【きっかけ】
今からちょうど100年前の1914年6月28日(日曜日)、ボスニアの首都サラエボを訪れていたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が「黒い手(ブラックハンド)」と呼ばれるセルビア人民族主義者たちの秘密結社のメンバーにより暗殺されました。

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フランツ・フェルディナント大公一家(出典:ウィキペディア)

当時のバルカン半島は、ギリシャ正教徒を中心とするセルビア人、ローマン・カトリック教徒が主体のクロアチア人、回教徒など宗教的、人種的に入り乱れており、長くオスマン・トルコ帝国の支配下に置かれていましたが、1877年に露土戦争が起こり、その結果、セルビアは新しい支配者、オーストリアの支配下に置かれることが決まります。セルビア人が目指したのは独立であり、オーストリアに併合されることでは無かったので、反オーストリア機運が高まったというわけです。

【オーストリアがセルビアを懲らしめるにはドイツからのOKが必要だった】
さて、皇太子を殺されて、支配者としての面目をつぶされたオーストリアがセルビアを懲らしめるにあたって、オーストリアは背後を固める意味でドイツからの同意を必要としました。ドイツ皇帝ウイルヘルム二世は日頃からオーストリアの拡張主義に不安を抱いていましたが、皇太子が暗殺されたという重大事件の後とあり、ここでオーストリアがセルビアを懲らしめるのは仕方ないだろうと賛成の意を表します。

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ウイルヘルム二世(出典:ウィキペディア)

【ロシアが出てくる理由となった汎スラヴ主義とは?】
セルビア人には同じ地域に住むクロアチア人、ブルガリア人などと同様、人種的にはスラヴ系が多いです。なおポーランド、チェコ、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアもスラヴ系です。

ロシアはオスマン・トルコがだんだん衰退する様子を見ると、南進するために汎スラヴ主義を提唱します。汎スラヴ主義はロシアの領土的野心を隠すためのカモフラージュとも言えますが、少なくとも口実としては「おなじスラヴ系だから」という理由で、セルビア支持に回ったわけです。

日露戦争に負けた後、ロシアは国内でのストライキや国民の不満が高まっており、対外戦争こそ国内の不満をそらす最善の道だという考え方がおこります。

【フランスはなぜ巻き込まれた?】
フランスにとってビスマルクが構築した強いドイツは脅威でした。そこでドイツをけん制するために、ロシア、イギリスと三国協商を結びます。これはドイツ、オーストリア、ハンガリーから成る三国同盟に対抗する同盟とも言えます。フランスは当時、ロシアとの関係をとりわけ重視しており、ロシアが動き始めれば、すぐにそれを支持に回る考えを持っていました。

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クレマンソー(出典:ウィキペディア)

【イギリスの動き】
イギリスは島国であるということもあり、こうした大陸の動きとは少し距離を置く立場にあり、逆にいえば紛争の調停役を果たす可能性が期待されました。しかし同国の相対的な地位はすでに低下しつつあり、イギリスの調停に耳を貸す国はありませんでした。ひとたび戦争がはじまるとイギリスは「ベルギーの中立を守る」ためという名目でフランスを支持する側で参戦します。

【オーストリアのセルビアに対する最後通牒】
オーストリアは1914年7月23日にセルビアに対し最後通牒を出し、28日にセルビアに対し宣戦布告します。ロシアは30日に総動員をかけます。ドイツは31日に宣戦布告をします。ちょうどオーストリアがセルビアに戦争を仕掛けるためには、背後のドイツとの関係をしっかり固める必要があったのと同様、ドイツがロシアと戦うためには、まず背後のフランスを叩いておく必要がありました。こうしてドイツとフランスの戦争が始まったわけです。


【近代戦争と西部戦線のこう着】
ドイツはルクセンブルグ、ベルギー経由でフランスに入り、パリまであと50キロまで迫りますが、ドイツ、フランス両軍の弾薬の消費量は開戦前の予想の10倍であり、激しい消耗戦になりました。10月頃までには戦闘は塹壕戦となり、西部戦線はこう着します。

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ベルダンのフランス兵(出典:ウィキペディア)

【東部戦線】
一方、ロシアは東プロイセンに侵入し、ドイツ軍と交戦します。寡兵のドイツ軍はタネンベルグの沼沢地帯にロシア軍をおびき寄せ、ロシア軍を殲滅します。しかしこれはドイツ軍にとって決定的な勝利にはならず東部戦線もこう着します。

【第一次大戦のコスト】
第一次大戦がどれだけ大きかったかを物語る数字として、直接、戦争で死んだ兵士は900万人と言われています。負傷者数は1,800万人を数えます。これに加えて飢餓、伝染病などから多くの民間人も死にます。

【米国の動き】
当時のアメリカはウッドロー・ウイルソンが第28代米国大統領を務めていました。ウイルソンは理想主義者でした。彼は砂糖などへの関税を撤廃することで、輸入品の仕入れコストを下げ、消費者への価格転嫁を避ける政策を打ち出しました。これによる税収減を補うため、お金持ちほど税金が高くなる、累進課税という考え方を導入しました。また公平競争確保のため、反トラスト法、連邦準備制度理事会(FRB)の設立など、多くの功績を残しています。

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ウイルソン(出典:ウィキペディア)

【世界の番犬としてのアメリカのルーツ】
ウイルソンは南北戦争経験者なので、戦争が大嫌いであり、それまでの米国が貫いてきた、対外不干渉主義を堅持するつもりでした。

しかしルシタニア号が沈められ、アメリカの民間人が戦争に巻き込まれたことから、世論を抑えることが出来ず、主戦派に転じます。

このときウイルソンは「民主主義を擁護するため、世界を安全にしなければいけない」という考えを打ち出します。つまり国際政治にモラルの概念を持ち込んだのです。

第一次大戦が終結する際、彼は「十四か条の要求」を掲げ、とりわけ国際連盟の設立を提唱します。

ウイルソンの考えた国際連盟とは世界のどこかで紛争がおきると、先ず世界各国のリーダーが全員集まり会合をひらき、話し合いで解決しないときは世界の共同軍が平和を維持する……という、ある種、NATO軍のような武力の後ろ盾を持った警察権力を想定していました。

しかし米国議会はこれを承認せず、肝心要のアメリカがこの構想から抜け落ちてしまうという結果に終わります。このため国際連盟は、骨抜きの、妥協の産物になります。

【変わる世界地図】
第一次大戦の前と後で、オーストリアとトルコの領土が狭まったことが目につきます。オスマン・トルコはアラビア半島を含んでいましたが、アラブ人の独立を目指す汎アラブ主義が台頭し、イギリスがこれを支援したため、アカバ、ダマスカスなどの拠点を次々に失いました。

このアラブ人の蜂起を支援したのが「アラビアのローレンス」であり、そのリーダーがファイサルというわけです。

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ファイサル(出典:ウィキペディア)

しかしイギリスは第一次大戦の終結前にフランスと「戦後の中東の山分け」に関しサイクス・ピコ協定という密約を結びます。そこではフランスはレバント(シリア、レバノンなど)を取り、イギリスはメソポタミア(イラク)を取るということが決められました。

折角、シリアのダマスカスまで攻め上り、アラブ人を解放したファイサルは、シリア王の立場を一年足らずで追われ、イギリスが作った新しい国、イラクの王として迎え入れられます。

【新しい概念、新しい問題】
第一次大戦をきっかけとして新しいイデオロギーが二つ登場しました。

アメリカでは、先に述べたように「民主主義を擁護するため、世界を安全にしなければいけない」という考えが、これ以降、定着します。

ロシアでは革命が起き、レーニンが階級や国境にとらわれない、社会主義的世界というビジョンを提唱します。

この二つのイデオロギーは、冷戦というカタチで、後々まで尾を引くわけです。

アメリカとロシアは当時の新興国としてお互いに成長を競います。アメリカが「ローリング・トウェンティーズ」という、『華麗なギャツビー』に描かれた金ピカの繁栄を謳歌する一方、ロシアも帝政時代の後進性からようやく脱却し、ちょうど南巡講話後の中国のような、長期に渡る高度成長の時代に突入してゆきます。

これとは対照的にフランス、ドイツ、イギリスなどの国々にとっては、国富の散財と相対的な経済的地盤沈下が起きました。

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それまで王族同士が外国のロイヤルファミリーと姻戚関係を結ぶことで維持されてきた協調関係は崩れ、イデオロギーや武力による秩序の構築がなされるようになりました。これはイタリアやドイツの場合、ファシズムというカタチに発展しました。

(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack