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これは漫画原作を書く時のいい心構えだと思うが、「絵が浮かばないのはイメージの貧困」と言うのは、漫画家のイメージの貧困なのか、原作者のイメージの貧困なのか、両者の貧困なのかwww 普通は、原作の抽象的部分を視覚的イメージにするのは漫画家の仕事だと思う。
主人公がイライラしている場面が「主人公がいらいらする」としか原作に指定されていなければ、それをどういう風な動作として効果的かつキャラを引き立てる形で視覚化するかに「原作付き漫画」を描く漫画家のチャレンジするべきクリエィティブな領域があるのではないだろうか。




具象と抽象、の対比だけど、漫画原作は具象がいい。たとえば「主人公がいらいらする」では抽象的に過ぎる。いらいらの出方は人によって異なる。「つめを噛む」「びんぼうゆすりをする」「頭をかく」のように具体的でないと漫画家には伝わらない。絵が浮かばないのはイメージの貧困。



(補足)上のツィートだけを読んで脊髄反射的に最初の文章を書いたのだが、山本氏の姿勢は「原作尊重」のようで、原作者と漫画家の「合作」というより、漫画家は原作者の意志を最大に尊重して、それに忠実に漫画化すべきだという考えかと思われる。特に、下のツィートでは、「初期段階」ではキャラがまだ立っていないから、漫画家が暴走してはいけないという戒めだろうか。


山本貴嗣 @atsuji_yamamoto14 時間前

連載が長期にわたって、もうこのキャラがどういうときにどういう反応をするか共通認識ができてしまってからなら省略も可能だけど、キャラが立つ前に省略するとキャラが立たない。

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プロの発想は凄いと思うし、合理的だと思う。印刷物だと書かれた字だけからは書き順などというものは分からないのだから、印刷物しか知らない(字の形態の知識しか知らない。)宇宙人が滅茶苦茶な書き順で書くのは当然だ、となる。これが、筆で書いていた時代なら、筆の運動が、書かれたものから推定できるわけだ。




  1. あぁ!!そうでした

  2. 仕事場にコミックスが有りませんので、どんなシーンだか思い出せません






小説には何でも詰め込めるし、長さに制限が(基本的には)ない。
だが、映画は技術的に描けるものと描けないものがあるし、長さが決まっている。
とすると、大事なのは足し算ではなく引き算になる。足し算をしていいのは、元ネタが短編小説である場合などで、ヒッチコックの「鳥」の原作は短編小説だし、「座頭市」は、あるエッセイの一文を膨らませたものであるという。要するに、「盲目の按摩で、剣客でもある者がいた」というだけの事実を膨らまして映画にしたわけだ。
なお、SF映画というのは、特撮技術だけでなく、俳優の演技やメーキャップも大事で、邦画のSFはその点ではほぼ全部落第である。内容に架空性が強いほど、小さな部分の手抜きで架空性(作り物性)が意識され、観客がしらけるのである。
これは時代劇も同じなのだが、黒澤映画などではさすがに細部に手抜きが無いから、観客をすんなり映画の中に入り込ませる。おそらく、「用心棒」の最初に三船敏郎が登場する場面では、彼の着る衣服にちゃんと「汚し」を入れて、長旅で着古した感じを出していると思う。それが白黒映画でも観客には伝わるのである。


さんがリツイート

さよならジュピターは もっと面白くなっても良いと思うのだけれど 仲のいい人が集まって映画作るときの失敗の見本、みたいな感じなのでは。 当時のこと全く知らないので適当に書いてますけど。いろんな人の顔を立てて盛り込み過ぎて 色んな場面とか出番を引き算出来ない、みたいな






観戦武官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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観戦武官(かんせんぶかん)とは、第三国の戦争を観戦するために派遣される武官

歴史[編集]

この制度の起源は明らかではないが、傭兵ではない、国家による軍隊が必要であること、士官学校国際法などの制度の成立が不可欠であることから、およそ19世紀半ばごろに確立されたものと思われる。

日本では、1870年に普仏戦争大山巌が観戦している。また、1898年の米西戦争では秋山真之海軍大尉(後に中将。海軍戦術、『坂の上の雲』で有名)・柴五郎陸軍少佐(後の大将。義和団の乱では北京籠城戦を戦い抜く)が観戦武官として派遣された。

日露戦争の際には日露両国に対して欧米諸国から多数の観戦武官派遣の申し入れがあり、日本はイギリスアメリカ合衆国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国スペインイタリアスイスノルウェー及びスウェーデンスウェーデン=ノルウェー連合解消の時期と重なる)、ブラジルチリアルゼンチンオスマン帝国といった13の国々から70人以上の武官を迎えたと記録されている(en:Military attachés and observers in the Russo-Japanese War 参照)。その内、先に日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている[1][2]。特にイギリスのイアン・ハミルトン英語版陸軍中将(後の第一次世界大戦ガリポリの戦い地中海遠征軍英語版を指揮)、ウィリアム・ペケナム英語版海軍大佐(後に大将。朝日に乗艦しての報告はジョン・アーバスノット・フィッシャー提督の目に留まり、ドレッドノートの設計に取り入れられた)、アメリカのアーサー・マッカーサー・ジュニア陸軍少将(後に中将。マッカーサーGHQ最高司令官の父)、ドイツのマックス・ホフマン陸軍大尉(第一次世界大戦では第8軍の参謀としてタンネンベルクの戦いを勝利に導く)など後の歴史に影響を与えた軍人も多かった。

第一次世界大戦では、イギリスの巡洋戦艦クイーン・メリーに乗艦して観戦していた下村忠助海軍中佐がユトランド沖海戦で戦死している。

観戦武官制度は、第一次大戦後、自動車・航空機などの輸送手段の発達によって戦域が拡大し、1人の士官が戦闘を見ることが不可能になったため、自然に消滅した。

















一酸化炭素中毒ではなく、燃焼で毒性ガスを出す樹木などを使用するか。

下は一酸化炭素中毒についての記述。


急性症状 1時間の暴露では、500ppmで症状が現れはじめ、1000ppmでは顕著な症状、1500ppmで死亡に至る。一酸化炭素中毒を自覚するのは難しく、危険を察知できずに死に至る場合が多い[5] 軽症では、頭痛・耳鳴・めまい・嘔気などが出現するが、風邪の症状に似ているため、一酸化炭素への対処が遅れる。すると、意識はあるが徐々に体の自由が利かなくなり、一酸化炭素中毒を疑う頃には(また、高い濃度の一酸化炭素を吸った場合には)、自覚症状を覚えることなく急速に昏睡に陥る。この場合、高濃度の一酸化炭素をそのまま吸い続ける悪循環に陥り、やがて呼吸や心機能が抑制されて7割が死に至り、また、生存しても失外套症候群または無動性無言(Akinetic mutism英語版)と呼ばれた高度脳器質障害[6]や聴覚障害[7]が残る。 ヘモグロビンは一酸化炭素と結合すると鮮紅色を呈するため、中毒患者はピンク色の「良い」顔色をしているように見える[8]






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