーモア感覚が欠如していることが多いと私は見ている。ユーモア精神というのは「嘘」を嫌うからそれを笑い飛ばす精神だと考えるなら、長大な物語、つまり「嘘の塊り」を延々と書くことに精神が耐えられないのではないかと思う。
古今東西のユーモリスト、ユーモアのある作家は概して短編小説作家である。数少ない例外がバルザックとドストエフスキーだが、どちらも時々ポツンと笑いを出すだけである。
これ(この担任の言葉)は或る意味哲学的な問題であり、最初から問答無用で大前提とするような思想だとは思わない。
殺人犯を弁護する弁護士などを見る時に感じる嫌悪感は、「殺人という、他人の人権を根底的に否定する行為を行った人間が法律で守られる」理不尽さに対するものである。つまり、他人の人権を否定する人間に人権はあるのか、ということだ。本当に「いつでも どこでも だれにでも」でいいのか。もちろん、法律が犯罪者にも人権を与えるのは、犯罪行為の立証には完全性が欠如し、常に冤罪の可能性があるということへの予防措置ではあるだろう。しかし、そのことと「いつでも どこでも だれにでも」ということの是非を哲学として論じるのは別である。


(以下引用)


TNT
@TNTO8698
高校の時の担任の授業「ヤクザに人権はあるか」私たち生徒はほぼ全員「ない、あげたくない」最後に担任はものすごく重々しく「君たち勘違いしちゃいかん。人権は いつでも どこでも だれにでも だ」と言った。今でも覚えている。補償に職業で線を引くな。
大人になっても戦争を他人事と思い、娯楽扱いの戦争フィクションを描き、戦争で金儲けをしようとする人間は、この子供の感覚を嘲笑するのだろう。馬鹿なのはもちろん、子供でも持っている、「理不尽な死」への恐怖や「生命の尊重」というまともな倫理観の欠如した戦争マニアのほうだ。
フィクションにはヒロイズムは不可欠だが、死を克服する勇気と、死をまともに見ない軽薄な態度はまったく別である。つまり、「人間は他人の死(「不幸」だったかもしれない)に平然と耐えきれるほど勇敢であるwww」(誰の言葉か忘れたし言葉も不正確だが)ということである。あくまで「他人の死」であり「他人の不幸」なのだ。
私が小説を書くのが苦手な理由のひとつは、たとえフィクションでも「他人の不幸」や「鬼畜のような人物」を描くこと自体が不愉快でたまらないからである。だが、それを避けていては小説は書けない。
唐沢よしこ
@oomeshi
去年の学芸会のとき、帰ってきた息子の元気がなかった。劇で失敗したのかな?と話を聞いてみたら、高学年の劇に戦争シーンがあって見てたらつらくなったんだそうだ。
「戦争ヤダよ。ぼく、戦争で死にたくない」
と半ベソをかいていた。ほんと、その気持ち忘れんなよ!














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