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私は昔から、小説や漫画などの与える快感は主人公の「上昇感覚」だという説を持っている。たとえば「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャンは、最下層の身分で泥棒の罪で監獄に半生の間入れられ、無一文で世間に放り出される。これ以上はない、最底辺の境遇だ。それが、ミリエル司教との出会いをきっかけに厚生し、工場経営者、市長として尊敬される身分になる。そしてコゼットを養女として育てることで親としての幸福も得る。そういう上昇感覚が読者にも共感されるわけだ。そして後半ではその身分と境遇を捨てることで、社会的には再び底辺の生活になるが、自分を犠牲にしてコゼットの恋人を救ったことで、いわば「天上的レベル」で至高の位置に上るわけである。
つまり、前半は物質的・世俗的上昇であり、後半は宗教的・精神的上昇の物語である。だから、読んでいて読者にこの上ない幸福感や快感を与えるのである。
で、「最初から高い立場にいる人間」が権力をふるう話は面白いか、と言えば、やはりそこには上昇感覚は無い。
そこを勘違いしているのが多くの「なろう小説」であり、特に「異世界転生物」だろう。主人公が最初からあらゆる才能に恵まれた「なろう主人公」や、異世界転生で超人的能力を身に付けた主人公の話を読んで、面白いのは最初の間だけだろう。そこにはもはや上昇感覚は無いからだ。
なぜこんな話をしたかと言うと、昨日一昨日と半村良の遺作「獄門首」を読んで、やはり上手い作者だし、面白いのだが、その面白さが「読む快感」とは少し違うなあ、と感じたからである。つまり、私の言う「上昇感覚」の方向性が違うという感じだ。主人公はゴマの蠅の子供で幼くして両親を失くし、寺の小僧みたいな身分で育てられる。ところがこの主人公はあらゆる才能に恵まれ、何をやっても成功するのである。つまり、「なろう主人公」だ。では、その主人公の成功がそのまま読者の快感となるかというと、それが少し違う。それは、主人公が世俗的なモラルを持っていないからではないか、というのが私の推定である。
「超人」というのは、モラルに縛られるという弱さすら持たないからこそ超人なのだ、ということは分かる。しかし、ではそのような超人が好き勝手をやる話を読んで面白いか、快感があるか、と言えば、それは「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」を読めば明白である。読者は主人公の破壊的行動に面白さを感じながらも、そのモラルの無さに眉を顰めるはずだ。なぜなら、読者である我々は、その「超人」に蹂躙される弱者であり平凡人であるのは明白だからだ。
確かに、弱点を持たない超人というのは多くの人の夢であり理想だろう。誰でもそういう立場になりたいと思う。しかし、全知全能の神になって面白いか、と言えば、面白くもなんともないのは自明だろう。面白半分で世界を創造し、気まぐれに世界を破壊して、何が面白いのか。いつでもどこでも好き勝手に美女を犯して何が面白いのか。
モラルというのは「禁止の体系」である、という指摘がある。まさにその通りであり、モラルに従うというのは束縛されることだ。では、それは無意味かと言うと、世界からあらゆるモラルが消えた状態を想像したらいい。それは野獣の世界そのものだろう。あらゆる悪が許される世界なのである。
なろう主人公というのは、自分だけがモラルを超越し、他の人間はモラルに従うから別の話だ、という反論も可能だろう。では、幼児を相手にゲームなりスポーツをして、勝って面白いか。
勝利が面白いのは、勝つ相手が「悪」だからであり、強敵だからだ、ということを私は指摘しておきたい。つまり、必然的に主人公は善の立場であり、モラルに即した話でないと、実は面白くない、快感は無い、ということだ。
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