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小田嶋隆のブログ記事の一部だが、この芸能界や出版界の話は、銀行業界の「信用創造」に似ている。何も無い紙に数字が書かれただけで、(銀行自体にそのカネが存在しなくても)世の中にカネが突然生まれる、というあの詐欺行為である。
プロデュースというのは、創造行為ではなく、「仲介行為」「創造援助行為」であるが、それが、その名前に「プロデュース(生産・創造)」という言葉が入ることで、誤解を招いている。つまり、無から有を生んでいるのではなく、既にある誰かの作品を世に出す行為である。創造価値は当然、作った人に所属するが、それをプロデュースする者がいないと作品や作者は世に埋もれる。
そういう意味では、「信用創造」とは違う面があるが、詐欺師的部分が大きいという点では似ている。まさに、「世に出してやる」ことで、世間への信用を創造してやったわけだ。

(以下引用)


 テレビタレントの例を引くと、ずっと直感的にわかりやすくなると思うので、以下、芸能人の「実力」の話をする。

 芸能人の「実力」は、そのほとんどすべてを「知名度」に負っている。で、その「知名度」の源泉となるのは、メディアへの露出度で、メディアへの露出量を担保するのは、そのタレントの「実力」ということになっている。

 ん? この話はいわゆる「ニワトリとタマゴ」じゃないかと思ったあなたは正しい。

  1. 知名度があるからみんなが知っている
  2. みんなが知っているから愛される
  3. 愛されるからタレントとしての実力が認められる
  4. タレントとしての実力があるから出演のオファーが来る
  5. 1に戻る

 つまり、最初に誰かのおまけでも何でも良いからテレビに出て顔を売れば、その顔を売ったという実績が自分の商品価値になるということだ。
 ライターも実は似たようなものだ。商業誌に連載を持っているからといって、そのライターがとびっきりに文章の上手な書き手であるわけでもなければ、人並みはずれて頭が良いわけでもない。正直なところを述べれば、一流の雑誌に書いているライターの中にも、取りえのない書き手はいくらでもいる。

 それでも、一度業界に「座席」を占めたライターが仕事を失わないのは、業界の編集者たちが「◯◯誌に書いている」という実績を重視する中で、「実力」と称されるものが仮定されているからだ。
 行列のできるラーメン屋の構造と同じだ。誰もが行列のケツにつきたがる。そういうくだらない話だ。

 そんなわけで、キャスティング権を握っているテレビのプロデューサーや、編集権を手の内に持つ雑誌の編集者は、言ってみれば、タレントやライターの「実力」を自在に生産・配布する利権そのものなのである

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幼い子供が怖がって、観るのから逃げたがることで有名な(と言うか、私の娘と某漫画家の二例しか知らないがwww)アバンタイトルだが、こういう肯定的な考えは初めて見た。
私は、大衆娯楽の快感の基本は高揚感と上昇感にある、と考える者だが、最初から高い位置にいると後は下降するしかないわけで、上昇感覚のほうがより重要だと考えている。
「未来少年コナン」のアバンタイトルは、物語全体の構造の一部として見事に組み込まれているわけだ。実作者ならではの北原氏のコメントだと思う。

(以下引用)
北崎 拓@月に溺れるかぐや姫、ますらお 連載中!
@takukitazaki
始まった!
毎回このギガントのアバンから入るのって、物語の根底がただ事じゃなく不穏でイイよね。後はアガるしかないって逆に希望を感じるというか(*´д`*)
#未来少年コナン




漫画家山本貴嗣のツィートだが、「バカなので」は卑下慢(一見卑下しているが、実は高慢さの表れ)である。一日に何度もツィートする人間が自分を馬鹿と思っているわけがない。
要は、「創作に影響が出るほと楽にカネを稼いだ」経験が無いだけの話で、それを自分から認めると自尊心が傷つくのだろう。
真面目に言って、下の問題の実例はたとえばあずまきよひこである。「ダンボー」でカネが流れ込んだために、創作意欲が激減し、おそらく再起不能に近い状態になっている。



山本貴嗣
@atsuji_yamamoto
パッションに影響が出て創作ができなくなるほど楽に金を稼げるってどういう才覚なのかバカなのでよくわからない>RT


思想というより、考察のヒントとして面白い。
確かに、遊牧民族はリーダーシップというものを非常に重んじる。その最大の例証が、部族の長を決めるのに、血統主義を用いないことだ。部族の中で最も優秀な人間が長になる。それでなければ、野獣との闘争や他部族との闘争に勝ち抜き、部族を存続させられないからだろう。のちに元が当時の文明世界のほとんど制覇したのは、まさにその「闘争能力」の卓越によると思う。だが、いったん築いた帝国を維持する能力には乏しかった。そもそも、制覇した土地の住民は定住民族であり、その支配システムが遊牧民族には無かったのだ。その反省が清朝にはあったのだろう。
民族的精神としてのリーダーへの強い信任というのが、ソ連におけるスターリン(共産党)の独裁政治を招いたというのは興味深い考えだと思う。つまり、ソ連人は、遊牧民族の末裔でもある(あった)、ということか。


(以下引用)

世に倦む日日 @yoniumuhibi

私の個人的な見解だけれど、一党独裁の共産党支配のシステムには、(マルクス以上に)レーニンの思想の影響が色濃くて、ロシア人の本来的な社会的感性が強く反映されている。その歴史的な起源と由来はモンゴル人の遊牧集団のリーダーシップと社会システムだ。司馬遼太郎がヒントになる話をしていたが。
 

佐藤さとるのファンタジー論だが、私もこれに近い考えだ。だが、これはファンタジーに限定せず、普通の小説にも童話にも漫画にも言えることだろう。つまり、読み手の脳内に「もうひとつの現実」を作るのが、フィクションの本質だ。
私と同じ考えだ、というのは、たとえばSFなどでも、描写のリアリティが無いと読者にはその「世界像」は伝わらないし、興味や感動を生むこともない、ということだ。ただし、そのリアリティは「疑似リアリティ」である。細部の描写ひとつでフィクションの「観客(受容者)」は、その世界と一体化する。
たとえば、アラン・ドロンの「お嬢さんお手やわらかに」の中で、主人公のハンサムなプレイボーイ(男の敵! www)が、部屋でひとりで勉強をするシーンひとつで、観客の男性の多くは「自分と同じだ」と彼に感情移入をする。そうした細部の描写が作品に生命を吹き込むのである。

(以下「竹熊健太郎」のツィッターから転載)

見えないもうひとつの現実(じつは非現実)をも、やすやすと創りあげる能力を備えているのである。」 そして佐藤は、「ファンタジーとは本来あり得ないことを、あり得るかのように書いてみせる芸だ」と言います。そのために必要なものは「リアリズム」なのだと。
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