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下のツィートのような経験は誰にもあると思うが、これが明白に示していることは「殺気」というものは現実に存在するということであり、またそれを感じ取ることも可能だ、ということだ。
蚊や小蠅は、こちらが手で追い払っても逃げないが、殺虫剤や蠅叩きを手にしようとすると、即座にいなくなるのがその証拠である。人間でも、誰かが背後から自分を見ている気がして振り向くと、本当に見られていた、という経験のある人は多いだろう。それが「気を感じる」ということだ。


机の周りを小バエが1匹飛び回っていて鬱陶しいので、撃墜してやれと思って手の届く範囲に殺虫剤を持ってきたら、それだけで姿を見せなくなった。分かってくれればいいんだ(笑)






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坂口安吾の短編「心霊殺人事件」は、淡白なミステリーだが、ミステリーの素材として面白い要素が多い。第一に、終戦直後を舞台としているために、戦争時の混乱がまだ尾を引いていて、戦時の犯罪を戦後の犯罪の動機とすることができる。第二に、殺人事件が起こった「心霊実験」よりも、その前に発生している「荷物の移動」が実は殺人事件の動機だったこと(重要性の錯覚)。第三に、戦時の犯罪の事情や人物を膨らませることで、物語を重厚にできる。これは、戦犯のほとんどは実際には(米軍捕虜虐待など欧米関係以外には)実際には逮捕も処罰もされず、戦後の日本でのうのうと生きていたということなどの「哲学的問題」にもなる。また、話の脇役として出てくるサイコパス的人物が、キャラクターとして面白い。私は悪役を描くのが苦手なのだが、このキャラは活かせそうな気がする。中国で殺人強姦を繰り返した日本人将校が、戦後の日本社会で一見平凡なサラリーマンとして生きているのが面白い。なお、大金持ちのボディガード兼秘書という仕事も、悪役らしくていい。表向きは秘書、裏ではボディガードという二面性がいい。
「ファウスト」の最後の完全な満足(「時よ止まれ、お前はあまりに美しい」)が、実はメフィストフェレスの仕組んだヴァーチャルリアリティ内の出来事だったというオチによる「新ファウスト」。実際、VRとはそういうものであり、虚構世界で生きるということだ。言い換えれば、現実の中の満足と、虚構だと知らない状態の虚構世界の中での満足に違いは無い、ということである。
泉鏡花の「照葉狂言」の中に、リウマチで体が利かなくなった女芸人が「磔」の見せ物用に売られる話があるが、そのリウマチとはどんな病気か調べ、さらに自己免疫疾患について調べたら、こう書いてある。
「自己免疫疾患」というのは、ある種の比喩に使えそうな概念である。つまり、「自分が自分を攻撃して破滅させる」というのは、自殺などに至る「精神の誤作動」であるわけだ。その反対の自己保存本能と自己愛こそが、人間を生に繋ぐ。
なお、「照葉狂言」は、まだ8歳くらいの主人公が周囲のあらゆる女性に好かれるという、「なろうヒーロー」の「オネショタ」文学で、アニメ化したら面白そうだが、脚本を書くのは難しそうである。






自己免疫疾患

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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自己免疫疾患(じこめんえきしっかん、:Autoimmune disease)とは、異物を認識し排除するための役割を持つ免疫系が、自分自身の正常な細胞組織に対してまで過剰に反応し攻撃を加えてしまうことで症状を起こす、免疫寛容の破綻による疾患の総称。

自己免疫疾患は、全身にわたり影響が及ぶ全身性自己免疫疾患と、特定の臓器だけが影響を受ける臓器特異的疾患の2種類に分けることができる。関節リウマチ全身性エリテマトーデス(SLE)に代表される膠原病は、全身性自己免疫疾患である。

容量の限界があるから、内容を圧縮する、その結果、驚きや緊張が生まれると考えれば、その「限界」自体がメリットだと言える。短歌や俳句の字数制限もそれだろう。だが、デビュー前のアマチュアの漫画や小説だと、「容量限界が無い」から、無駄な部分が多くなる気がする。

私が予備校で小論文の指導をしていた時に見た生徒の作品は、9割以上が、「第一段落をカットしたほうがマシ」であった。つまり、無駄な口上が多いのである。「話の枕」を書いているつもりかもしれないが、「早く要点を言え」と言いたくなるものがほとんどだった。
漫画や小説で言えば、「書かなくてもいい、つなぎの部分」をすべて書く傾向があるのではないか、と推測する。つまり、「どこかへ行く用事が生まれる」「そこに歩いて(乗り物に乗って)行く」「到着する」の、「移動の途中経過」まで全部書くわけだ。だが、話としてそれが必要か、と言えば、まったく不要に決まっている。そして、そうして書かれた作品が長大なものなるのは当然だろう。どの作品もどんどん長編化する現代の漫画に、その傾向は無いだろうか。脇役程度の登場人物の「掘り下げ」ばかりやっていて、話の進行が置き去りになっていないか。
昔の手塚治虫や藤子不二雄の漫画には、失敗作の場合でも「冗長さ」という欠点だけは無かった。
なお、ヒッチコックの言葉に「論理は退屈だ」というのがある。それは先ほど書いた「途中経過を全部書く」のがつまり論理だからである。逆に、途中を省略することで、「驚き」が生まれる。ヒッチコックはまた「映画とは構成である」とも言っている。現実の人生とは異なる、場所や時間の再構成によって映画的興奮が生まれるわけだ。これも「論理は退屈だ」である。



さんがリツイート

そうそう。自分も漫画描いてて〜よくやりますが。「ページ数にゆとりがない」と、「キャラクターがドライになり、何も考えないで突っ走る感じになる」「有無を言わさぬ早い展開〜キャラの性格が強引になる」「情感とか風情はどんどんなくなる」。でも、ソコがイイんです。馬鹿っぽい魅力が出て来る。





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