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例のサイトの解説部分で、多くの氏族が名前の由来を偽っているという理由で天皇がクガタチを命じる話だが、下の解釈は「クガタチ」というものに実に合理的な説明を加えていて感心した。
同じ行為でも、時間的順序で明確な差が出る、ということ、「時間差」という「目に見えないもの」を利用する、というのは実に狡猾である。この詐欺に不満の声を上げた人間は、その反抗自体がケシカランとして処罰されたのではないか。中世西洋の魔女裁判も同じだっただろう。つまり、「権力犯罪」である。


(以下引用)



そこで、お湯を沸かして、次々に手を突っ込んでいった。泥を掴んでくれば「正しい」。火傷すれば「嘘をついていた」となります。

おそらく、お湯を炊き始めて、順番に有力者から探湯(クカタチ)をしていった。当然、火をつけて間もなくはお湯の温度は低いので、最初の氏族は問題が無かった。しかし、徐々にお湯の温度があがり、弱小氏族は火傷をしていった。そのまま弱小氏族は氏姓を失った。



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仁徳記には、百済からの朝貢があったという記述が多い。一方で新羅へも朝貢の要求はするが、新羅がそれに応じることは少なかったようだ。
大和朝廷発展期に朝鮮の各国の政治体制が整っていなかったのは事実だろうが、では百済や新羅は日本の属国だったのだろうか。日本側はそう思っていただろうが、朝鮮側はどう思っていたか。
私は、百済の王族か地方首長が大和朝廷の祖だと考えているが、それは朝鮮半島の国家体制が日本より進んでいたという意味ではない。単に「戦争慣れした民族」だ、というだけの話である。だから日本の支配者になれたわけだ。そして、日本征服の段階において軍事技術の発展もあったのだろう。だから朝鮮半島にちょっかいも出したのだろうが、そのメリットがよく分からない。土地の産物と言っても、コメの収量が多いわけでもなく、名産品があったとも思えないのだが、養蚕技術や機織り染色などは日本より進んでいたのだろう。そのひとつの答えが、「捕虜」にして、その技術や知識を日本でのさまざまな仕事に使う、というものだ。


仁徳天皇(三十三)百衝はいつも軍の右の先鋒に

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原文

五十三年、新羅不朝貢。夏五月、遣上毛野君祖竹葉瀬、令問其闕貢。是道路之間獲白鹿、乃還之獻于天皇。更改日而行、俄且重遣竹葉瀬之弟田道、則詔之日「若新羅距者、舉兵擊之。」仍授精兵。新羅起兵而距之、爰新羅人日々挑戰、田道固塞而不出。時新羅軍卒一人有放于營外、則掠俘之、因問消息、對曰「有强力者、曰百衝、輕捷猛幹。毎爲軍右前鋒、故伺之擊左則敗也。」時新羅空左備右、於是田道、連精騎擊其左。新羅軍潰之、因縱兵乘之殺數百人、卽虜四邑之人民以歸焉。

現代語訳

即位53年。新羅が朝貢しませんでした。

夏5月。上毛野君(カミツケノキミ)の祖先の竹葉瀬(タカハセ)を派遣して、その朝貢しなかったことを問わせました。この道路(ミチ)の間に白鹿(シロキカ)を獲りました。すぐに帰って天皇に献上しました。それで日を改めて行きました。しばらくしてまた重ねて竹葉瀬(タカハセ)の弟の田道(タジ)を派遣しました。天皇が詔(ミコトノリ)して言いました。
「もし新羅が拒絶したら、兵を挙げて撃て」
精鋭の兵を授けました。新羅は兵を起こして拒絶してきました。新羅人は日々、戦いを挑んできました。田道(タジ)は塞(ソコ=砦のこと)を固めて出ませんでした。その時、新羅の軍の兵卒の一人が営(イオリ=陣営)の外に出ました。それを捕らえました。消息(アルカタチ=内情)を問いました。答えて言いました。
「強力(チカラ)のある人がいます。百衝(モモツキ)といいます。軽く、早く、勇猛で、強い。いつも軍の右の先鋒です。左から撃てば敗れるでしょう」
そこで新羅は左を空けて、右に準備していました。そこで田道は精鋭の騎兵を連ねて、その左を撃ちました。新羅の軍は逃げて潰れました。兵を放って追い、数百人を殺しました。四つの邑の人民を捕らえて帰りました。
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解説

古事記にはない話
新羅は何回盾突くのやら。その度に、日本は使者を派遣したり、兵を派遣して、鎮圧します。新羅はかなり反抗的だったと。それに対してどうして百済は反抗しなかったのか? むしろ融和したのはなぜか?
私が最近日本書紀を読んでいるのは、それを使った創作を考えているためでもあるが、それ以上に、その不自然なところを「解釈」するのが面白いからだ。
下の記述の「(殺される女の)肌を露出させるなよ」「手足の飾りの玉を取るなよ」というのは、「レイプしたりするなよ」という意味ではないか。殺される雌鳥皇女と皇后は姉妹だったので、少しの情けを示したのだろう。
なお、仁徳天皇の仁慈を褒める記述が書紀の仁徳記には多いが、その一方でこのような暗殺や好色な部分も書き残しているのは、そういうのは権力者にとっては当たり前という認識だったのだろう。
史書の常として、「権力者を褒めた部分は大半が嘘」「悪行の記述は事実」と思うのが読書姿勢としては無難だと思う。逆に「敵側の悪行(醜行)の大半は嘘」と考えられる。




仁徳天皇(二十八)雌鳥皇女と隼別皇子の逃避行

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原文

卌年春二月、納雌鳥皇女欲爲妃、以隼別皇子爲媒、時隼別皇子密親娶而久之不復命。於是、天皇不知有夫而親臨雌鳥皇女之殿、時爲皇女織縑女人等歌之曰、
比佐箇多能 阿梅箇儺麼多 謎廼利餓 於瑠箇儺麼多 波揶步佐和氣能 瀰於須譬鵝泥
天皇知隼別皇子密婚而恨之、然重皇后之言、亦敦友于之義而忍之勿罪。俄而、隼別皇子、枕皇女之膝以臥、乃語之曰「孰捷鷦鷯與隼焉。」曰「隼捷也。」乃皇子曰「是我所先也。」天皇聞是言、更亦起恨。時隼別皇子之舍人等歌曰、
破夜步佐波 阿梅珥能朋利 等弭箇慨梨 伊菟岐餓宇倍能 娑弉岐等羅佐泥
天皇聞是歌而勃然大怒之曰「朕以私恨、不欲失親、忍之也。何舋矣私事將及于社稷。」則欲殺隼別皇子。時皇子率雌鳥皇女、欲納伊勢神宮而馳。於是、天皇聞隼別皇子逃走、卽遣吉備品遲部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡曰「追之所逮卽殺。」爰皇后奏言「雌鳥皇女、寔當重罪。然其殺之日、不欲露皇女身。」乃因勅雄鯽等「莫取皇女所齎之足玉手玉。」雄鯽等、追之至菟田、迫於素珥山。時隱草中僅得兔、急走而越山、於是、皇子歌曰、
破始多氐能 佐餓始枳揶摩茂 和藝毛古等 赴駄利古喩例麼 揶須武志呂箇茂
爰雄鯽等知兔、以急追及于伊勢蔣代野而殺之。時雄鯽等、探皇女之玉、自裳中得之、乃以二王屍埋于廬杵河邊而復命。皇后令問雄鯽等曰「若見皇女之玉乎。」對言「不見也。」
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現代語訳

即位40年春2月。
雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)を後宮に入れて妃としようと思って、隼別皇子(ハヤブサワケノミコ)を媒(ナカダチ)としました。その時に隼別皇子は密かに自ら雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)を娶って、報告をしませんでした。それで天皇は雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)に夫が居るのを知らないで、自ら雌鳥皇女の住居へと行きました。その時、皇女のために織物を織っている女人たちが歌を歌っていました。
ひさかたの 天金機(アメノカナバタ) 雌鳥(メトリ)が 織る金機(カナバタ) 隼別(ハヤブサワケ)の 御襲料(ミオスヒガネ)
歌の訳(「ヒサカタ」は天に掛かる枕詞)空に舞う雌鳥の金機(カナバタは金属部分のある機織り機)で、雌鳥が織るよ。金機で織るよ。隼別が着る服を織るよ。

天皇は密かに結婚したことを知り、恨みました。しかし皇后の言葉を重要視して、はばかりました。また友于(コノカミオトト=兄弟間の友情)の義(コトワリ)を篤(アツ)く思っていたので、我慢して罪としませんでした。しばらくして、隼別皇子は皇女の膝枕をして伏せていました。それで語って言いました。
「鷦鷯(サザキ=ミソサザイという鳥の古名=仁徳天皇のこと)と隼(ハヤブサ)ではどちらが速いでしょうか?」
答えて言いました。
「隼が速い」
皇子は言いました。
「これはつまり、私が先んじている所だ(=優れているということ)」
天皇はこの言葉を聞いて、さらに恨みました。そのとき、隼別皇子の舎人たちが歌を歌って言いました。
隼は 天に上り 飛び翔り 齋(イツキ)が上の 鷦鷯(サザキ)取らさね
歌の訳隼は天に昇り、飛び翔り、斎場(祭祀・儀式の場=神社など)の上にいる鷦鷯を取ってしまいなさい(=隼別皇子は仁徳天皇を殺してしまえ)。

天皇はこの歌を聞いて、甚だ大いに怒って言いました。
「朕(ワレ)は私的な恨みをもって親族を失いたくは無いから、我慢してきた。どうして舋(キズ=落ち度)があったら、私事の男女の揉め事が国の一大事になってしまうというのか」
すぐに隼別皇子を殺そうと思いました。そのとき、皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮に逃げようと走っていました。天皇は隼別皇子は逃走したと聞いて、すぐに吉備品遲部雄鯽(キビノホムチベノオフナ)と播磨佐伯直阿俄能胡(ハリマノサエキノアタイアガノコ)を派遣して言いました。
「追いついたところですぐに殺せ」
皇后は言いました。
「雌鳥皇女はまことに重い罪にあたる。しかし、殺すときは皇女の(衣服や装飾を取り去り)肌を露わにしないように」
それで雄鯽(オフナ)たちに勅(ミコトノリ)して言いました。
「皇女の身につけている足玉手玉(アシダマタダマ)を取るなよ」
雄鯽たちは追いかけて菟田(ウダ)に到着し、素珥山(ソニヤマ)に迫りました。そのときに草の中に隠れて、僅かに免れることが出来ました。急いで逃げて山を越えました。それで皇子は歌を歌いました。
梯子(ハシタテ)の 険(サガ)しき山も 我妹子(ワギイモ)と 二人越ゆれば 安蓆(ヤスムシロ)かも
歌の訳梯子を立てたような険しい山であっても、わたしの愛する人と二人で超えるならば、ふかふかの蓆(ムシロ)に座ってるようなものだ。

雄鯽たちは逃げられたと知って、急いで伊勢の蔣代野(コモシロノノ)で追いついて殺しました。そのときに雄鯽たちは皇女の玉を探って、服の中から得ました。すぐに二人の王(隼別皇子と雌鳥皇女)の屍(カバネ=死体)を廬杵河(イホキガワ)のほとりに埋めて、報告しました。皇后は雄鯽に問うて言いました。
「もしかして、皇女の玉を見ましたか?」
答えて言いました。
「見てません」
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解説

古事記
古事記では皇后である石之日売命(磐之媛)の死が描かれていませんから、女鳥王(雌鳥皇女)の「手玉足玉を取るなよ!」と発言したのはあくまで石之日売命(磐之媛)ということになっています。

しかし日本書紀では磐之媛は死に、八田皇女が皇后となっているので、ここで「手玉足玉を取るなよ」と言っているのは八田皇女です。八田皇女と雌鳥皇女は「同母姉妹」です。

ちなみに仁徳天皇から見ると八田皇女と雌鳥皇女は二人ともが「異母妹」にあたります。萌え。

ということは、八田皇女が「手玉足玉を取るなよ」と発言したのは姉としてのせめてもの「情け」ということになります。全然不自然じゃないんです。
伊勢神宮に逃げる理由
神社は当時、犯罪者が逃げ込むところで、逃げ込んだら朝廷も手が出せ無い場所だったようです。だから伊勢を目指したのです。
最初は仁徳天皇(に即位する前の皇子)の弟が皇太子に定められていたが、お互いに皇位を譲り合って、挙げ句の果てに皇太子が自死したので仁徳天皇が皇位を継いだ、という話だが、まあ西洋史的な冷徹なリアリズムの目で見たら子供だましだろう。当然、仁徳天皇が弟を殺して皇位を簒奪したのを糊塗するために儒教的粉飾を施して後で作った説話だと思われる。

(以下引用)



仁徳天皇(六)「我が弟の皇子」からの遺体の復活

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原文

太子曰「我知、不可奪兄王之志。豈久生之、煩天下乎。」乃自死焉。時大鷦鷯尊、聞太子薨以驚之、從難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊、摽擗叨哭、不知所如、乃解髮跨屍、以三乎曰「我弟皇子。」乃應時而活、自起以居。爰大鷦鷯尊、語太子曰「悲兮、惜兮、何所以歟自逝之。若死者有知、先帝何謂我乎。」乃太子啓兄王曰「天命也、誰能留焉。若有向天皇之御所、具奏兄王聖之、且有讓矣。然聖王聞我死、以急馳遠路、豈得無勞乎。」乃進同母妹八田皇女曰「雖不足納采、僅充掖庭之數。」乃且伏棺而薨。於是大鷦鷯尊、素服爲之發哀哭之甚慟。仍葬於菟道山上。
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現代語訳

太子(ヒツギノミコ=菟道稚郎子のこと)は言いました。
「私は兄王(=大鷦鷯尊【のちの仁徳天皇】のこと)の志(ミココロザシ)を奪うべきではないことを知っている。どうして長く生きて天下を煩わせるだろうか!」
そう言ってすぐに自死してしまいました。大鷦鷯尊は太子が死んでしまったと聞いて、驚き、難波から馳せ参じて菟道宮(ウジノミヤ)に到着しました。その時点で太子は亡くなって三日経っていました。そのとき、大鷦鷯尊は胸を打って叫び泣いて、どうしようもないほどでした。そして髪を解いて、屍にまたがって、三回呼んで言いました。
「我が弟の皇子!」
するとたちまち息を吹き返しました。そして自然と起きました。大鷦鷯尊は太子に語って言いました。
「悲しいことだ。惜しいことだ。どうして自ら死んでしまうのか。もしも死んだ人に知(サトリ)があるならば、先帝(=応神天皇のこと)は我々をどう思うのでしょうか?」
太子は兄王(=大鷦鷯尊のこと)に言いました。
「これは天命(イノチノカギリ)なのです。誰が止めることができるだろうか。もし、天皇(=応神天皇のこと)の御所(オオミモト)に参じることがあるならば、詳細に話しましょう。兄王は聖者であり、何度も譲ったのだと申しましょう。聖王(=ここでは大鷦鷯のこと)は私が死んだと聞いて、遠路を急いで馳せて来ました。どうして労(ネギラ)わないでいられましょうか」
そうして、同母妹の八田皇女(ヤタノヒメミコ)を進めました。
「納采(アト=現在で言う所の結納品)には足らないかと思うが、掖庭(ウチツミヤ=後宮のこと)の数に足してくれないか」
そう言うと太子は、また棺(ヒトキ)に伏せって死んでしまいました。大鷦鷯尊は素服(アサノミソ=麻の白い服)を着せて、悲しみ、泣いて時間が過ぎました。そして、太子を菟道(ウジ)の山の上に葬りました。
毎度引用するこの歴史サイトの管理人氏は天皇家の出自を「隼人」だと見ているが、私は「朝鮮人」だと見ている。つまり、「高天原」が朝鮮で、そこから九州に渡来して北部から中部に定住して王国を作ったのが大和朝廷であり皇室だろう。
作家の黒岩重吾は「邪馬台国」が大和朝廷の元だ、と考えているが、ほとんどの人間が日本史を習った最初にそう考えるだろう。つまり、「ヤマタイ」と「ヤマト」の音があまりに似ているからである。そして、大和朝廷の東征とは九州の部族が近畿に移動したことなのだから、それは邪馬台国だと考えても不思議はない。
だが、そこで私が他の論者と意見が異なるのは、多くの論者は邪馬台国政府やその部族を日本土着の「原住民」だと考えていることで、私は大和朝廷とは朝鮮からの渡来人の作った政府だと思っている。(つまり隼人は皇室の祖ではない。)そうでないと、日本書紀の中での朝鮮や朝鮮人の存在の大きさが不自然だからだ。(その一方で、隼人は敵であり、また服属後は下級軍人か兵士でしかない。皇室と祖をおなじくする部族にそんな扱いをするわけがない。)
そう考えると、大和朝廷の「実質的建国者」と言っていい崇神天皇が「四方の異民族」を征服し、その異民族とは「俗(風俗)を異にする」存在であったということの意味が明白になる。
つまり、大和朝廷は朝鮮から渡来して「原日本人」の無数の部族を切り従えて日本を征服した征服王朝なのである。(ただし、大和朝廷を「騎馬民族」とするのは不適切だ、とは前に書いたことだ。)



崇神天皇(十八)異俗が多く帰する(日本書紀)

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原文

十一年夏四月壬子朔己卯、四道將軍、以平戎夷之狀奏焉。是歲、異俗多歸。国內安寧。

現代語訳

崇神天皇11年夏4月28日。四道将軍は戎夷(ヒナ=周辺の異民族の蔑称)を平定した状況を天皇に報告しました。この年、異民族が沢山と従うようになり、国内は安寧でした。

解説

四道将軍を派遣して埴安彦の反逆があったのが、崇神天皇10年でした。

個人的コラム

夷狄(ヒナ・イテキ)という表記は中国の史書の描き方です。中国は「中華思想」で周囲の異民族をバカにしていました。夷狄はそういう蔑称です。

それで日本も習ったのでしょう。
ところで日本の周囲に「異民族」が居たのでしょうか?
分かりません。
居たのかもしれません。
確実に東北に蝦夷がいました。蝦夷はどうも血統でいうと「縄文人」です。では天皇の血統はどうかというと、「隼人」です。ニニギが南九州に降り、その後の神話は明らかに隼人です。また、神武天皇は九州から東征しています。

ヤマトタケルの時代に東北から「佐伯」が伊勢へと連れてこられます。この佐伯は「騒がしい」ので伊勢から、広島などへと移民させられます。この「騒がしい」をどういう意味かと考えた時、私は「悪い意味」ではないんじゃないか?と思うのです。

隼人は大和朝廷に参加した後に大和朝廷の警備の仕事をするようになります。隼人は「犬のように吠えた」とされます。これは「声が魔を祓う」という意味です。

神武天皇が東征して、長髄彦に敗北した後に雄叫びをあげます。敗北という魔を祓ったのです。

日本人は「声」に特別な力があると考えていました。それは佐伯も同じだったのではないか?と思うのです。

だから夷狄といっても、どの程度の文化の質に違いがあったのか?は分かりません。中国人にとっての夷狄とはニュアンスは大分違うんだろうと思うのです。



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