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仁徳記には、百済からの朝貢があったという記述が多い。一方で新羅へも朝貢の要求はするが、新羅がそれに応じることは少なかったようだ。
大和朝廷発展期に朝鮮の各国の政治体制が整っていなかったのは事実だろうが、では百済や新羅は日本の属国だったのだろうか。日本側はそう思っていただろうが、朝鮮側はどう思っていたか。
私は、百済の王族か地方首長が大和朝廷の祖だと考えているが、それは朝鮮半島の国家体制が日本より進んでいたという意味ではない。単に「戦争慣れした民族」だ、というだけの話である。だから日本の支配者になれたわけだ。そして、日本征服の段階において軍事技術の発展もあったのだろう。だから朝鮮半島にちょっかいも出したのだろうが、そのメリットがよく分からない。土地の産物と言っても、コメの収量が多いわけでもなく、名産品があったとも思えないのだが、養蚕技術や機織り染色などは日本より進んでいたのだろう。そのひとつの答えが、「捕虜」にして、その技術や知識を日本でのさまざまな仕事に使う、というものだ。


仁徳天皇(三十三)百衝はいつも軍の右の先鋒に

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原文

五十三年、新羅不朝貢。夏五月、遣上毛野君祖竹葉瀬、令問其闕貢。是道路之間獲白鹿、乃還之獻于天皇。更改日而行、俄且重遣竹葉瀬之弟田道、則詔之日「若新羅距者、舉兵擊之。」仍授精兵。新羅起兵而距之、爰新羅人日々挑戰、田道固塞而不出。時新羅軍卒一人有放于營外、則掠俘之、因問消息、對曰「有强力者、曰百衝、輕捷猛幹。毎爲軍右前鋒、故伺之擊左則敗也。」時新羅空左備右、於是田道、連精騎擊其左。新羅軍潰之、因縱兵乘之殺數百人、卽虜四邑之人民以歸焉。

現代語訳

即位53年。新羅が朝貢しませんでした。

夏5月。上毛野君(カミツケノキミ)の祖先の竹葉瀬(タカハセ)を派遣して、その朝貢しなかったことを問わせました。この道路(ミチ)の間に白鹿(シロキカ)を獲りました。すぐに帰って天皇に献上しました。それで日を改めて行きました。しばらくしてまた重ねて竹葉瀬(タカハセ)の弟の田道(タジ)を派遣しました。天皇が詔(ミコトノリ)して言いました。
「もし新羅が拒絶したら、兵を挙げて撃て」
精鋭の兵を授けました。新羅は兵を起こして拒絶してきました。新羅人は日々、戦いを挑んできました。田道(タジ)は塞(ソコ=砦のこと)を固めて出ませんでした。その時、新羅の軍の兵卒の一人が営(イオリ=陣営)の外に出ました。それを捕らえました。消息(アルカタチ=内情)を問いました。答えて言いました。
「強力(チカラ)のある人がいます。百衝(モモツキ)といいます。軽く、早く、勇猛で、強い。いつも軍の右の先鋒です。左から撃てば敗れるでしょう」
そこで新羅は左を空けて、右に準備していました。そこで田道は精鋭の騎兵を連ねて、その左を撃ちました。新羅の軍は逃げて潰れました。兵を放って追い、数百人を殺しました。四つの邑の人民を捕らえて帰りました。
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解説

古事記にはない話
新羅は何回盾突くのやら。その度に、日本は使者を派遣したり、兵を派遣して、鎮圧します。新羅はかなり反抗的だったと。それに対してどうして百済は反抗しなかったのか? むしろ融和したのはなぜか?
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