同じく、前出サイトから転載。
海幸彦山幸彦で、困窮した海幸彦(のほうだと思う)が、「俳人(俳優、ピエロ的存在)になって仕えるから許してくれ」というのが、下の記事の前半の意味。なお、「狗」も侮蔑的意味がある。「偽物」という意味合いが強く、「狗人」は、「原日本人」に与えられた、「人の姿をしている、人の偽物」の意味だろう。九州の稲作についての記述も、まさにその通りだろう。大和朝廷の東征自体が、稲作の適地を求めての意味合いが非常に強いと思う。単なる領土拡張というのは、古代では経済的な意義が無い。稲でないと、税も取り立てられないからこそ、後世でも百姓以外は納税義務が無かったのである。その経済的欠陥が徳川幕府崩壊の真の原因だったと私は見ている。
(以下引用)
狗人と俳人
狗は番犬という意味でしょう。俳人の「俳」は「人に非ず」と書くのを見るに良い意味ではない、ような気がします。
大和朝廷の根本は稲でした。米は保存が利くもので、これを「税」として「通貨」代わりに徴収することで、大和朝廷という国家を成立させました。だから、稲が大事です。
ところが九州南部は水はけが良すぎて稲が育たない。
だから九州南部は大和朝廷になかなか参加することが出来なかった。というか、参加するメリットが無い。なにより九州南部は沖縄・台湾・中国といった交易によって利益を得ていたので、国力もあった。
仲哀天皇が九州を平定したとありますが、これもまだ九州北部です。つまり神功皇后が朝鮮征伐を行ったときもまだ、九州南部は独立を保っていました。わたしは神功皇后が朝鮮に進出した背景が、九州南部以外の交易ルートを確保するという目的があったからと考えています。
その後、九州南部も大和朝廷に参加します。おそらく、朝鮮半島経由の中国→中国南部という別の交易ルートが生まれたために、優位が崩れ、国力が落ちたのでしょう。その後、白村江の敗戦で朝鮮半島ルートが遮断されるのですが、そのときには九州南部が大和朝廷に入っているために、経済的な意味では朝鮮が不要になった。ひっくり返すと、九州南部の存在価値は相対的に上がる事になります。
そういう複雑な事情があって、俳人・狗人とおとしめながらも、神話に取り込んで行くことになります。おとしめては居るのですが、この神話で言えば、隼人は皇統なのです。天皇の祖先の兄弟なのです。「血」で言えば悪いものではありません。
海幸彦山幸彦で、困窮した海幸彦(のほうだと思う)が、「俳人(俳優、ピエロ的存在)になって仕えるから許してくれ」というのが、下の記事の前半の意味。なお、「狗」も侮蔑的意味がある。「偽物」という意味合いが強く、「狗人」は、「原日本人」に与えられた、「人の姿をしている、人の偽物」の意味だろう。九州の稲作についての記述も、まさにその通りだろう。大和朝廷の東征自体が、稲作の適地を求めての意味合いが非常に強いと思う。単なる領土拡張というのは、古代では経済的な意義が無い。稲でないと、税も取り立てられないからこそ、後世でも百姓以外は納税義務が無かったのである。その経済的欠陥が徳川幕府崩壊の真の原因だったと私は見ている。
(以下引用)
狗人と俳人
狗は番犬という意味でしょう。俳人の「俳」は「人に非ず」と書くのを見るに良い意味ではない、ような気がします。
大和朝廷の根本は稲でした。米は保存が利くもので、これを「税」として「通貨」代わりに徴収することで、大和朝廷という国家を成立させました。だから、稲が大事です。
ところが九州南部は水はけが良すぎて稲が育たない。
だから九州南部は大和朝廷になかなか参加することが出来なかった。というか、参加するメリットが無い。なにより九州南部は沖縄・台湾・中国といった交易によって利益を得ていたので、国力もあった。
仲哀天皇が九州を平定したとありますが、これもまだ九州北部です。つまり神功皇后が朝鮮征伐を行ったときもまだ、九州南部は独立を保っていました。わたしは神功皇后が朝鮮に進出した背景が、九州南部以外の交易ルートを確保するという目的があったからと考えています。
その後、九州南部も大和朝廷に参加します。おそらく、朝鮮半島経由の中国→中国南部という別の交易ルートが生まれたために、優位が崩れ、国力が落ちたのでしょう。その後、白村江の敗戦で朝鮮半島ルートが遮断されるのですが、そのときには九州南部が大和朝廷に入っているために、経済的な意味では朝鮮が不要になった。ひっくり返すと、九州南部の存在価値は相対的に上がる事になります。
そういう複雑な事情があって、俳人・狗人とおとしめながらも、神話に取り込んで行くことになります。おとしめては居るのですが、この神話で言えば、隼人は皇統なのです。天皇の祖先の兄弟なのです。「血」で言えば悪いものではありません。
●そういうと山幸海幸で隼人が取り上げられているのは、古事記編纂時の政治事情から…という風に聞こえますが、日本書紀で異伝が書かれている以上は、神話自体は古いと思います。
●個人的には九州南部からあらゆる文化が入って来た。その経緯がこの神話に反映されているとも思っています。
●個人的には九州南部からあらゆる文化が入って来た。その経緯がこの神話に反映されているとも思っています。
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前出のサイトの記事。
(以下引用)
地上で初めて作られた稲?
今では出雲で稲作の跡(遺跡)が見られるわけですから、この書で稲作をしていることに、大した意味は無いのかもしれませんが……
アマテラスがオシホミミ、オシホミミからニニギへと伝えられた「稲」が、天孫降臨によって地上にもたらされ、そしておそらくは初めての「稲の収穫」となります。
参考:第九段一書(二)—4齋庭の穂を、我が子オシホミミに
これまでも稲作は登場していますが、それは高天原での稲作であって地上ではこれが初めてです。
ニニギが「笠狭(カササ)の岬」に辿り着いたこと。コノハナサクヤヒメがここで地上初めての稲作を行い、酒を造り、新嘗祭で奉納したことを考えると、日本の稲作の到達点は九州南部だったのだと思います。
(以下引用)
地上で初めて作られた稲?
今では出雲で稲作の跡(遺跡)が見られるわけですから、この書で稲作をしていることに、大した意味は無いのかもしれませんが……
アマテラスがオシホミミ、オシホミミからニニギへと伝えられた「稲」が、天孫降臨によって地上にもたらされ、そしておそらくは初めての「稲の収穫」となります。
参考:第九段一書(二)—4齋庭の穂を、我が子オシホミミに
これまでも稲作は登場していますが、それは高天原での稲作であって地上ではこれが初めてです。
ニニギが「笠狭(カササ)の岬」に辿り着いたこと。コノハナサクヤヒメがここで地上初めての稲作を行い、酒を造り、新嘗祭で奉納したことを考えると、日本の稲作の到達点は九州南部だったのだと思います。
●海幸・山幸の物語も九州南部に伝わった物語と思われます。
●これらの九州南部の神話が日本神話の重要な部分に入っているのは、九州南部が大和朝廷に参加するのが遅かったから?という説がよく言われますが、ちょっと辻褄が合わない。
●九州南部は沖縄・台湾・中国南部、そして東南アジアからインド、果ては中東やギリシャ・ヨーロッパまでを繋ぐ非常に大きな海運交易の入り口であり、文化・技術が流入する窓口だったのではないでしょうか?
●これらの九州南部の神話が日本神話の重要な部分に入っているのは、九州南部が大和朝廷に参加するのが遅かったから?という説がよく言われますが、ちょっと辻褄が合わない。
●九州南部は沖縄・台湾・中国南部、そして東南アジアからインド、果ては中東やギリシャ・ヨーロッパまでを繋ぐ非常に大きな海運交易の入り口であり、文化・技術が流入する窓口だったのではないでしょうか?
高天原は朝鮮半島だった、という仮定で書くつもりだが、その参考。「空国」は「カラクニ(韓国)」とも読めるので、この名称を使う予定。高天原はその美称とする。「ソシシノ」も、「ソ」が「祖」であるとして、「先祖のいらっしゃった韓の国」が、「ソシシノムナクニ」とされた、とする。
第九段本文―8
高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は眞床追衾(マトコオフスマ=古代の掛け布団)を皇孫(スメミマ)の天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に着せて、天から地上に降しました。
天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は天盤座(アマノイワクラ)を後にすると、
天八重雲(アメノヤエクモ=幾重にも折り重なった雲)を押し分け、いくつもの別れ道を抜けて、日向の襲高千穗峯(ソノタカチホノタケ)に降り立ちました。
そこから天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)から立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)に降り立ち、
膂宍空国(ソシシノムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から良い国を探して通り抜けて、ついに
吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬に着きました。
高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は眞床追衾(マトコオフスマ=古代の掛け布団)を皇孫(スメミマ)の天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に着せて、天から地上に降しました。
天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は天盤座(アマノイワクラ)を後にすると、
天盤座は阿麻能以簸矩羅(アマノイワクラ)と読みます。
天八重雲(アメノヤエクモ=幾重にも折り重なった雲)を押し分け、いくつもの別れ道を抜けて、日向の襲高千穗峯(ソノタカチホノタケ)に降り立ちました。
そこから天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)から立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)に降り立ち、
立於浮渚在平處は羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志(ウキジマリタヒラニタタシ)と読みます。
膂宍空国(ソシシノムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から良い国を探して通り抜けて、ついに
頓丘は毗陀烏(ヒタオ)と読みます。覓国は矩貳磨儀(クニマギ)と読みます。行去は騰褒屢(トホル)と読みます。
吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬に着きました。
古事記の対応箇所
息子ニニギを地上に
オシホミミの提案どおりにニニギが降る
サルタヒコが名乗る
ニニギ、筑紫の日向に降臨
ニニギの天孫降臨
カムアタツヒメとの出会い
古語拾遺の対応箇所
古語拾遺12 天祖の神勅
息子ニニギを地上に
オシホミミの提案どおりにニニギが降る
サルタヒコが名乗る
ニニギ、筑紫の日向に降臨
ニニギの天孫降臨
カムアタツヒメとの出会い
古語拾遺の対応箇所
古語拾遺12 天祖の神勅
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解説
眞床追衾(マトコオフスマ)
なんで掛け布団を着せたのか?というと、ニニギがまだ子供だからです。
日向の襲高千穗峯
日向という名前は「日が当たる場所」という意味で、特定の土地を表わしているとは限りません。また高千穂嶺という名前も、「高い」「実りの多い」「山」という程度の意味で、固有名詞とは言いきれません。
槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)
槵日二上(クシヒノフタガミ)は頂点が二つあるという訳仕方をされますが、いまいち、よく分かりません。天浮橋(アメノウキハシ)は天の橋立のような中海に出来た中州ともされますが、ハッキリしません。
立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)
海の浮島の平らな所のこと、とされます。
膂宍空国(ソシシノムナクニ)
膂宍(ソシシ)は背中の肉。背中の肉は食べるところが少ないので、痩せたという意味です。空国(ムナクニ)は同様に空っぽの国という意味です。ムナクニと読まずに「カラクニ」と読む場合もあります。現在の朝鮮半島を指しているとも言われています。
頓丘(ヒタオ)
中国の濮陽の近くに頓丘という都市がありました(現在は分からない)。これが頓丘(ヒタオ)なのかもしれませんが、漢字の成り立ち(頓丘でなだらかな丘とか凄い丘とか)から考えても中国の都市と考えるのは無理がある。
覓国(クニマギ)
クニマギは「良い土地を探して歩くこと」を指しています。ニニギが天から降り立ちながら、あちこちを探してあるいているということです。出雲はどうなったのやら。
吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬
鹿児島の西部に笠狭(カササ)の岬があり、ここだろうということになっています。
ということは最終的に鹿児島に降り立ったということになります。まぁ、本当に鹿児島の西部かはともかく、この後、九州南部出身の隼人族のコノハナサクヤヒメことカムアタツヒメが登場することを考えれば、ここがニニギが到着した土地で無かったとしても、九州南部にやってきたことは間違いないのです。
ということは出雲はどうなった?と考えるのが筋。物語の時系列としてはニニギが降り立つより出雲の国譲りは後の物語なんじゃないか?とも思います。
なんで掛け布団を着せたのか?というと、ニニギがまだ子供だからです。
日向の襲高千穗峯
日向という名前は「日が当たる場所」という意味で、特定の土地を表わしているとは限りません。また高千穂嶺という名前も、「高い」「実りの多い」「山」という程度の意味で、固有名詞とは言いきれません。
槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)
槵日二上(クシヒノフタガミ)は頂点が二つあるという訳仕方をされますが、いまいち、よく分かりません。天浮橋(アメノウキハシ)は天の橋立のような中海に出来た中州ともされますが、ハッキリしません。
立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)
海の浮島の平らな所のこと、とされます。
膂宍空国(ソシシノムナクニ)
膂宍(ソシシ)は背中の肉。背中の肉は食べるところが少ないので、痩せたという意味です。空国(ムナクニ)は同様に空っぽの国という意味です。ムナクニと読まずに「カラクニ」と読む場合もあります。現在の朝鮮半島を指しているとも言われています。
頓丘(ヒタオ)
中国の濮陽の近くに頓丘という都市がありました(現在は分からない)。これが頓丘(ヒタオ)なのかもしれませんが、漢字の成り立ち(頓丘でなだらかな丘とか凄い丘とか)から考えても中国の都市と考えるのは無理がある。
覓国(クニマギ)
クニマギは「良い土地を探して歩くこと」を指しています。ニニギが天から降り立ちながら、あちこちを探してあるいているということです。出雲はどうなったのやら。
吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬
鹿児島の西部に笠狭(カササ)の岬があり、ここだろうということになっています。
ということは最終的に鹿児島に降り立ったということになります。まぁ、本当に鹿児島の西部かはともかく、この後、九州南部出身の隼人族のコノハナサクヤヒメことカムアタツヒメが登場することを考えれば、ここがニニギが到着した土地で無かったとしても、九州南部にやってきたことは間違いないのです。
ということは出雲はどうなった?と考えるのが筋。物語の時系列としてはニニギが降り立つより出雲の国譲りは後の物語なんじゃないか?とも思います。
個人的コラム
日本人にとって神は海の向こうから
ニニギの天孫降臨の記述から、ニニギは韓国人だ!と主張する人が中に居るらしい。夢はありますが、その前に考えないといけないことがあります。
日本人にとって神は海の向こうから来るもの。だから神武天皇は九州を出発し機内へ行き、神宮皇后は神武天皇と同様に瀬戸内海を通って機内に入っています。またエビス信仰、スクナヒコナ、大物主神と、海からやってくる信仰は幾らでもあります。
神は海の向こうから来るもの。海の向こうから来るといっても、近場の島からではありがたみが在りません。遠い場所から来た方が価値が上がります。神秘性が高まります。そこで、出来るだけ遠い場所から来たように設定します。
そして日本人にとって海の向こうの世界は、死の国でもあります。決して極楽や楽園という訳ではありません。
ただ、神話の中に史実が紛れ込んでいることはありますから、実際に中国の都市から朝鮮半島を通って来た可能性もありますよ。
ニニギの天孫降臨の記述から、ニニギは韓国人だ!と主張する人が中に居るらしい。夢はありますが、その前に考えないといけないことがあります。
日本人にとって神は海の向こうから来るもの。だから神武天皇は九州を出発し機内へ行き、神宮皇后は神武天皇と同様に瀬戸内海を通って機内に入っています。またエビス信仰、スクナヒコナ、大物主神と、海からやってくる信仰は幾らでもあります。
神は海の向こうから来るもの。海の向こうから来るといっても、近場の島からではありがたみが在りません。遠い場所から来た方が価値が上がります。神秘性が高まります。そこで、出来るだけ遠い場所から来たように設定します。
そして日本人にとって海の向こうの世界は、死の国でもあります。決して極楽や楽園という訳ではありません。
ただ、神話の中に史実が紛れ込んでいることはありますから、実際に中国の都市から朝鮮半島を通って来た可能性もありますよ。
征服民族(日本への侵略民族)としての大和朝廷の物語を書こうと思っているが、その参考にするための「日本書紀」を訳したサイトに、こんなコラムがある。一見、右翼系サイトかと思われるのだが、必ずしもそうでもないようだ。
(以下引用)
(以下引用)
個人的コラム
名前が違うがほとんど同じ話をなぜ残すか?
日本書紀の物語の最大の疑問は、なぜ別伝を残したのか?です。そんなことをする必要はありません。日本書紀が外国向けに書かれた大和朝廷の正統性を主張する歴史書ならば、余計な別伝を残す必要は全くないのです。むしろ情勢が不安定であると証明するようなものではないでしょうか???
この六段一書(一)は六段本文と神の名前が違う程度でほとんど同じもの。なぜこれを残す必要があったのでしょうか???????
それは政治的敗者の鎮魂ではないか?
というのが私の意見です。
長い歴史の中で政治敗者が存在し、それは名前も無くなり記憶にも残りませんでした。その名残を伝えるのは唯一、神話だけ。神の名前だけです。かつて、その神を祀り、神と共に生きた氏族が居たのです。神の子孫として名前が日本書紀に挙げられている氏族は一部。名前だけでも残った氏族はその後没落したとしても、まだ幸運な氏族でした。
そんな消えていった氏族の魂を鎮魂する必要がありました。
なぜか??
祟るからです。
怨霊信仰の成立は平安からとされますが、そもそも日本人の神との接し方は「ご機嫌取り」です。機嫌を損ねて暴れないように供物をささげるのです。そのご機嫌取りが上手に出来る人のことが「神官」であり、そのトップが天皇だったのです。古代において神のご機嫌取りは何よりも重要なお仕事です。雨が降りすぎても困るし、日照りが続いても困る。丁度良くしてもらうためには、そういう儀式が必要です。
それは死んでいった「人間」でも同じでした。日本では人間も死後には霊体となり、人外の存在(=神)となります。彼らのご機嫌取りも大事な仕事でした。
その一つが日本書紀でした。別伝を残すことで鎮魂をする。それは天皇と大和朝廷に必要な国家プロジェクトだった……のではないか?と考えています。
日本書紀の物語の最大の疑問は、なぜ別伝を残したのか?です。そんなことをする必要はありません。日本書紀が外国向けに書かれた大和朝廷の正統性を主張する歴史書ならば、余計な別伝を残す必要は全くないのです。むしろ情勢が不安定であると証明するようなものではないでしょうか???
この六段一書(一)は六段本文と神の名前が違う程度でほとんど同じもの。なぜこれを残す必要があったのでしょうか???????
それは政治的敗者の鎮魂ではないか?
というのが私の意見です。
長い歴史の中で政治敗者が存在し、それは名前も無くなり記憶にも残りませんでした。その名残を伝えるのは唯一、神話だけ。神の名前だけです。かつて、その神を祀り、神と共に生きた氏族が居たのです。神の子孫として名前が日本書紀に挙げられている氏族は一部。名前だけでも残った氏族はその後没落したとしても、まだ幸運な氏族でした。
そんな消えていった氏族の魂を鎮魂する必要がありました。
なぜか??
祟るからです。
怨霊信仰の成立は平安からとされますが、そもそも日本人の神との接し方は「ご機嫌取り」です。機嫌を損ねて暴れないように供物をささげるのです。そのご機嫌取りが上手に出来る人のことが「神官」であり、そのトップが天皇だったのです。古代において神のご機嫌取りは何よりも重要なお仕事です。雨が降りすぎても困るし、日照りが続いても困る。丁度良くしてもらうためには、そういう儀式が必要です。
それは死んでいった「人間」でも同じでした。日本では人間も死後には霊体となり、人外の存在(=神)となります。彼らのご機嫌取りも大事な仕事でした。
その一つが日本書紀でした。別伝を残すことで鎮魂をする。それは天皇と大和朝廷に必要な国家プロジェクトだった……のではないか?と考えています。
崇神天皇は第十代天皇とされているが、日本書紀では「ハツクニシラススメラミコト」と書かれており、大和朝廷を確立した天皇と思われる。その和風諡号は「ミマイリビコイニエノスメラミコト」で、「イリビコ」は「入彦」の字が当てられている。つまり、「他所から来た男」である。あるいは、沖縄では東を「アガリ」、西を「イリ」と言うが、「西から来た男」とも解釈できるのではないか。(「アガリ」は日が上がる、「イリ」は日が地下に入る意味だと思われる)
つまり、神武東征が、後に大和王朝と呼ばれた王朝の西から東への移動の始まりで、崇神が、大和地方で大和朝廷を確立した、と思われる。当然、この朝廷は大陸あるいは朝鮮からの移入者が中心を占めていただろう。余所者だからこそ、各地に盤踞する原日本人を「征服」する必要があったのだ。それは、稲の栽培に適した場所を求めての東征でもあっただろう。この人々が、弥生人である。
つまり、神武東征が、後に大和王朝と呼ばれた王朝の西から東への移動の始まりで、崇神が、大和地方で大和朝廷を確立した、と思われる。当然、この朝廷は大陸あるいは朝鮮からの移入者が中心を占めていただろう。余所者だからこそ、各地に盤踞する原日本人を「征服」する必要があったのだ。それは、稲の栽培に適した場所を求めての東征でもあっただろう。この人々が、弥生人である。
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冬山想南
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