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社会主義者として[編集]

1920年頃

1905年(明治38年)3月、週刊『平民新聞』の後継紙である『直言』に堺利彦が書いた紹介記事によりエスペラントを知り、1905年(明治38年)7月に東京外国語学校仏語学科選科を修了[16]し、同年から翌年にかけ東京市本郷にある習性小学校にエスペラント学校を開いた。

1906年3月には電車値上反対の市民大会に参加し、電車焼き討ち事件に関与したとして、兇徒聚集罪により初めて逮捕されたが、6月に保釈となった。同年11月には『光』紙掲載の「新兵諸君に与ふ」で新聞紙条例違反で起訴され、以降、主に言論活動で社会主義運動に関わっていった。

1908年(明治41年)1月17日、いわゆる屋上演説事件[17]治安警察法違反となり逮捕された。同年4月、中国人留学生の劉師培の家で留学生にエスペラントを教えた。

同年6月22日、錦輝館に於ける山口孤剣の出獄歓迎会で赤旗を振り回し警官隊と乱闘(赤旗事件)でまたもや逮捕。それまでの量刑も含み、2年6ヶ月近くの千葉刑務所での刑務所生活を送った。 獄中でさらに語学を学びアナキズムの本も多読。

1910年(明治43年)9月、千葉刑務所から東京監獄に移され、幸徳秋水らの「大逆事件」に関連した取調べを受けるが、検挙は免れる。11月に出所。堺利彦らとともに売文社をつくる。

1911年(明治44年)1月24日、幸徳たちが処刑され社会主義運動が一時的に後退する中で、大杉は荒畑寒村とともに1912年(大正元年)10月『近代思想』、1914年(大正3年)10月『平民新聞』を発刊し、定例の研究会を開き運動を広げようとする。しかし発禁処分の連続から経済的にも行き詰まる。このころチャールズ・ダーウィンの"The Origin of Species"を『種の起原』という題で翻訳出版。アナキズムの立場を鮮明にしてきた大杉の態度に荒畑や古くからの同志の反発もあり、復活させた『近代思想』も1916年(大正5年)初めに廃刊。

同年には伊藤野枝との恋愛も始まり、研究会への同志の参加も減る。妻堀保子との結婚も続く状況下、以前からの恋愛相手であった神近市子から11月9日に刺されるという日陰茶屋事件[18]が起きて、重症を負った。市子は身を粉にして献身的に経済面で大杉を支えており、世論は市子に同情的で、野枝を魔性の女のように噂し、その子を悪魔のように言った。大杉の評判も地に落ち、同志たちから完全に孤立し、野枝との共同生活を始めるが生活資金にも事欠くようになった。

1917年(大正6年)9月、長女魔子[19]が誕生。村木源次郎だけは大杉の家に同居し手伝う。年末になり労働者の町、亀戸に移転、野枝と『文明批評』を創刊。和田久太郎久板卯之助も大杉と行動を共にする。前年のロシア革命勃発の影響もあり労働運動が盛り上がる機運となり、1918年(大正7年)2月、同志たちとの関係修復を図り、研究会も再び定期的に開き、サンディカリズムの立場で労働運動への影響を強める。8月には九州、関西を周り、大阪では米騒動の騒乱を目の当たりにした。

1919年(大正8年)1月、近藤憲二らが主催し、毎回労働者も参集していた北風会と研究会を合同、6月から8月にかけ「労働運動の精神」をテーマに講演を続ける。9月、「東京労働同盟会」と改称し機関紙『労働運動』の刊行を企図し、同志達と相談を始め、10月に創刊号を発行。拠点となる労働運動社に仲間が集まる。

1920年(大正9年)、不況下で労働争議も増え大杉の活動は広がる。クロポトキンの著作翻訳、前年からの演説会もらい、メーデーを前にしての事前検束もされる。夏、コミンテルンから「密使」の訪問があり、10月、密かに日本を脱出して、中華民国上海で開かれた社会主義者の集まりに参加。11月帰国。12月9日、社会主義者同盟結成に向けて鎌倉の大杉宅に地方からの出席者を中心に40名余り集まる。

1921年(大正10年)1月、コミンテルンからの資金でアナ・ボル(アナキスト・ボルシェヴィキ)共同の機関紙としての『労働運動』(第二次)を刊行。しかし2月に腸チフスを悪化させ入院。6月、ボルの井伊らの裏切りもあり共同路線が破綻し、『労働運動』紙は13号で廃刊。12月にはアナキストだけで『労働運動』(第三次)を復刊させる。

売文社の面々。左から、新居格(白シャツ)、大杉栄、堺利彦、山崎今朝弥、山川均、近藤栄蔵。左奥は不明。

1922年(大正11年)2月、八幡市(現・北九州市)での八幡製鉄所罷工二周年記念演説会に参加。この年前半、大杉は『労働運動』紙において「ソビエト政府」のアナキスト達への弾圧を報告。信友会有志、労働運動社の同志とともに大杉も労働組合の連合を目指すため全国労働組合総連合会発足に努力するが9月30日、サンディカリズム派と総同盟派との対立にボルも介在して結成は失敗、アナ・ボル論争は激化した。

後に大杉への追悼詩「杉よ!眼の男よ!」を執筆する中浜哲は大杉に接近、『労働運動』紙へ労働争議の現場報告、詩を頻繁に掲載した。8月には富川町で「自由労働者同盟」を結成、新潟、中津川での朝鮮人労働者虐殺の実態調査に赴く、10月にはギロチン社古田大次郎らと結成する。大杉は12月、翌年にドイツのベルリンで開かれる予定の国際アナキスト大会に参加のため再び日本を脱出する。

1923年(大正12年)1月5日に上海からフランス船籍の船に乗車し、中華民国経由で中国人に偽装してフランスに向かった。マフノ運動の中心人物、ネストル・マフノと接触も図る目的もあった。またアジアでのアナキストの連合も意図し、上海、フランスで中国のアナキストらと会談を重ねる。2月13日にマルセイユ着、大会がたびたび延期されフランスから国境を越えるのも困難になる中、大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕されラ・サンテ監獄に送られる。日本の大杉栄と判明、裁判後に強制退去となる。在フランス日本領事館の手配でマルセイユから箱根丸にて日本へ、7月11日神戸に戻る。その際、パリの大使館からの反対意見により切符が二等船室になったことを恨む記述を『日本脱出記』に書いている。

同年、滞仏中から滞在記が発表され、後に『日本脱出記』としてまとめられる。また、かつて豊多摩刑務所収監中に翻訳(本国初訳)した『ファーブル昆虫記』が『昆虫記』の名で出版される。東京に落ち着き、8月末にアナキストの連合を意図して集まりを開くが、進展を図る前に関東大震災に遭遇。

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