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「シロクマの屑籠」というブログの記事の一部である。
敗戦末期の陸軍と海軍の分裂状態が無くても日本は負けたとは思うが、海軍の勝手な行動が南洋の島々の陸軍兵士たちを飢餓と病気による大量死に追い込んだのは間違いない。その意味では、戦後に海軍関係者によって流された「陸軍悪玉論」は的外れであり、海軍こそが日本の敗戦の主犯だったと言ってよいかと思う。
しかし、中国を既に我が領土と見做していたのが下の地図からも推測できる。軍隊が進出したらそれだけで自国領土と思う甘さが見て取れる。まあ、一番最初の戦略構想そのものがいい加減すぎたのである。日本のような小国が「大和魂(兵士の勇敢さ)」だけでこれだけの広い範囲で戦えると思うこと自体がキチガイである。
将棋の盤面を四倍くらいにし、相手はこちらの四倍から十倍の駒を持って勝負して勝てるか、という話だ。もちろん、相手の王将も四つか五つくらいあるわけだ。


 

 

 
 令和の絶対国防圏。
 
 もう、タイトルだけで言い切ってしまったような気がするが、令和時代の日本は、絶対国防圏の頃の日本になんだか似ていると思う。
 
 絶対国防圏とは、アメリカの反攻作戦を受けて1943年9月の御前会議で決まった「絶対に守るべき」「ここが破れたら敗戦確定」とみなされた防衛ラインのことだ。
 
 しかし上の地図をみていただいてもわかるように、この絶対国防圏、えらく範囲が広い。絶対国防圏が本土からみて南南東の方向に大きく張り出しているのは、ここにカロリン諸島などが含まれるためだが、こんなに広い範囲を絶対国防するのはかなり無理がある。
 

昭和の歴史〈7〉太平洋戦争 (小学館ライブラリー)

昭和の歴史〈7〉太平洋戦争 (小学館ライブラリー)

  • 作者:木坂 順一郎
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1994/09
  • メディア: 新書
 
 小学館『昭和の歴史7 太平洋戦争』では、絶対国防圏を決定する御前会議について、以下のように記している。
 

けっきょく陸軍の「絶対国防圏」思想と海軍の前方決戦主義という戦略構想の不一致をかかえたまま、九月三〇日の御前会議でつぎのような「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定された。
(中略)
 そのため「絶対国防圏」の東側地域に展開していた約三〇万の陸海軍部隊は、置き去りにされ、やがて各地で守備隊玉砕の悲劇があいつぐ素地がつくられた。しかもこの御前会議では、「絶対確保圏を確保する自信があるのか」という原嘉道枢密院議長のきびしい質問にたいし、永野軍令部総長が「絶対確保の決意あるも勝敗は時の運である。……今後どうなるか判らぬ。戦局の前途を確言することは出来ぬ」と答えたため議場がにわかに緊張し、東条首相と杉山参謀総長があわてて打ち消すという一幕がみられた。軍部の最高指導者の一部は、戦局の見通しに自信をうしないはじめていた。

 
 絶対国防圏と名付けたものの、指導部もこれを守り切る自信が無かったようだ。そのうえ海軍は絶対国防圏の外側に固執し、サイパンやグアムの防衛にあまり力を入れていなかった。
 
 あれもこれも守りたい・どれも捨てられない意思決定の結果として、絶対国防圏は絵に描いた餅のような内容になり、アメリカ軍という現実によって粉砕されてしまった。
 








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これは小説でも映画やテレビドラマでも無視されている部分で、描かれてもせいぜい「補給路を断つ、あるいは、糧秣車を焼く」程度のゲリラ的軍事行動くらいである。
しかし、下の写真で見られるように、軍隊の規模が大きく戦闘に日数がかかると、糧食も弾丸や弾薬も膨大な量になり、補給自体が不可能になる。ナポレオンもヒトラーもロシアとの戦で敗北したのは、補給線が長く伸びすぎたのが一因、と言うか最大原因だろう。ちなみに、日本軍の太平洋戦争での惨敗も、最大原因は補給を無視したためである。よく知られているように、太平洋戦争での日本軍兵士の死は六割くらいが餓死と病死であったという。



さんがリツイート

軍事と言えば前線で銃を撃ち合うものだと思われがちだけど、業務としては補給の方が規模は大きくなるんだよね。
何しろ1万人の10日分の食料だけで30万食になるから、10万人規模を動員して作戦する為にはまず300万食を集積しなくちゃいけない。
しかもそれを前線まで運ぶ必要もある...。




別ブログに書いた記事だが、記事の性質上、こちらのブログのほうが掲載場所には適当かと思うので、転載しておく。なお、「独楽」は「コマ」の意味ではなく、漢字の意味のとおり、「独りを楽しむ」意味。
私自身の創作も、「独りを楽しむ」のが主な目的であり、ヘンリー・ダーガーと私は類縁の者である。


(以下自己引用)





笑いの原理

「独楽」的な趣味の一つとして、小説や漫画原作やシナリオを書く、ということについて考えてみる。
断片的に考えていくつもりである。

今日は、最初に、ギャグやユーモアの作り方を考えてみたい。

手元にある三つの漫画から、その特徴や、それがなぜ笑いを生むのかを考えよう。
三つの作品は、「三月のライオン」「でぃす×こみ」「蒼の六郷」である。「三月のライオン」はともかく、ゆうきまさみやあさりよしとおの漫画のユーモアが好きだ、という人は珍しいかもしれないし、彼らの漫画の特長がユーモアだ、と言う人も多くないような気がする。それだけに、なぜそれが「読んで心地いいユーモア」なのかを考察する価値はありそうだ。

まず、「三月のライオン」から考えてみる。
そのユーモアは、「いい大人が子供じみた行動を大真面目でする」、あるいは「大人を大きな子供として描く」ことから来ることが多いように思う。美女も美男も善人も悪人も、どこかで子供っぽい一面を見せ、それで読者は彼らを好きになってしまう、ということが多いのではないか。「悪女」キャラの香子が、食い過ぎで動けなくなる等。
もう一つは、「心で考えていること(自分を美化したりしている)」と、現実行動や他人から見た姿の食い違いによる笑いである。
こう書けば、簡単なように見えるが、その具体的な事柄をひとつひとつのプロットや出来事として頭脳から生み出すことは、なかなか大変だろうと思う。おそらくは、人物たちの出遭う事件に際して、それぞれの人物が考えることや行動することが、「三月のライオン」キャラとしてはこう考え、こう行動するはずだ、という線があるのだろう。
つまり、笑いを狙って、ありえない行動やありえない事件を無理に作るのではなく、ありうる行動だが、「三月のライオン」キャラらしい誇張を加える、ということかと思う。
たとえば、「自分が考えている自分の姿」と「他人が見たその人の姿」の食い違いのような、当たり前の食い違いでも、漫画として描けば、それだけで笑うに足るものとなる。そういう内面と外面の落差というのが、「三月のライオン」ではかなり大きな比重を占めているようだ。それだけでなく、過去の自分と今の自分の落差、理想の自分と現実の自分の落差が、この作品の物語としての大きな柱であり、笑いをも生み出す部分だろう。結論「落差は笑いを生む」。

「でぃす×こみ」の笑いは、何によるものか、分析が難しい。概して、主人公の一人である高校三年生の女生徒でかつ新人漫画家である渡瀬かおるのキャラクターが笑いを作っているようだ。可愛いが少し癇癪持ちで、頑固で融通が利かないところがあるが、素直に他者の美点を認めるし、常に前向きである。頭はいいがどこかずれていてのんびり屋の兄とのコンビネーションが笑いを生むのだと思う。落語の「長短」みたいなものだ。いずれにしても、キャラから来る笑いであり、また、兄妹両者の落差(編集者との落差もある。)から来る笑いだから、ここでも「落差は笑いを生む」原理に従っているかと思う。


「蒼の六郷」はどうか。絵柄の可愛さで読者をほのぼのとした気持ちに誘うのはいつもどおりだし、笑いの質もいつもどおりだが、あさりよしとおの笑いとはどういう笑いなのか、これも分析は難しい。一番目立つのは「何か重大そうな出来事」があって、それに対して登場人物たちが身構えていると、無害そのものの出来事であったことが判明する、という「大山鳴動して鼠一匹」の笑い、「拍子抜け」の笑い、「肩すかし」の笑いかと思う。これは「落とし噺」の常套手段でもあるが、あさりよしとおはこれを多用しているように思う。そして、これもまた「予期したこと」と「解決(真相解明)」の落差から来る、と言える。


以上から結論されることは、「落差が笑いを生む」という原理かと思う。

ハゲ頭そのものも笑いを生む(これは「不調和が笑いを生む」原理と言っておく。)が、禿げ頭の男がかぶっていたカツラが取れて禿げ頭がばれる、という事態のほうが、「落差」が大きいから、それだけ笑いも強くなるのではないか。

なお、「気持ちいい笑い」と「不快感を与える笑い」の違いは、後者にはわざとらしさ(極端な不自然さ)、臭み、他者(特に弱者)に対する悪意が感じられるところにあるかと思う。



(追記)「真田丸」のある場面についてディレクターの一人が語った言葉が、「落差がギャグになる」ことのいい事例かと思うので、引用しておく。ここでは、ギャグが同時にその人物の性格をも表現している。


 一例は第1話「船出」(1月10日放送)。武田家が絶体絶命の危機を迎え、囲炉裏を囲んだ真田家の“家族会議”。父・真田昌幸(草刈正雄)は一家全員を前に「安心せえ。この真田安房守がいる限り、武田が滅びることは決してない」。直後のシーン、息子の信幸(大泉洋)信繁(堺)と3人だけになると、昌幸は「武田は滅びるぞ」-。

 「単純に見るとギャグのようにも思えるし、もちろん笑えるんですが、そこには行間が生まれていて。(昌幸の)母・とり(草笛光子)、妻・薫(高畑淳子)、娘・松(木村佳乃)と女たちの前だと『滅びない』と言い、息子2人の前だと『滅びる』と言う。その間に『昌幸がなぜそうするか』ということは全く語られていないわけですが、昌幸は息子2人を他の者とは全然違うふうに見ているということ、息子2人には本音を語るということが象徴されています。そして昌幸が、必要ならためらうことなく二枚舌を使う男だということも」





この「流砂」への誤解の原因は、「砂漠」そのものへの誤解にあるかと思う。一般に思われているような、大地全体が砂に覆われた砂漠はむしろ少なく、たいていの砂漠はむしろ「土漠」とでも言うべきものだ、と聞いたことがある。まあ、砂の部分と土の部分が半々程度と思えばいいのではないか。
下の動画でも、土壌は砂混じりの土という感じだ。
で、流砂とは、その砂混じりの土が、水が湧き出したために泥状になったものであるようだ。
その流砂からの脱出方法は、「何とかして、まず両足を泥の上に出して(つまり、体を水平にして)」、泥の上を這って脱出する、というものである。泥の表面を「泳ぐ」感じか。
なお、泥の比重が大きいためか、体は一定以上には沈まないようで、溺れ死ぬことは無いらしい。問題は、その流砂から脱出することが非常に難しく、太陽の熱とパニックで死に至ることであるようだ。
下の動画では、脱出後に泥を落とさないと、体が砂でこすれて傷つき、感染症などの危険があることまで親切に語っており、まさに、サバイバルというのは、そこまで考えるべきものなのだな、と感心する。



白土三平の漫画や風の谷のナウシカなどで流砂を知った人は多いと思うが、現実の流砂は砂漠に湧き出た泉で、砂が大量の水分で流動化したもので、底無し沼みたいなもの。漫画やアニメのようなサラサラの流れる砂ではない。>流砂から脱出する方法。>










小田嶋隆の文章の一部だが、創造的な仕事に関する真理だと思う。
我々は、アイデアというのは、天から落ちてくるものだと考えていることが多いが、実は、創造のその過程の中でこそアイデアは浮かんでくるのである。つまり、兼好法師が言うように、考えというのは何かが機縁になって生じるのであり、新しいアイデアも同様だ。しかも、創造の過程で浮かんでくるアイデアは、その創造対象、あるいは創造目的に適合したアイデアであるのは「心理は連想でつながれていく」という前提から当然だろう。
書くことが無ければ、何か適当に書いてみる。すると、書いた内容に刺激されて、思考が動き出すのである。(最初の部分は、きっかけに過ぎないから、ダメ内容であることが多い。そこで、最初の部分を切り捨てるといい作品になるだろう。多くの人は、「素晴らしいアイデアが浮かぶまで」筆を執らない。そこで、無駄な時間を延々と続ける。これを「下手な考え休むに似たり」と言う。)
手塚治虫を始め、天才の多くは、仕事そのものが大好きな、ワーカホリックだったのだ。

(以下引用)



休めば休むだけ、アイディアは枯渇する。少なくとも、私の場合はそうだ。

 アイディアは書けば書くほど湧き出してくるものだ、と、ポジティブに言えばそう言い換えることもできる。

 実際、原稿のネタは、原稿を書いている最中でないと出てこないものだ。だからこそ、Aの原稿を書いていると、別のBの原稿のアイディアが、ふと思い浮かんできたりする。

 ということはつまり、アイディアは、瓶の中に入っている有限な液体よりは、むしろ地下水脈に似ているわけだ。掘り進めば掘り進めるだけいくらでも湧いてくる半面、掘る手を休めると、その時点で枯渇してしまう、と、そう考えるのが、たぶん、勤勉な書き手であるための有効な考え方なのだろう。

 別の言い方をすれば、勤勉な時間の過ごし方に快適さを感じる意識のあり方を、才能と呼ぶわけだ。









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