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アガサ・クリスティーの「ABC殺人事件」のネタバレになる可能性もあるので、そういうのが嫌いな人は、以下の記事を読まないほうがいいかもしれない。ただし、作品を半分まで読んだ時点での私の推理を書くだけだから、真の意味でのネタバレにはならないが、そこまでの話に関する記述は避けられないから、初独の楽しみを幾分か毀損する可能性はある。
で、私の推理が正解なら、むしろそのことは、クリスティーの作品が基本的にフェアプレーであり、クイーンのような、謎のための謎、不自然なトリックの作品ではないということであり、推理小説初心者にとっては理想的な作品だということだ。
で、実は、私の推理は、この作品の冒頭(あるいは表紙裏)の人物紹介だけで半分は終わっており、作品を半分ほど読んだ時点でほぼ確信したのである。事件の構造は「ABC殺人事件」というタイトルだけで暗示されている。つまり、Dは「必要ない」のである。その証拠に第四の事件の被害者はDという頭文字の人物ではない。そこまでは地名の頭文字と人名の頭文字が常に一致していたのに、である。さらに、AとBの事件では殺された人物を殺して利益のある人間がいない。どちらも貧しいか庶民である。怨恨による殺人なら、他の事件と連続する犯罪のはずがない。で、Cの事件では殺された人物は資産のある人間で、しかも、その資産の相続者は余命短い病人だ。とすれば、その財産を最終的に相続する者が犯人だろう、というのは論理の必然だろう。そうでなければむしろ驚きだ。AとBはCの偽装のための殺人だったのである。(細かく言えば、Cの殺人予告手紙がポワロの手に届いたのが、殺人阻止がほぼ不可能な日時だったことも、Cが本命だったことを示している。)これを書いているのは、総ページ317の途中の138ページ時点である。
まあ、基本的には「死体を隠すなら死体の山の中」という、おそらくチェスタトンが最初に示したアイデアの発展形である。あるいは、逆に、このクリスティの作品からチェスタトンがアイデアを得たのか?


(5月25日追記)念のために調べてみると、中村大介という人のブログに、次の一節があった。私と法月綸太郎は同じ意見であるわけだ。


法月綸太郎は、本作における「一連の無関係な被害者グループの中に、本当に殺したい相手を紛れ込ませる」というモチーフは、チェスタトンの「折れた剣」(1911)の中核的なトリック — 殺した死体を隠すために戦場で死体の山を築く — を連続殺人に応用したものだと指摘している(408-409頁)。つまり、〈無謀な戦によって戦場という空間に匿名の死体の山を築くことで、殺人死体を隠す〉ことから、〈連続殺人によって都市に死体の時系列的な山を作ることで、殺したい相手を隠す〉ことへと、着想を転換しているということである。ここには、確かにクリスティーの優れた創意が見られる。

 しかし、この「戦場の空間における死体の山から都市の時系列的な死体の山へ」という変化は一体、いかにして可能になっているのだろうか。言い換えれば、二つの着想のいわば「転轍機」となっている探偵小説的な仕掛けとはなんだろうか — 以下ではこの点を考えてみたい。





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