忍者ブログ
[43]  [44]  [45]  [46]  [47]  [48]  [49]  [50]  [51]  [52]  [53
江戸川乱歩の「心理試験」を読んでいて、ストーリーとはあまり関係の無い部分から、ひとつの脚本構想を思い付いたのだが、要するに「未亡人下宿」という昔のエロ映画の定番と、「少年は虹を渡る」のミックスである。

親に言われるままに、政略的事情から愛のない結婚をして、資産的には恵まれたが不幸な結婚生活をしてきた初老の女性が夫の死後の一人暮らしに刺激を求めて自宅で下宿を始めるが、その下宿人(複数いることにして「めぞん一刻」風のドタバタを入れてもよし。)の若い学生に恋をする、という話。
学生は最初、その女性の好意を単に母親的なものだと考えて好感を持つが、やがてそれが自分への恋だと知って戸惑い、悩む。(学生には学生仲間である恋人もいる。)だが、その女性の知性と優しさを深く知るうちに、自分も本気でその女性を愛しているのではないか、と思い始めるが、今度は、「財産目当てで老女を騙している」と周囲から見られないかと悩み始める。
すったもんだの末、二人は結ばれる、という話。

私自身ではうまく書けるとは思わないが、山田太一くらいの脚本家なら面白い脚本が書けるのではないか。カンヌ映画祭などに出したら受けそうな話だと思う。あちらは女性、特に年配の女性への敬意が高いし、恋愛至上主義文化だから、老女と若者の恋というのは高く評価されると思う。
なお、「少年は虹を渡る」はファンタジー色の強い美しい主題曲(「雨に濡れた朝」)と、老女と少年の性行為まで描いた(直接描写ではないが、「事後」の姿を見せる。)こと、老女の自殺という救いの無い結末が水と油で、見た人の心に割り切れないものが残る映画だった。

原田知世が60歳くらいになったら、彼女の主演で作るといいのではないか。題は、とりあえず「虹の彼方に」でいいと思う。これは、虹の両端にいる若さと老いを象徴し、虹を渡ることの困難さが、老女と若者の恋の実現の困難さを象徴する。主題曲はもちろん「オーバー・ザ・レインボウ」だが、著作権が問題なら久石譲あたりに作曲してもらいたい。
監督は是枝何とか氏(下の名は失念)でどうか。恋愛映画よりはドキュメンタリー風のリアリズム映画が得意な人で、「海街diary」などは、残念ながら期待した出来ではなかったが、もう少し風景描写を詩的にしたら、いい映画の撮れる人だと思う。あるいは、山田洋次の最後の監督作品でどうか。そうすると、老女役は倍賞千恵子か。まあ、それでもいい。あるいは、酒井和歌子なども、そういう役にふさわしい年齢ではないか。要するに、昔の清純派美少女に似合う役だと思う。



PR
前回の記事の補足としてウィキペディアから転載。


(以下引用)



エーテル (aether, ether, luminiferous aether)[1] とは、光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、が波動として伝搬するために必要な媒質を言う。ロバート・フックによって命名された。

特殊相対性理論と光量子仮説の登場などにより、エーテルは廃れた物理学理論だとされている[2]

光の本性に関する研究の歴史[編集]

18世紀までの光の本性の研究

空間に何らかの物質が充満しているという考えは古くからあったものの、近代物理学においては17世紀のルネ・デカルトに始まる。

デカルトは、すべての空間には連続でいくらでも細かく分割できる微細物質がつまっており、あらゆる物理現象はその中に生じる渦運動として説明できると考えた(渦動説[3]。カルテジアン(cartésien,デカルト主義者)と呼ばれる学派はそのようなデカルトの考えに基づく学派で、17世紀から18世紀にかけてのフランスで学界の主流を占めた[4]

デカルトによれば、光とはその宇宙に満ちている微細物質中の縦波のような圧力である。ロバート・フックはこの考え方を受け継ぎ、デカルトの宇宙に満ちている微細物質をエーテル(aether, ether)と呼び、光とはエーテルの中を伝わる振動であるとした[5]。また、フックの考察と光の速さの有限性の結果[6]に刺激を受けたホイヘンス[7]は、素元波の概念とホイヘンスの原理を導入することで光の波動説の基礎を作り上げた[8]

当初、実験物理学者として望遠鏡の製作が評価されていたアイザック・ニュートンは、当時の望遠鏡の欠陥であるレンズの色収差の問題を解決するため光学の研究を行っており、1672年に『光と色の新理論』(New theory about light and colours)という論文の中でその結果を報告した。しかしながら、その中で展開された色の理論が、当時主流のデカルトやフックの立場に反するものであったことから、以降、フックとニュートンの間に長い論争が交わされることとなった。

フックは光の波動説をとっており、ニュートンは1704年『光学』(Opticks)という著書の中で光を微粒子の放射と仮定していた[9]ように、強く主張してはいなかったものの光の粒子説をとっていた[10]ため、この論争は光の波動説と光の粒子説の近代における最初の対立とみなされることが多い。

以降、ニュートンの権威も手伝って18世紀においては、光の粒子説が受け入れられ、レオンハルト・オイラーを除いては光の本性について議論されなくなった[11]






光とは何か、についても疑問が再燃したので、ウィキペディアから転載しておく。
もっとも、ここで言う「波」の説明もほしいところだ。最初は粒子説と波動説が科学界を二分していたのも、波は粒子ではない、という考えが確固としてあったからだろう。つまり、波とは「存在」ではなく、「動き(ある存在の動き方)」だとされていたのではないか。だからこそ「波動」と言ったのだろう。まあ、これは物理音痴のたわごとだが、私には波の定義が分からないのだから仕方がない。だが、その考え方だと、波動説を採る場合、その「波動の本体は何か」というのが問題になるのではなかったか。海の波なら、水(海水)が本体で、その動きが波だという、とても分かりやすい話だ。しかし、光が波なら、その本体は何か。そこで、「エーテル」というものが宇宙空間を満たしている、という考えも出てきたわけだろう。
で、その「エーテル」説は、完全に排除していい考え方なのか、私にはそれも疑問に思える。宇宙が真空だとしたら、宇宙のあらゆる存在は、その真空に外皮をどんどん剥ぎ取られて消滅していくのではないか。つまり、あらゆる星々が真空の中にあるというより、エーテルの中にあるという考えの方が私には自然に思える。もちろん、空気などとはまったく異なる、他者にまったく影響を及ぼさないような気体であり、その気体の粒子も無い。

(以下引用)


粒子説と波動説[編集]

「光は粒子なのか? それとも波なのか?」 この問題は20世紀前半まで、大きな問題として科学者たちを大いに悩ませた。なぜなら、光が波であるとしなければ説明できない現象(たとえば光の干渉分光など)と、光が粒子であるとしなければ説明できない現象(たとえば光電効果など)が存在していたからである(詳細は後述)。

この問題は、20世紀に「量子力学」という分野が確立していく中でようやく解決することになった。不確定性原理によって生じた問題を説明するために1927年ニールス・ボーア相補性という概念を提唱したことで解決した。一方を確定すると他方が不確定になるような2つの量というのは、互いに補い合いあうことにより対象の完全な記述が得られる、とする考え方である。

「光は粒子でもありでもある。粒子と波の両方の性質を併せ持つ、量子というものである」とされるようになり、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」とも表現されるようになった。

近年では、光の粒子性に重点を置く場合は「光子」、波動性に重点を置く場合には「光波」、光が粒子と波の二面性を持った量子である、という点に重点をおく場合は「光量子」と呼ぶ。

異星人が地球に降り立った時に最初に気づき、心を動かされるのは、晴れた日であれば、空が青いことだろう。
ところが、空がなぜ青いのか、私は知らないので、調べてみると、光のスペクトラム(それが何か、よく知らないが)の中で、青の波長(正確には紫の波長)がもっとも短い波長で、それが空気中の分子、下の記述だと空気の成分そのものの酸素分子や窒素分子に当たり、拡散されることで空全体に青の波長が(青の光が?)拡散されるかららしい。
もっとも、光とは何か、ということすら私は分かっていない。光そのものが粒子だという考えがあるから、大気中の微粒子との衝突という考えも出てくるのだろうが、そもそも波長を持つ存在とは粒子の集まりなのだろうか。

(以下引用)


空が青い理由は3つあります。太陽光、大気中の粒子、そして見ている私たちが人間だからです。3つ目については最後に説明するとして、まずは太陽光と大気中の粒子の相互作用に注目してみましょう。

かつて空の青さは、大気中の塵や水滴、そのほかの大きな粒子がつくりだしていると信じられていました。これは間違いです。空の青さをつくりだしているのは、空気中の非常に小さな粒子、空気分子そのものです。とくに酸素分子と窒素分子がカギとなります。

画像1

光の波長よりも小さい超微小の酸素分子と窒素分子は、空気中に大量に存在しています。これこそが空の実態です。

画像2
画像3

目に見える光は、長さの違う波長のスペクトルから成り立っています。最長の波長をもつのは赤い光で、最短の波長をもつのは青、もっと正確にいえば紫の光です。

画像4

ほかの生物から見ると空は青くない?

青の波長は短いので、大気中の酸素分子や窒素分子に、より頻繁に衝突します。その結果、衝突した青の波長はありとあらゆる方向へ散乱します。

画像5

これは“レイリー散乱”と呼ばれます。1871年、青い光の波長は赤い光の波長と比べて、空気中で16倍も散乱するということを数学的に証明し、それを発表したジョン・ウィリアム・ストラット、通称レイリー男爵が、この現象にはじめて言及したからです。

画像6

でもちょっと待ってください。最短の波長をもつのは紫の光でしたよね? 紫の波長は青よりもさらに短いわけですから、空気分子との衝突もより頻繁になり、もっと散乱するはずですよね? ではなぜ空は紫色ではないのでしょうか?

そこで重要になってくるのが3つめの理由、私たちが人間である、という事実です。人間の目は、光のスペクトルの真ん中に位置する色をより鮮明に捉えられるようにできています。

画像7

ですから、紫よりも青の方が目でとらえるのがずっと簡単なのです。青の波長よりも紫の波長の方が空気中に多く散乱しているにも関わらず空が青く見えるのは、私たちの目が紫色よりも青色を捉えているからにすぎません。

虹色の中で紫色がもっとも目で確認しづらいのも、同じ理由です。

画像8

この「SciShow」をご覧のみなさんはラッキーです。というのも、みなさんにアンケート調査をしたところ、虹色のなかでもっとも人気があったのは青だったからです。アンケートに答えてくださった視聴者の33.55パーセントが、もっとも好きな色に青を挙げ、一番人気のなかった色は黄色でわずか2.8パーセントでした。かわいそうな黄色……。

生物の中には、ミツバチやある特定の鳥類など、光のスペクトルの端から端まですべての色をその目でとらえられるものもいます。

これらの生物はもしかしたら黄色がお気に入りかもしれません。そして彼らの目には、空はまったく違ったものとしてうつっているのかもしれませんね。

ネットテレビでロバート・ワイズの古い作品である「地球の静止する日」を見ているのだが、非常に示唆的な内容で、メモするためにストップしている。
おそらく、ほとんどの人は当時のSFX技術の幼稚さを馬鹿にして、この作品の持つ様々な含蓄に目もくれないと思う。それ(古い作品への馬鹿げた蔑視)が現代の映画やアニメの多くを幼稚にしている原因だ。表現技術と、内容の哲学的深さはまったく別である。
特に私が注意したのは、「文明が高度に進んだ星(文化)では、戦争は存在しない」という、これまでも多くの思想家がおそらく考えた事柄である。これは当たり前の話であり、戦争という、文明と文化と生命を破壊するだけの行為がなぜ現代まで続いているかと言えば、戦争で利益を得る少数の人間が政治を主導しているからにすぎない。(戦争によって科学は進歩した、とか、戦争のもたらす社会全体への経済効果というのは、詭弁である。それらは、戦争で失われたひとつの生命にも値しない。簡単な話、その生命があなた自身のものならどう思うか。)
それはともかく、ここでメモしておきたいのは、この映画に出てくる、「高度な文明を持つ異星人が地球人観察のために庶民に紛れ込んで生活する」という話である。いわば、手塚治虫の「W3」であり、最近ではネットフリックスの「ミッシング3」にもそれに近い部分がある。ただし、後者は、単に亡命のために地球で地球人の姿をとって生活する、というだけで、哲学性はゼロで、幼稚であるから見ていて飽きる。まあ、子供向けだろうから仕方がない。
私が書いてみたいと思ったのも、「地球人に化けて庶民の間で生活している高度文明の異星人」の話である。ただし、その高度な文明の代償に、彼らは「感情」というものを持たないし、非合理的な行動が困難である。(「寄生獣」で、主人公が、死んだ犬か何かをゴミ箱に捨てる、というのもそれに近い。つまり、死体を特別視する理由が彼には分からないのである。)その「彼」を、地球人の平凡だがとても優しく善良な女の子が好きになり、「彼」も戸惑いながらその子とつきあううちに、「感情」を理解し、「恋」と「愛」を知り、地球を滅ぼすべきかどうかという調査に「滅ぼすべきでない」というレポートを送る、という話。
つまり、平凡そのものの一少女が、知らず知らずのうちに地球を救うという話である。
ただし、高度文明の、感情を持たない「人間」が、様々な場合にどういう振る舞いをするか、ということをキチンと考えないと愚劣な作品になるだろう。たとえば、その文明では「性行為」はあるかどうか、など。「バーバレラ」式のセックスというのも面白いかもしれない。



<<< 前のページ HOME 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.