VRゲームやってて、拳銃は片手撃ちだと射線が安定しないことを実感した。両手で構えるとそれだけで命中率が飛躍的に上がる。
私は、最近のガンアクションがどれもこれも両手撃ち(「ブラックラグーン」除く)なのが気に食わないのだが、その方が命中率は上がる、というのは理解はできる。しかし、0・1秒を争う闘争の場面で、両手で構えるのは、片手撃ちに比べてはるかに速さが劣る、つまり大きく不利になるに決まっている。敵のいる場所にこっそり忍び込んで先制攻撃を加える「警察式」のガンアクションを、ギャング同士の闘争場面(敵味方入り乱れての闘争シーン)にまで使うのはいかがなものか。まして、西部劇にまで両手撃ちを使うようになれば、西部劇は終わりだろう。
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冒頭にナレーションなどで状況説明をするというのは、言われてみれば悪手かもしれない。観客(読者)はそれを記憶して先に進むしかないわけだから、観客(読者)に過剰な負担をかけるわけである。
私はついこの間、山田風太郎の「忍法八犬伝」を読み、それが面白かったので、市民図書館で山田風太郎の他の作品を探して、「飛騨忍法帖」というのを借りてきたのだが、冒頭部分にいきなり六人もの名前が出てきて、少しうんざりした。まあ、忘れたら忘れたでいいさと気楽に読めばいいのだが、やはりどこかに「自分は雑な読み方をしている」という気の重さが残るわけである。これは娯楽小説としては欠点だろう。
これが「水滸伝」などだと、登場人物は主要人物だけでも108人と多いのだが、ひとつひとつの話の登場人物は少なく、あまり名前を覚える必要はないし、自然に覚えるのである。やはり、古典的な大衆小説は「人間の生理」というのをよく分かっている。
まったく状況説明をしない代表例が「エバンゲリオン」で、あれは最後まで説明をしなかった。それでも、キャラが立っていたので、視聴者は、その回その回を単独で楽しめたのである。
私は、大衆小説や漫画や映画の「基本的な(あるいは一番重要な)教え」として、「説明するな。描写しろ」という指針がある、と思っている。説明とは、観客や視聴者の想像力や理解力を信頼していない、ということなのである。
(以下引用)
私はついこの間、山田風太郎の「忍法八犬伝」を読み、それが面白かったので、市民図書館で山田風太郎の他の作品を探して、「飛騨忍法帖」というのを借りてきたのだが、冒頭部分にいきなり六人もの名前が出てきて、少しうんざりした。まあ、忘れたら忘れたでいいさと気楽に読めばいいのだが、やはりどこかに「自分は雑な読み方をしている」という気の重さが残るわけである。これは娯楽小説としては欠点だろう。
これが「水滸伝」などだと、登場人物は主要人物だけでも108人と多いのだが、ひとつひとつの話の登場人物は少なく、あまり名前を覚える必要はないし、自然に覚えるのである。やはり、古典的な大衆小説は「人間の生理」というのをよく分かっている。
まったく状況説明をしない代表例が「エバンゲリオン」で、あれは最後まで説明をしなかった。それでも、キャラが立っていたので、視聴者は、その回その回を単独で楽しめたのである。
私は、大衆小説や漫画や映画の「基本的な(あるいは一番重要な)教え」として、「説明するな。描写しろ」という指針がある、と思っている。説明とは、観客や視聴者の想像力や理解力を信頼していない、ということなのである。
(以下引用)
テレビアニメ『母をたずねて三千里』には、冒頭、何も考えずに状況説明ナレーションを入れる愚挙を戒められた。
ナレーションに頼るのは、楽に『描いた』気になれる罠がある。
(使わなくはないが、ページの圧縮と、リズム作りだな)
前回に書いた記事に関する補足だが、ブラックホールを「もう一つの宇宙への入り口」と考えるなら、SF的には面白いかもしれない。数学での「正の数と負の数」のように、ブラックホールの向こう側には「負の宇宙」が存在する、という考えだ。この地球から突然消えた存在は、地球上の小さなブラックホールを通って「負の宇宙」へ転送されたわけである。まあ、ドラえもんの「どこでもドア」の一形態とも言える。『漂流教室』なども、それ。
向こう側の世界では、すべてが反転している、というアイデアもあるが、それだと内臓が外にあるような生き物が存在したりしてグロである。まあ、「すべてが反転」ではなく、数学的な世界や物理現象の多くが反転する、というのならいいかもしれない。
向こう側の世界では、すべてが反転している、というアイデアもあるが、それだと内臓が外にあるような生き物が存在したりしてグロである。まあ、「すべてが反転」ではなく、数学的な世界や物理現象の多くが反転する、というのならいいかもしれない。
これは漫画原作を書く時のいい心構えだと思うが、「絵が浮かばないのはイメージの貧困」と言うのは、漫画家のイメージの貧困なのか、原作者のイメージの貧困なのか、両者の貧困なのかwww 普通は、原作の抽象的部分を視覚的イメージにするのは漫画家の仕事だと思う。
主人公がイライラしている場面が「主人公がいらいらする」としか原作に指定されていなければ、それをどういう風な動作として効果的かつキャラを引き立てる形で視覚化するかに「原作付き漫画」を描く漫画家のチャレンジするべきクリエィティブな領域があるのではないだろうか。
(補足)上のツィートだけを読んで脊髄反射的に最初の文章を書いたのだが、山本氏の姿勢は「原作尊重」のようで、原作者と漫画家の「合作」というより、漫画家は原作者の意志を最大に尊重して、それに忠実に漫画化すべきだという考えかと思われる。特に、下のツィートでは、「初期段階」ではキャラがまだ立っていないから、漫画家が暴走してはいけないという戒めだろうか。
山本貴嗣 @atsuji_yamamoto14 時間前
主人公がイライラしている場面が「主人公がいらいらする」としか原作に指定されていなければ、それをどういう風な動作として効果的かつキャラを引き立てる形で視覚化するかに「原作付き漫画」を描く漫画家のチャレンジするべきクリエィティブな領域があるのではないだろうか。
具象と抽象、の対比だけど、漫画原作は具象がいい。たとえば「主人公がいらいらする」では抽象的に過ぎる。いらいらの出方は人によって異なる。「つめを噛む」「びんぼうゆすりをする」「頭をかく」のように具体的でないと漫画家には伝わらない。絵が浮かばないのはイメージの貧困。
(補足)上のツィートだけを読んで脊髄反射的に最初の文章を書いたのだが、山本氏の姿勢は「原作尊重」のようで、原作者と漫画家の「合作」というより、漫画家は原作者の意志を最大に尊重して、それに忠実に漫画化すべきだという考えかと思われる。特に、下のツィートでは、「初期段階」ではキャラがまだ立っていないから、漫画家が暴走してはいけないという戒めだろうか。
山本貴嗣 @atsuji_yamamoto14 時間前
連載が長期にわたって、もうこのキャラがどういうときにどういう反応をするか共通認識ができてしまってからなら省略も可能だけど、キャラが立つ前に省略するとキャラが立たない。
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新しい会話
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あしたのジョーで力石を大男に描いてしまって梶原先生が激怒した ってのも元を辿れば背格好をすりあわせしてなかったのが原因ですからね 結果的にはそこから無理な減量で試合後に死亡ってストーリーが出来上がったので結果オーライでしょうけど
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冬山想南
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