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神功皇后記の中には朝鮮半島各国、特に百済が日本の属国であるという趣旨の記述が多いのだが、このあたりが今でも続く日本人の、特に右翼の朝鮮韓国蔑視の起源だろう。
で、実際に属国だったのか、というのは、朝鮮側の歴史書がほとんど無いらしいので日本書紀くらいしか「証拠」が無い。だから、公文書の作成保存というのは永遠に国家の名誉に関わるのである。




(以下引用)



神功皇后(三十八)七枝刀、七子鏡、および種々の重宝を献上

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原文

五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣国以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴国、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、国基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。

現代語訳

即位52年。秋9月10日。久氐(クテイ)たちは千熊長彦(チクマナガヒコ)に従って、詣でました。それで七枝刀(ナナツサヤノタチ)を一口、七子鏡(ナナツコノカガミ)を一面、および種々の重宝(タカラ)を献上しました。それで言いました。
「臣(ヤッコ=部下=自分のこと)の国の西には水(カワ)があります。源(ウナカミ=水源)は谷那(コクナ=地名だが未詳)の鉄山(カネノムレ)から出ました。その土地は遠くて七日進んでも到着しません。この水を飲み、この山の鉄を取って、永遠に聖朝(ヒジリノミカド)に奉ります」
(百済の王の近肖古王の)孫の枕流王(トムルワウ)に言いました。
「今、わたしが通うところの海の東の貴国(カシコキクニ)は天が開いた土地です。天恩(ウツクシビ)を垂れて、海の西を割いて私に与えてくれた。それで国の基礎は永遠に固い。お前は深く(倭国と)仲良くして土物(クニツモノ=百済の土地のもの)を集めて、献上することを絶えず行い、死んでもなんの恨むことがあるだろうか」
これ以降、毎年、続けて朝貢しました。
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解説

もう仲が良いのはわかった
百済と大和朝廷が相当に仲が良いのはわかりました。白村江の戦いで百済復興を掛けて戦争をするくらいですから、相当なもんですよね。それで日本が傾きかけたんですから。日本が「上」であったとしても、そこまで肩入れして百済を守ろうとしたことは、現在の日本人の性質に近いような。

ちなみに「朝貢」というのは、貢物を出す、というだけではなく、朝貢された側は、その数倍の返礼をするんですね。これはどういうことかというと、朝貢した側である百済は「日本の部下」という証として貢物を献上するんです。それで日本は「百済のその土地での正当性」を認め、「その土地の支配者」として認める。その言わば、支配者としての給料代わりに数倍の物品を与えるというのが普通です。そして「百済が侵略された時は日本が守る」という証なんです。

だから日本は百済を守ろうとした。
メンツもあるってことです。

それと似たような話で、朝鮮半島に豊臣秀吉が侵略したときには、中国の「明」は面倒ながらも朝鮮半島の豊臣軍を戦わなくてはいけなかった。でないと中国のメンツが立たないのです。その豊臣軍との戦いで疲弊した明はその後、滅亡。今でも中国のネットで「朝鮮はいつも中国に迷惑を掛ける」という話題になるとこの話が出るのはそういうことなんです。
七支刀
百済から送られた七支刀は現在、石上神宮にあります。
枕流王
トムルオウと読むこの枕流王は朝鮮の歴史書の三国史記によると百済15代王。そして百済13代王の近肖古王の孫にあたり、「孫枕流王」という記述は一致します。



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神功皇后の征韓話の中で何度か出てくる、「朝鮮(新羅)は財宝に溢れた国だ」という言葉こそが、征韓説話のいい加減さを明白に示しており、昔から今まで、朝鮮半島で金銀宝石が取れたという話は聞いたことがない。せいぜい、鉄鉱石である。書紀の中で朝鮮のことを「ソシシの(背中の肉のような)空国(からっぽの国)」と何度か書いている事実とも矛盾するわけで、サイト管理人氏はその「財宝」を「貿易の利益」のことだ、という説を提出しているが、苦しい弁明と言うべきだろう。そんなに頻繁に日本列島と朝鮮半島の貿易が行われていたら、各地にその形跡や記録や関連説話がもっとたくさんあるはずだ。
以上を要するに、神功皇后の征韓説話は日本書紀最大の、とは言わずとも、もっともあからさまな欺瞞だろう、と私は見ている。なお、私はべつに朝鮮韓国に思い入れはなく、単に「合理的」な解釈を望んでいるだけだ。

(以下引用)



神功皇后(十三)沙麼縣主の祖先の内避高国避高松屋種に神が

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原文

一云、足仲彦天皇、居筑紫橿日宮。是有神、託沙麼縣主祖內避高国避高松屋種、以誨天皇曰「御孫尊也、若欲得国耶、將現授之。」便復曰「琴將來以進于皇后。」則隨神言而皇后撫琴。於是、神託皇后、以誨之曰「今御孫尊所望之国、譬如鹿角、以無實国也。其今御孫尊所御之船及穴戸直踐立所貢之水田、名大田爲幣、能祭我者、則如美女之睩而金銀多之眼炎国、以授御孫尊。」時天皇對神曰「其雖神何謾語耶、何處將有国。且朕所乘船、既奉於神、朕乘曷船。然未知誰神、願欲知其名。」

現代語訳

ある書によると…
足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト仲哀天皇)は筑紫の橿日宮(カシヒノミヤ)に居ました。ここに神が現れて、沙麼縣主(サバノアガタヌシ)の祖先の内避高国避高松屋種(ウチツヒコクニツヒコマツヤタネ)に神がかって、天皇に教えて言いました。
「御孫尊(ミマノミコト=天孫=ここでは仲哀天皇のこと)が、もし宝の国(=朝鮮半島もしくは新羅)を得たいと思うのならば、現実に授けよう」
また(神が)言いました。
「琴を持って来て、皇后に渡せ」
すぐに神の言葉に従って、皇后は琴を弾きました。すると神は皇后に神がかり、教え言いました。
「今、御孫尊の所望した国は例えば鹿の角のようなものだ。無実(ウツケ)の国だ。御孫尊が持つ船、それと穴戸直踐立(アナトノアタイノホムラタチ)が献上した水田(コナタ)…名を大田(オオタ)…を幣(マヒ=供えもの)として、よく私(=神)を祀れば、美女(オトメ)の睩(マヨビキ=眼差しとか目配せとか瞬きとか)のように黄金・銀がたくさんある、眼炎(マカカヤク)国を御孫尊に授けよう」
天皇は神に答えて言いました。
「それ神といっても、どうして欺こうとするのか? どこにそんな国があるというのか? また私が乗る船を神に奉ってしまったら、わたしはどの船に乗ればいいのか? そもそもまだどこの神ということもわからない。願わくはその名を教えて欲しいものです」
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解説

ある書
神代では見られた「一書」がここで登場。ということは神功皇后の政治関与の経緯には異説があるということであり、大和朝廷としても史実ともなんとも言えない部分があるということです。
本伝は「仲哀天皇(十)眼炎の金・銀・彩色が栲衾新羅国」です。
神が降りるのは皇后ではなく松屋種
まず、本伝では皇后にいきなり神がかっていますが、ここでは内避高国避高松屋種(ウチツヒコクニツヒコマツヤタネ)がまず神がかって、そこから神功皇后にバトンタッチという形を取っています。
これは朝鮮半島進出を現在の山口県・福岡県の氏族が望んだということでしょう。沙麼縣主(サバノアガタヌシ)の「サバ」という地名は「仲哀天皇(七)筑紫の岡県主の祖先の熊鰐」に登場します。どうやら関門海峡近辺の氏族で、現在の岡山県(吉備)や大阪、そこから大和を抜けて伊勢から東国という貿易ルートで利益を得ていたのでしょう。ここに朝鮮半島から中国と中国東北の民族との貿易を始めれば更に巨万の富を得られます。これが松屋種に神が降りた「理由」でしょう。
朝鮮半島の評価
朝鮮半島は鉄鉱石の取れる土地です。そこを得ることが大和朝廷が朝鮮半島進出した理由、というのがよくある説です。しかし魏志倭人伝を見ると、半島南部は倭人が住んでおり、鉄鉱石は倭人(日本人)・韓人(朝鮮人)・漢人(中国人)がそれぞれ取っていたと書いてあるように、今更、朝鮮半島を得る理由は薄いのです。

ここで神は朝鮮半島の事を「鹿の角のようなものだ。無実(ウツケ)の国だ。」と評価しています。鹿の角は空洞になっている……つまり実態の無い、中身の無い国と言っているのです。これは「第九段本文―8吾田の長屋の笠狭の岬へ」などで「膂宍(ソシシ)の空国(ムナクニ)」と描かれているのと同じです。ソシシは背中の肉、背中の肉は食べるところが少ないので貧しいという意味で、空は当然「むなしい」という意味です。つまり朝鮮半島は空っぽだと言っています。しかし「鹿の角のようなもの」ということは角は食べられなくても、その先の本体である「鹿」にはたっぷりと食べるところがあるという意味でもあります。つまり、古代の日本にとって朝鮮は、「貧しく何も無い土地だが、中国や中国東北の異民族との貿易をするために必要だ」という認識だった、ということかもしれません。そういう意味で「朝鮮半島は金銀の宝の国」と評価されていたのかも。

しかし、朝鮮半島に進出することで得るものがあるとしても、それはこの時点では不確定なことです。仲哀天皇は当時文化の流入口だった九州南部の攻略を求めた。それに対して九州北部や山口県の関門海峡の氏族は「朝鮮半島進出」を求めた。その結果が、神功皇后の擁立だったのでしょう。
例のサイトで一番問題がある箇所だと思うが、大和朝廷(神功皇后)が朝鮮を征服し、新羅百済高麗を服属させた、ということをサイト管理人は、事実である、と見ているわけだ。そして、朝鮮側のそれに反する史書を創作だと見ている。まあ、お互いのナショナリズムの激突だろう。
解釈や相互の真偽の判断はともかく、メモだけしておく。
なお、私は神功皇后の征韓は創作だと思っている。というのは、実際の戦争の記述がまったく無く、天朝の威に恐れて降伏した、となっており、こんなことはありえないだろう。これは書紀が作られる少し前にあった白村江の敗戦の意趣返しに作られた「偽歴史」だと思う。ただし、朝鮮侵略自体はあったかもしれない。だが、そもそも征韓の意図が非常に怪しい。筑紫の土豪の不服従に手を焼いている時に、九州まで行っていながら筑紫を放っておいて征韓出兵することこそが仲哀天皇が反対したように不合理な話であり、征韓の動機の説明(神託があったから云々)も納得できるものではない。確か、少し前に、新羅は神功皇后の父祖の国であるという記述があった気がする。つまり新羅と日本(大和朝廷)が戦う積極的な理由はなく、あったなら単なる侵略戦争である。このあたりの話は、筑紫遠征の途中に仲哀天皇が病死し(あるいは戦死し)、筑紫との戦いが困難になって戦を中止したことを糊塗する意図で作られた話ではないか。



(以下引用)


神功皇后(十二)波沙寐錦は微叱己知波珍干岐を人質に

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原文

新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。是以、新羅王常以八十船之調貢于日本国、其是之緣也。於是、高麗・百濟二国王、聞新羅收圖籍降於日本国、密令伺其軍勢、則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰「從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。」故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。

十二月戊戌朔辛亥、生譽田天皇於筑紫。故時人號其産處曰宇瀰也。

現代語訳

新羅の王の波沙寐錦(ハサムキム=第五代王の婆娑尼師今)は微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ=第十七代王の奈勿尼師今の子の未斯欣のこと)を人質として、金(コガネ)・銀(シロガネ)・彩色(ウルワシキイロ)、及び、綾(アヤキヌ=絹織物)・羅(ウスハタ=織り方の特殊な薄い絹織物)・縑絹(カトリノキヌ=細かく硬く縫った絹織物)をもたらして、八十艘(ヤソカハラ=たくさんの)船に載せて、官軍に従いました。新羅の王は常に八十船(ヤソフネ)の貢物を日本国(ワガミカド)に献上するようになりました。これがその由縁です。

高麗(コマ)・百済(クダラ)のふたつの国の王は、新羅が図籍(シルシヘフミタ=地図と戸籍)を差し出して、日本国に降伏したと聞いて、密かに軍勢(ミイクサノイキオイ)を伺いました。すぐに勝てないとわかり、自ら営(イオリ)の外に来て、頭を地面に叩きつけて言いました。
「今より以後、永遠に西蕃(ニシノトナリ=西の異民族)と称し、朝貢(ミツキタテマツルコト=朝廷に貢物を送ること)を絶えず行います」
それで内官家屯倉(ウチツミヤツケ=天皇の直轄領)を定めました。これがいわゆる三韓(ミツノカラクニ)です。皇后は新羅から帰りました。

12月14日。筑紫で譽田天皇(ホムタノスメラミコト)が生まれました。それでその時代の人はその生まれた場所を宇瀰(ウミ=福岡県糟屋郡宇美町)と名付けました。
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解説

未斯欣が人質として倭国に連れられるのは朝鮮の歴史書の三国史記にも三国遺事にも書かれています。三国史記によると402年としています。
新羅の王について
5代王の婆娑尼師今が17代王の奈勿尼師今の子の未斯欣を日本に人質に送った、というのは一体どういうことかと不審に思う人が多いかと思います。非常に矛盾しています。
まず、この矛盾の可能性としては波沙寐錦(ハサムキム)が第五代王の婆娑尼師今とイコールということがまちがっているかもしれません。しかし、おそらくというか間違いなく三国史記の「6代から16代までの王の記述が創作」だと考えたほうが自然です。
三国史記の歴史観
三国史記は12世紀に成立した本で、そもそも日本書紀(8世紀成立)のかなり後に書かれた本です。三国史記は高麗の時代に書かれ、高麗は新羅から国を譲られたという形になっています。高麗は「新羅という正当な朝鮮半島の支配者から譲られた」と主張する目的で三国史記を編纂しました。よって三国史記には「新羅は歴史がある強い国家だ」と主張する意図があります。

新羅は珍妙な王朝を形成しています。初代の王から4世紀の奈勿尼師今の時代までは「朴」「昔」「金」という三氏が王朝を代わる代わる受け継いでいるのです。こんな妙な話はありません。そして奈勿尼師今からは「金」が続き10世紀までは「金」です。この奈勿尼師今からが実在する新羅王とされ、これ以前は神話とされます(ただし朝鮮の人は史実だと思っている)。
●儒教の国では国王の座は、血筋ではなく譲られるのが良いことという考えがある。三氏が代わる代わる治めたのはそういう考えから作られた「神話」だと思われる。
●ただし建国者として、一代王から数代は実在したのではないか? そのせいで5代王が17代王の子供を人質に…となるのではないか?
●そして子供を人質に取られた奈勿尼師今が王になるということは、奈勿尼師今は日本の傀儡政権だったと考えたほうが自然。

高麗が新羅の歴史を作ろうとしたのに、それを日本書紀が暴いてしまう。なんという皮肉なことでしょう。

ちなみに4代王の昔脱解は倭人であり、その臣下の瓢公も倭人です。また二代目の南解次々雄は「ナカツツノオ」と読めます。住吉三神の一柱と同じ名前です。これらを考慮すると新羅の建国には倭人、というか大和朝廷か九州の豪族が関わったと考えるのが自然です。







仲哀天皇(十二)異伝によると…自ら熊襲を撃ちましたが、賊の矢に当たって崩御しました

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原文

九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云「天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。」於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰「今天下、未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。」則命四大夫、領百寮令守宮中。竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豊浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。
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現代語訳

即位9年春2月5日。天皇はたちまち痛身(ナヤ=病気)むところがあって、翌日には崩御しました。そのとき年齢が52歳。それですぐに分かりました。神の言葉を採用しなかったから、崩御してしまったことを。
ある伝によると…
「天皇は自ら熊襲を撃ちましたが、賊(アタ=敵)の矢に当たって崩御しました」

皇后と大臣の武内宿禰(タケノウチノスクネ)は天皇の死を隠して、天下に知らせませんでした。皇后は大臣(=武内宿禰)と中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大友主君(オオミワノオオトモヌシノキミ)・物部膽咋連(モノノベノイクヒノムラジ)・大伴武以連(オオトモノタケモツノムラジ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「いま、天下(アメノシタ)は未だ天皇が崩御したことを知らない。もし百姓(オオミタカラ)が知れば懈怠(オコタリ=怠けること)が有るだろう」
すぐに四人の大夫(マヘツノキミ=部下=上記の連達のこと)に命じて、百寮(ツカサツカサ)を率いて、宮中(ミヤノウチ=出先の宮の中)を守った。
密かに天皇の遺体を収めて、武内宿禰に授けて、海路から穴門(アナト=長門=現在の山口県)へと移りました。そして豊浦宮(トユラノミヤ)で殯(モガリ)して、无火殯斂(ホナシアガリ=火を焚かない秘密のモガリ)をしました。

21日に大臣の武内宿禰は穴門から帰って皇后に報告しました。

この年、新羅(シラギ)の役(エダチ)のために天皇を葬り祀ることができませんでした。
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解説

仲哀天皇の死
古事記と日本書紀の本伝では「仲哀天皇は(神の祟りにより)病死」ですが、「異伝」では熊襲との戦いの中で死んだ、とあります。仲哀天皇の父のヤマトタケルの死が「神の祟り」だということを考えると、「英雄」の死は「神の祟り」というのが、物語のスタンダードだったか、戦争で無くなるということは天皇にとってミットモナイと考えていたのかもしれません。なにせ天皇はケガレの無い存在でないといけません。戦争という死穢に関わることが天皇にはあってはならないのかもしれません。

つまり、本当は熊襲との戦いで死んで、朝鮮半島へと目的を変えたという経緯が、住吉の神託の物語に変換されたのではないか?と。



例によって例のサイトからの転載だが、なかなか示唆的な内容だ。「審神者(サニワ)」という存在やその字面が興味深い。
また、仲哀天皇が側近か皇后によって暗殺された可能性というのも話としては面白い。西洋や中国では珍しくないが、日本史では「天皇暗殺」というのは明治維新での、明治天皇の前の天皇の不審死くらいしか思い浮かばない。仲哀天皇と皇后は意見の対立があり、かなり勝気な皇后だったと思われるので、主犯が皇后でも不思議ではない。

(以下引用)


解説

仲哀天皇の反抗
ここでは神功皇后ですが、古代では巫女が神を体に神を下ろして、それによって神託を得ます。となると、「ある意味では」巫女の言うことが神の意志ということになります。その代表が邪馬台国の卑弥呼です。でも、巫女がマジにトランス状態になって神掛ることもあります。そういう巫女の方がリアリティがあって巫女に適していると思われたはずです。そうなると、巫女が権力者ということにはなりませんが、完全に神掛ると何を言っているのか分からない精神状態になるものですから、困ります。そこで、神がかった巫女のめちゃくちゃな言葉を「翻訳する」人物が必要になります。それが審神者(サニワ=沙庭)です。この審神者にあたる人物が武内宿禰(タケノウチノスクネ)でした。ちなみに仲哀天皇神功皇后が神を下ろしているときに「琴を弾いていた」と古事記にはあります。

そういうことを考えるとこの時代の権力者は「武内宿禰」だった、のかもしれません。
もう一つの事情
他のページでも散々書きましたが…
ヤマトは貿易立国でした。その貿易を円滑に行うためのツールが米でした。米を「税金」として徴収していたのもありますが、米を貿易をする際の「共通価値」としていたのではないかと思うのです。その稲作を伝播した象徴が「ヤマトタケル仲哀天皇の父)」であり「白鳥」です。ところが九州南部では火山灰のために水はけが良すぎて「米作」ができない。それに鹿児島は沖縄や台湾を通じて中国やインドやもっと遠方とも交易があったのでしょう。だから大和朝廷に参加しなくても問題がなかった。しかし大和朝廷としては、九州南部が欲しい。そこから文化が入ってくるからです。

ひっくり返すと、当時の日本は九州南部が「貿易の重要拠点」であり、朝鮮半島は「無意味」という認識だった。朝鮮半島は土地が痩せていて、作物が実りづらいし、一部を除くと寒くて米作も出来ない。魏志東夷伝を読んでも、朝鮮半島が日本より発展しているとは思えない。だから仲哀天皇はあくまで九州南部を目指そうとした。そこに「朝鮮半島を通り、中国と貿易をするべきだ」と提案したのが「住吉大神」を信奉する「津守氏」と武内宿禰だったのでしょう。
仲哀天皇は暗殺されたか
そういう認識も可能です。なんら物証も無ければ、示唆するものも無いですが、当時の天皇に強い権力があったとは考えづらく、暗殺されたとしても不思議ではないです。ただ、古代のことですから、若くして亡くなったからといって暗殺とは言い切れず、トラブル(戦死か病死)によって「九州南部から朝鮮へ」政策を転換したということも十分あることです。
以下のページでは異伝という形ですが、仲哀天皇が熊襲征伐の途中で死亡したと書かれています。
参考
仲哀天皇(十二)異伝によると…自ら熊襲を撃ちましたが、賊の矢に当たって崩御しました

もう一つ、仲哀天皇はヤマトタケルの子で、ヤマトタケルも東西の交易路を開拓した最後は神の怒りを買って呪い殺されてしまいます。仲哀天皇もほぼ同じ経緯です。この時代には「そういうストーリー」が英雄の定番だったのではないか?とも思うのです。



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