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話自体はどうでもいい内容だが、「八紘一宇」の出典である。なお、神武天皇記には「撃ちてしやまむ」など、大東亜戦争時のスローガンの出典が多い。


(以下引用)


三月辛酉朔丁卯 六合を一つにして八紘までを家にする

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原文

三月辛酉朔丁卯、下令曰「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未淸餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授国之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山(畝傍山、此云宇禰縻夜摩)東南橿原地者、蓋国之墺區乎、可治之。」

是月、卽命有司、經始帝宅。

現代語訳

三月七日。
天皇は言いました。
「わたしが東征に出発して、6年になります。天津神の霊威によって凶徒(アタ=敵)は殺されました。周辺の国はまだ静まっていませんし、敵の残党はまだ勢いのあるものがあるが、中洲之地(ナカスノクニ=大和の国)は騒がしくない。皇都(ミヤコ)を広く広く取り、大きな宮殿を造ることにしよう。
国はまだ出来たばかりで若く、民は素直で、穴の中に住んで、古い習俗が変わらず残っている。聖人のやり方でしっかりと行えば、結果はおのずと付いてくる。民の利益になることならば、聖人のやることを阻むものは無いだろう。
そこで山林を開き、宮殿を造って、天皇の地位について、民を静めよう。乾靈(アマツカミ=天津神)の国を授けられた徳に答え、皇孫の正しい道を広めよう。その後に六合(クニノウチ=東西南北と天と地を合わせて六合)を一つにして都を開き、八紘(アメノシタ=北・北東・東……と合わせて八方向のこと)の隅々まで「宇(イヘ…家)」にすることは、良いことだ。見ると畝傍山(ウネビヤマ)の東南の橿原(カシハラ)は国の墺(モナカ…真ん中)だろうから、ここを治めよう」

この月に有司(ツカサ=役人)に命じて帝宅(ミヤコ=天皇の家=都)を作り始めました。
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解説

天皇が東征を振り返り、この土地に国を作ることを宣言するシーン。6年しか経ってないのか。



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物部氏も天孫で、この戦に敗れて大和朝廷に臣従した、ということは、「別種の皇統」(となりえた天孫族)であったという話になる。おそらく朝鮮半島の出自で、大和朝廷とは別ルート(おそらく、秋田から滋賀県経由)で来て、奈良に既に強大な王朝を打ち立て、高度な戦闘能力を持っていたからこそ、神武天皇の戦いでももっとも苦難に満ちた戦いになったのではないか。
そして、物部氏のこの出自が、後の滅亡の遠因でもありそうだ。

(以下引用)


十有二月癸巳朔丙申(四)饒速日命は物部氏の祖先

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原文

長髄彦、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇天皇覽之曰「事不虛也。」還以所御天羽々矢一隻及步靫、賜示於長髄彦。長髄彦、見其天表、益懷踧踖、然而凶器已構、其勢不得中休、而猶守迷圖、無復改意。饒速日命、本知天神慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彦禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。

現代語訳

長髄彦(ナガスネヒコ)はすぐに饒速日命(ニギハヤヒミコト)の天羽々矢(アメノハハヤ)を一隻(ヒトハ=矢を一本)と步靫(カチユキ=矢を射れる筒がユキ、これを歩行用にしたものがカチユキ)を天皇(スメラミコト)に見せました。
天皇はそれを見て
「本物だ」
と、言いました。
それでお返しにと、天羽々矢(アメノハハヤ)と步靫(カチユキ)を見せました。
長髄彦はその表(シルシ)を見て、ますます天皇を恐れ畏まりました。しかし凶器(ツワモノ=武器)を準備して、今更、途中で止めてしまうわけにはいかない。それで血迷った計画を変えず、改心しませんでした。

饒速日命(ニギハヤヒミコト)は天神が最も大事だと思っているのは天孫(=アマテラスの子孫)であると知っていました。それに長髄彦はその禀性(ヒトトナリ=人と成り)がとても気難しいので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天人(キミヒト=君主と人の上下関係のこと)の関係を教えても、理解出来そうにないので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は長髄彦を殺してしまいました。そして人々と共に天皇に従いました。
天皇はもともと饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天から降りたと知っていました。今、忠效(タダシキマコト=忠義の意思)を示したので、褒めてもてなしました。この饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が物部氏の祖先です。
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解説

言い訳がましく裏切る神
長髄彦の妹を嫁にもらいながら、なんやかんやと理由をつけて裏切っちゃうニギハヤヒ。それでも天皇から見れば、兄の敵を討ってくれた「英雄」なのでしょう。

ところがニギハヤヒは物部氏の祖先とされます。物部の「モノ」は「物の怪」のモノと取って、祭祀関係の氏族とされたり、武器を管理する氏族とも言われます。日本では「モノ」は「霊」と「物体」の両方を意味するので、祭祀と武器のどちらか一方ではなく両方と考えた方がいいでしょう。

大活躍の物部氏ですが、ご存知の通り、蘇我氏との政争に破れて氏族は滅亡しています。また蘇我氏は藤原氏の始祖の中臣鎌足に殺されています。両氏族とも親戚筋は残っていたのでしょうが、滅亡したのに先祖の活躍を描く必要があったのか?と思うのですよね。よく古事記成立の有力者の藤原氏を立ててタケミカヅチアメノコヤネを優遇しているとか言いますが、それならニギハヤヒではなく、古事記成立時の有力者の先祖を当てればいいじゃないですか。

わたしは古事記や日本書紀は別のロジックで書かれていると思っています。それは鎮魂です。嘘を書くと死者の魂が祟ると考えていたから、本当を書いて鎮めたのだろうということです。それなら蘇我氏や物部氏といった滅亡した氏族のことこそ、書かなくちゃいけないことになるのです。










ここも少し興味深いので転載する。

(以下引用)


十有二月癸巳朔丙申(三)櫛玉饒速日命を君主に

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原文

時、長髄彦乃遣行人、言於天皇曰「嘗有天神之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。(饒速日、此云儞藝波揶卑。)是娶吾妹三炊屋媛(亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛)遂有兒息、名曰可美眞手命。(可美眞手、此云于魔詩莽耐。)故、吾以饒速日命、爲君而奉焉。夫天神之子、豈有兩種乎、奈何更稱天神子、以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。」天皇曰「天神子亦多耳。汝所爲君、是實天神之子者、必有表物。可相示之。」

現代語訳

そのとき、長髄彦(ナガスネヒコ)はすぐに使者を派遣して、天皇に告げました。
「昔、天津神(アマツカミ)の子(ミコ)がいました。
天磐船(アマノイワフネ)に乗って天より降りて来ました。
その名を櫛玉饒速日命(クシタマニギヤハヒノミコト)といいます。
饒速日は「儞藝波揶卑(ニギハヤヒ)」と読みます。

この人物は私(=長髄彦)の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶って子供をもうけました。
ミカシキヤヒメの別名は長髄媛(ナガスネヒメ)、またの別名を鳥見屋媛(トミヤビメ)といいます。

その子供の名前を可美眞手命(ウマシマデノミコト)といいます。
可美眞手は于魔詩莽耐(ウマシマデ)と読みます。

わたしは饒速日命(ニギハヤヒミコト)を君主として仕えています。天神の子がどうして両種(フタハシラ=神が二人)あるものでしょうか??どうして更に天神(アマツカミ)の子と名乗って、ひとの国を奪おうとするのか? 私が考えるに、未必爲信(イツワリ=偽り=偽物)では無いでしょうか?」
天皇は言いました。
「天神の子は多く居るものだ。
お前のところの君主が本物の天神の子ならば、必ず『表(=シルシ)』があるはずだ。それを見せなさい」
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解説

ニギハヤヒとは?
ニギハヤヒは神武天皇と同じように天神の子とされます。長髄彦は「天神の子は一人」と思っていたようですが、天皇にしてみれば天神の子は複数居て良いみたい。長髄彦の言う方がごもっともな気もしますが、天皇自身が「複数居る」と言うんだからしょうがない。

長髄彦としては天神の子であるニギハヤヒと妹を結婚させて、子供までもうけた。それに天皇とはすでに戦い、天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)に怪我を負わせ、殺している。今更、天皇が「俺も天神の子なんだぜ!」と言って来ても困りますよね。許してくれそうにも無いし。

それでも兄猾(エウカシ)や兄磯城(エシキ)のようにだまし討ちもしないし、この会話の中に長髄彦にも同情の余地を残すあたりは理由があるのかもしれない。






物語や小説なら、最初のクライマックスである。




現代語訳

戊午年夏四月
夏四月の九日。
皇師(ミイクサ)は兵を整えて、歩いて龍田(タツタ)に向かいました。その道は狭く険しく、人が並んで行けないほどでした。そこで引き返して、東の膽駒山(イコマヤマ)を越えて、中洲(ウチツクニ=大和)に入ろうとしました。

そのとき長髄彦(ナガスネヒコ)が(神武天皇が大和へ来るという話を)聞いて言いました。
「それは天神子等(アマツカミノミコタチ)が来るのは、我が国を奪おうとしているに違いない」
それで(長髄彦は)侵略に対する兵を集めて、孔舍衞坂(クサエノサカ)で迎え撃ち、戦いになりました。その戦いで流れ矢が神武天皇の兄の五瀬命(イツセミコト)の肱脛(ヒジハギ=ヒジのこと)に当たりました。
皇師(ミイクサ)はこれ以上、進軍し戦うことは出来ませんでした。そこて天皇(スメラミコト)は残念に思い、神策(アヤシキハカリゴト=名案)を沖衿(ミココロノウチ=心の中)で廻らし、言いました。
「今、わたしは日の神の子孫(ウミノコ)なのに、日に向いて敵に向かったのは、天道(アメノミチ)に逆らうことだ。ここは一旦、退却し弱いと思わせ、神祇をよくよく祀り、背に日の神の勢いを背負い、日陰が挿すように敵を襲い倒そう。そうすれば剣を血で汚さずとも、敵は必ず自然と破れるだろう」
皆(=部下)は、言いました。
「その通りです」
そこで軍中(イクサ)に令(ミコトノリ)して言いました。
「しばらく止まれ、もう進軍するな!」
すぐに軍(イクサ)を率いて退却しました。敵もまた攻めて来なかった。(神武天皇の軍は)退却して草香之津(クサカノツ)に到着して、盾を揃え、並べ、雄誥(オタケビ)をあげました。
雄誥は烏多鶏縻(オタケビ)といいます

それでその津(=港)を盾津(タテツ)と名付けて言うようになりました。今は蓼津(タデツ)というのは訛ったからです。初めの孔舍衞(クサエ)の戦いで、ある人物が大きな木に隠れて難を逃れました。それでその木を指して
「母のように恩がある」
といいました。
それで世の人はその場所を「母木邑(オモノキノムラ)」といいます。今、飫悶廼奇(オモノキ)というのは、それが訛ったものです。
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解説

難波から上陸した神武天皇は大和を目指します。ちなみに「ヤマト」という言葉は「山門」で、周囲が山に囲まれている地形の事で、本来は特定の土地を指した言葉ではありませんでした。

そんな大和を目指すのですが、すでに大和を支配していた長髄彦(ナガスネヒコ)が反抗します。当然です。侵略に対して兵を立てて守るのは極々当たり前のことです。それで神武天皇は破れてしまいます。

もともと海を通って来た「海のプロ」なので、陸での戦いに不慣れだったのかもしれません。この記述で初めて「歩いて移動」しているくらいです。

そこで五瀬命(イツセノミコト)が負傷し、太陽を背にすれば勝てるに違いないという言い訳をして、一旦退却します。まぁ、戦争では太陽を背にして戦うというのはセオリーですから、間違ってはいません。
オタケビとは
隼人のところでも、「犬のように吠える」とは「魔を祓う」という意味があったわけで、単に鼓舞する意味よりも、敗戦という「穢れ」を祓う儀式だったのではないか?とも。
前述サイトの「皇統騎馬民族説否定論」だが、私もまったく同感である。

(以下引用)


神武天皇は海洋民族だよね
神武天皇は皇子と船員を連れて、故郷を出発しました。
よく大和朝廷は騎馬民族という意見がありますが、記紀を何処をどう読んでも、騎馬民族という結論には至らない。記紀では、馬が日本に伝わるのは応神天皇となっているので、記述通りならあり得ない。
●日本では大昔には馬が居たらしいが、それは野生の馬で多少は飼われていたかもしれない。骨は出るが騎乗するための馬具が出ない。
古墳時代の中期に入ると馬の骨と馬具などが出る。関東が中心。
●この時代に朝鮮半島から来たとされるが、それなら西日本が中心でないとおかしいのではないか??
●蝦夷との戦争で馬が活用されたのか?
●わたしは蝦夷から馬が伝わったのではないか?と疑っている。
●大和朝廷は東北の蝦夷を征伐した「現実的理由」に金と馬があったのではないか? だから関東に馬がたくさん出てくるのではないか??


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