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前に書いてからかなり長い間、時間が経っているので、前に書いた部分を忘れそうだが、まあ、どうせ真面目に読むほどの作品ではない。で、前回の最後の部分は「ナシ」にしておく。

セ・ラ・ヴィ(4)

私には、ひとつの特徴があって、それは何かというと、「自分の命が無くなること(死ぬこと)への恐怖がまったく無い」ということである。それより、青虫や毛虫を見たり触ったりすることのほうがはるかに怖い。そもそも、死ぬことがなぜそんなに怖いのかが私には分からないのである。死ぬことは、自分の存在が無くなる、あるいは自分の意識が永遠に無くなることであり、死んだ後に苦痛などがあるわけではない。つまり、死の際の苦痛を恐れるのは分かるが、死ぬことがなぜ怖いのか、私には分からないのである。
いくつくらいの時だったか覚えていないが、私は三輪車に乗っていて、その三輪車が坂の途中の道路が凍った部分で滑って坂の傍の崖から転落しそうになったことがあった。
その時、私は、このまま三輪車に乗っていたら、崖から三輪車ごと落ちるな、と冷静に「計算」して、自分の体を道路の崖と反対側に投げだし、三輪車は崖から転落した。たぶん、「計算」し始めてから体を投げだすまで、1秒弱だったと思うが、それが私には5秒くらいの長さに感じられ、むしろ悠々とその行動を行ったのである。そして、その間、恐怖はまったく感じなかった。
その経験以来、自分には死への恐怖が無いこと、そして、必要な時には驚異的な速度で思考ができることを私は確信しているのである。あるいは、体を動かす速度も速くできるのかもしれない。
しかし、日常的にはそういう「生命の危機」はほとんど生じないので、私はべつに他の子供より思考の速度や運動の速度が速いわけでもなんでもない。ただ、死への恐怖が無いのは私にはいわば平常運転なのである。ということは、怖いものも別に無いということだ。青虫や毛虫が怖いと先に書いたのは、恐怖ではなく「嫌悪感」なのである。
で、私は「恐怖心が無い」というだけで、いわば他の子供よりはるかに「人生のアドバンテージ」を持っていたと思う。幼児期から青年期の苦悩のほとんどは、「いわれのない恐怖感」から来ているらしいからだ。たとえば、他人から嫌われることへの恐怖や、人前で恥をかくことへの恐怖。これは、自己愛の当然の帰結でもあるが、だいたいは「妄想的恐怖」なのである。そもそも、他人はあなたが思うほどあなたの事を見てもいないww みんな、自分のことを考えることで忙しいのだ。
前に書いた、運動面での劣等感も、「劣等感を持って生活する」デメリットのほうが大きいと理解してからは、まったく気にしなくなったのだが、そもそも、私が運動が苦手なことをからかったり馬鹿にしたりする子供がいたわけでもなく、すべては私が勝手に「きっと周囲から馬鹿にされるだろう」と妄想しただけである。
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