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モームの「世界の十大小説」のディッケンズについての部分で、モームはディッケンズの人物設定の手法をこう書いている。

「ディケンズが普通用いた人物を作り出す方法は、モデルの持つ性格上の特徴や癖や弱点を強調すると同時に、それぞれの人物に何かある一つの決まり文句ないしは一連の決まり文句を折りあるごとに使わせて、その人物の本質を読者に強く印象づけるという方法である。」

これは現代では特にある種のアニメなどで使われる手法で、ただし、それは「その人物の本質」とはあまり関係のない、「無理やり装着させた特徴」である。「とある」シリーズだとそれが極端化して使用されていて、臭みを感じる。なお、人物とは別としてもいいが、ロボットアニメだと、敵ロボットと味方ロボットの区別すらつかないほどワンパターンであり、エヴァンゲリオンの「使徒」などは特殊な例外だが、あれはロボットとも怪物ともつかない存在だ。
ちなみに、モームは「実在人物をモデルにして小説内人物を作る」のが小説の正道だという考えで、私はその考えに賛成しない。そういうやり方をする限り、ドストエフスキー的な人物や、バルザックのヴォートランのような人物の創造はできないと思う。

なお、「デイヴィッド・コパフィールド」の中の人物で、私は記憶にないが、ステアフォースという人物のキャラクターをモームは褒めていて、この人物の特徴をこう書いている。

「ディケンズは、この人物の持つ魅力、上品で優雅な態度、その友情、親切、あらゆる種類の人と折り合って行ける好ましい天分、その賑やかな性質、勇気、利己心、破廉恥、無謀、非情について語って、すばらしい感銘を読む者に与える」「この人物においてディケンンズは、その行くところがどこであれ、行った先々に喜びをもたらし、立ち去ったあとに不幸を残すという、私たちの大抵が経験して知っている例の型の人物を描いたのである」

こういう、陽性で社交的で周囲の人気者である人物が、実は利己的で残忍で破廉恥で無謀で非情だというのは何となく理解できる。実際、女性の不幸も幸福もこの種の人間がもたらすことが多いはずだ。その友情も親切も嘘ではないが、自分の欲望の追及と利己心のほうが本質なので、いざとなれば「破廉恥、無謀、非情」な行為を平気でやるのだろう。
実は私の身近にもそういう人物がいるのだが、その人生で女に不自由したことはなさそうで、自分の行為への反省は無く、自分の失敗や不運はすべて誰か他人のせいと本気で思っているようだ。

こうした「社交的なエゴイスト」というのは、社会で一番成功しやすいのではないかと思う。ひろゆきとかホリエモンとかガーシーなどもそれに近いようだ。まあ、そういう生き方は私の好みではないが、「小説のキャラ」には最適だろう。陽性の人間がエゴイストというのはあまり一般には信じられないかもしれないが、実際、「行った先々に喜びをもたらし、立ち去ったあとに不幸を残す」というのは、その人物のエゴイズムや無責任さの結果なのである。周囲が彼に好意を持つので、その不始末を厳しく追及しない。それに味を占めて、ますます無責任さが身上となるのである。これが「地下室の手記」の主人公のようなタイプのエゴイストだと、そもそも地下室から出ないから社会にはまったく迷惑をかけないわけだ。




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小池一夫 @koikekazuo

虚淵玄さンは、キャラクター思考(シンキング)を幼い頃からしていたそうだ。そして心の中に生まれた悪のキャラクターを、理解し、囚われてしまいそうになったという。だからキャラクター中心の作劇からストーリー中心の作劇に切り替えたのだと。(小池一夫)

  2012-01-30 19:20:59
小池一夫 @koikekazuo

虚淵さンは、キャラクターシンキングは「諸刃の剣」だという。悪のキャラクター、闇のキャラクターにも、人は感情移入し、囚われてしまう事があると。ニーチェのいう様に、心の深淵を覗いた時、深淵の中の怪物も自分を見ている。そして、時にそれに喰われてしまう。(小池一夫)

  2012-01-30 19:21:23
小池一夫 @koikekazuo

キャラクターシンキングは時に、産みの親である人の心に逆襲する事もある。キャラクターシンキングには、抜き身の刃物を扱う様に修行が必要なのだという事を、彼は教えてくれた。(小池一夫) http://t.co/jT6REXRD

  
ここのところずっと「涼宮ハルヒ」シリーズを読み続けていたが、「驚愕(前後編)」で一応終わりのようだ。と言うか、その後は出ていないのではないか。
「驚愕」の後書きに書いてあったが、その執筆段階からかなりスランプ状態だったようだ。
で、「驚愕」の内容も、かなり無理に書いた印象がある。話の中心の出来事がかなり意味不明で、説明も曖昧である。まあ、未来人の藤原が時間改変をしようと企んで、そのためにハルヒの殺害を企図した、みたいな印象だ。問題は、そこにハルヒ自身がほとんど出て来ないことで、結局キョンが完全に主役である。世界を変え得る神にも等しいハルヒの能力が他者によって奪えるとか、ハルヒ自身を簡単に殺せるというのが実に理不尽な印象だ。
まあ、「自分が神であることに無意識な神」というのが「涼宮ハルヒ」物語の最大のキモではあるが、ハルヒを害する計画を立てている連中が、なぜハルヒ自身と接触せずキョンとしつこく交渉したり脅したりするのかが分からない。その説明がほとんど無いのである。明確に、ハルヒの無意識を動かす最大要因がキョンであるから、と説明すればいいのだろうが、そうすると、「キョンの一人語り」という設定ではやりにくかったのだろうか。
まあ、いずれにしても、ハルヒシリーズの中では一番、出来が悪い。個々のキャラの性格もほとんど活かされていないし、国木田など、キャラ自体が「違う」印象だ。ここまで自己言及するキャラではなかったと思う。谷口と九曜がかつて付き合っていた、という設定もあまり生きていない。何より、SOS団のメンバー、特に長門有希がほとんど活躍しない。だから、キョンが駄弁を延々と垂れ流すだけになっている。
まあ、作者自身が、飽きたのだろう。
要するに、同一人物たちの並行世界をふたつに分けて描写して、最後に統一するという「仕掛け」だけが先行して、肝心の「物語」がいい加減になった印象だ。
ついでに言えば、「驚愕」の中でハルヒが驚愕する場面はほとんど無い。驚愕するのはキョンだけだ。むしろ、前作の「分裂」をこちらの作品の題名としたほうが内容には合っている。

以上、ケチばかりつけたが、このシリーズが、ライトノベルの金字塔であるのは疑いがない。大いに楽しく読ませてもらった。



「silverfish files」という読書感想ブログの記事の一部で、ディッケンズの「大いなる遺産」のラストの一文の解釈だが、翻訳者の訳もブログ筆者の訳も間違いだと思う。
私の解釈(訳)は

「(彼女の別れ方には)それ以外の別れ方もあるという陰影は見えなかった」

である。partingを「別れ」とせず「別れ方」と考えれば簡単である。なお、この記述の後で、ディッケンズが原作を出版した時の初版の最後のシーンが書かれているが、それがまさしく私の上記の内容なのである。つまり、第二版以降に曖昧な表現に改悪したのだろう。


(以下引用)

そして物語のラストシーン。40近くなったピップとエステラは、ミス・ハヴィサム邸の廃墟で偶然再会する。二人ともさんざん辛苦をなめた後である。エステラにもかつてのとげとげしさはないが、毒気と一緒にバイタリティまで抜けてしまっている。ピップに対し「離れ離れになってもいつまでも友達でいましょう」なんて言う。もう別れる気があからさまである。だがエステラへの想いが捨て切れてないピップには、「再びエステラと別れるという陰影は少しも見あたらなかった」。
 これがこの長編の最後の文章。なんだかわかったようなわからないような文章だが、原文は、"I saw no shadow of another parting from her."。つまり、「またエステラと別れることになるとは、全然思えなかった」という意味だろう。だが、それはあくまでピップがそう感じているにすぎないのだ。
谷川流の涼宮ハルヒシリーズは、アニメを見たのが1,2年前で、原作小説を古本屋で買って読み始めて1年くらいかと思うが、もちろん全作品は揃っていない。それどころか、同じ作品を何度も買っているのは、その作品タイトルが記憶できないためである。まあ「消失」だけは記憶できるが、それ以外は無理だ。従って、作品内容もほとんど覚えていない。ひどい場合は、同じ作品を半分くらい読んでから「あっ、これは前に読んだやつだ」と気づいたりする。
まあ、同じ作品を何度も楽しめるとも言えるから、ボケも悪いばかりではない。
で、「憤慨」の中に出て来る、キョンの書いた「恋愛小説」には、2度目も騙されてしまったのである。つまり、最初に読んだ時もあまり真面目に読んでいなかったので、これがいかにトリッキーな推理小説であるかが分からなかったわけだ。「恋愛小説」だという前提で読んだので、そうとしか思えず、その「推理小説」性を忘れていたので、二度も騙されたのである。
要するに、我々は「与えられた前提で思考する」ことが完全に習慣化しているために、実に騙されやすい存在になっているということだ。この場合は「恋愛小説」として提出されたら、そういう目でしかその作品を読まなくなるのである。これは人間性への鋭い問題提起だろう。
ちなみに、このキョンの小説のトリックは、日本の推理小説の傑作のひとつとされている(かどうかは知らないが、その年度の代表作だと思う。)「葉桜の季節に君を想うこと」と同じである。あの作品は、作中の事件自体よりも、作中で最後まで隠された「ある事実」によって読者をあっと言わせたのだが、キョンのこの「恋愛小説」がまさにそれと同じであり、ある意味では、これが推理小説の基本かもしれないと思う。つまり、「作者が『肝心の事実』を隠して話を進めれば、ミステリーになる」ということだ。
これを「叙述トリック」と分類してもいいが、推理小説全体がそうだと言ってもいいと思う。
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