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古代の事物や事件の記録を現代的合理主義だけで考察するのは不適切かもしれないが、私は人間の本性は案外合理主義的であり、ただ、その古代的装飾のために後代では意味が不明確になったのではないか、と思っている。

「古事記」の中によく出てくる、女性が「女陰を箸(など)で突いて自殺した」という記述が私はいつも不思議でならなかった。自殺するにしても、なぜ女陰を箸で突くという方法を取るのか。実際それで自殺できるなら、なぜ記紀以降の歴史書の中にそういう自殺の事例が出てこないのか。
これは、その死に方に何かの意味があるか、あるいは死んだのではなく、「存在が無化された」ことの意味ではないか。つまり、たとえば「女性としての存在価値が無くなった」という意味ではないか、ということだ。死に方の意味としては、「当人にとって不名誉な死」かもしれないし、「面当て的な死に方」かもしれない。いずれにしても、その死に方には何かの意味があると思う。もともと「空洞」である女陰を箸で突くことで本当に死ねるのか。死ぬならもっと確実な死に方がいくらでもあるだろうに、なぜ「女陰を箸で突いて死ぬ」死に方を選ぶ必要があるのか。
やはりここには何かの象徴的意味があるように思われる。
にも関わらず、この「女陰を箸で突いて死ぬ」ことを問題視した学者や歴史家や歴史小説家を私はひとりも知らない。

もっとも単純な考えは、「自分の女陰に罰を与える」意味だろう。確か、蛇神に犯された娘が「女陰を箸で突いて死ぬ」死に方をしたはずだ。これは、「女陰ゆえに蛇に犯されるという辱めを受けたから、その原因である女陰を罰する」という意味かと思う。それで女が本当に死んだかどうかは記紀の記述者にはどうでもいいのであり、「交わるべきでない相手と交わった女には罰が下る」という思想がこうした「伝説」には隠されているのではないか。とすれば、「女陰を罰する」とは、女が女陰を持っていること自体が悪いという思想であり、ミニスカートをはいている娘は痴漢されても女が悪いという現代の一部の男たちの思想とさほど遠くはないのではないか。

そして、こうした「女陰が悪の原因だから女は差別してよいし、女陰は罰するべきだ」という思想は悪しき意味での合理主義(キチガイ的合理主義)ではあるわけだ。



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