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崇神記の最後に任那が出てくるのでメモしておく。
このサイトの筆者は「任那は倭人の国だった」と考えているが、私は単なる「大和朝廷にゆかりの地だった」と考えている。まあ、構想中の小説の中では任那と言うより「百済」が皇室の祖国だとして構想している。そうでないと、白村江の戦いでの百済への日本のあの異常な肩入れの理由が分からない。

(以下引用)


崇神天皇(二十四)依網池・苅坂池・反折池を造る(日本書紀)

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原文

六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔曰「農、天下之大本也、民所恃以生也。今河內狹山埴田水少、是以、其国百姓怠於農於農事。其多開池溝、以寛民業。」冬十月、造依網池。十一月、作苅坂池・反折池。(一云、天皇居桑間宮、造是三池也。)

六十五年秋七月、任那国、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫国二千餘里、北阻海以在鶏林之西南。

天皇、踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩、時年百廿歲。明年秋八月甲辰朔甲寅、葬于山邊道上陵。

現代語訳

崇神天皇即位62年秋7月2日に詔を発しました。
「農業は天下の大きな本(モト)です。民の力を頼りにしているものだ。今の河内の狭山(サヤマ=大阪府南河内郡狭山町)の埴田(ハニタ=粘土質の田)には水が少ない。その国の百姓は農業が出来ない。そこで沢山の池溝(ウナネ=ウナデ=農業用水路)を掘って、民の業(ナリワイ)を広めよう」

冬10月に依網池(ヨサミノイケ=大阪市東住吉区の地域?)を造りました。

11月には苅坂池(カリサカノイケ)・反折池(サカオリノイケ)を造りました。
ある書によると、天皇は桑間宮(クワマノミヤ=不明)にこの三つの池を造ったとも。


即位65年秋7月。任那国(ミマナノクニ)が蘇那曷叱知(ソナカシチ)を派遣して朝貢してきました。任那は筑紫から二千里あまり。北へ海を隔てて、鶏林(シラキ)の西南にあります。

崇神天皇は皇位を継いで68年の冬12月5日に崩御しました。年は120歳。翌年秋8月11日に山邊道上陵(ヤマノヘノミチノヘノミササギ)に葬りました。
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解説

任那
崇神天皇に限らず、「○○天皇」という表記は死後につけられた名前で、生きているときは「個人名」で呼ばれていました。崇神天皇の場合は「御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト)」です。長い名前なので、他の部分では「ミマキイリヒコ」と略されています。この「ミマキイリヒコ」と「ミマナ」は関連があるのか?というのが、よくある議論です。

大和朝廷が飛躍的に発展したのが崇神天皇の時期です。神武天皇が建国の父なら、崇神天皇は「国」という形を作った天皇です。分かりやすく例えると、神武天皇が中小企業を起業した田舎の社長で、崇神天皇は世界企業に押し上げた敏腕社長です。

その崇神天皇だから任那(ミマナ)から朝貢が来ました。
これがどういう意味を持っているのか?はまだハッキリとはしていません。よくある説は、記紀が成立した8世紀には日本が朝鮮半島の影響力を失っているので、その反発というもの。ようは「恨み」ですね。しかし記紀を読むと、決して天皇を持ち上げるばかりでは無いですし、天皇のかっこわるいところもしっかりと書いてあります。だいたい、「一書によると…」なんて書き方は「ねつ造する」という観点から言うと不利ですし、記紀には客観的に正確に書こうという意図が見えます。むしろどうしてこれほど正確に書こうとしたのかと思うほどです。
任那の誤解
この記事を読むと、朝鮮人が日本人に朝貢した…つまりへりくだったという印象を受けるかもしれません。でもそれは違うのです。魏志倭人伝によると「倭人」は朝鮮半島の南部に住んでいたとあります。つまり任那の地域は「倭人」の地域だったんです。任那=倭人とは限りませんが、魏志倭人伝を読むと、倭国と韓人の国では人口も国力も雲泥の差がありました。当然「倭国が上」です。倭を駆逐して韓人が朝鮮半島を完全に占拠するのは白村江の戦いまで無いと考えていいでしょう。つまり任那は倭人の国だった。史書を読む限りそう考えるのが妥当です。「倭」と「大和朝廷」はイコールではありませんが、文化として「倭」と「大和」はかなり近かったのでしょう。大和朝廷から見れば「任那」は同じ文化の異国だったのです。そこから朝貢があった。そういう史実でしょう。

ミマキイリヒコとミマナは、そういう「同じ文化を持つ」という残り香のようなものではないでしょうか? ミマキイリヒコがミマナを造ったり、ミマナから来たからミマキイリヒコということではないのでしょう。

例えば藤原氏の子孫は「藤」という名前がついています。藤田も藤岡もです。でも全国の藤田さんと藤岡さんはほぼ無関係です。そりゃ多少は親戚筋も居るでしょうが、藤田さんと藤岡さんは同じ「藤」がついているから、「藤田さんと藤岡さんは親戚に間違いない」と私が言ったら、「アホ」と言われます。でも、「藤田さんと藤岡さん」は同じ日本語…つまり同じ言語圏の名前なのは間違いないでしょう。「ミマキイリヒコ」と「ミマナ」の関係はそういうことだろうと思っています。










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神武天皇は伝説の存在であって、実在しなかったという説もあるが、渡来系の古代の実在人物で、大和朝廷を北九州から奈良大和に移した大王だろう。ただ、日本書紀が作られた時には、その後継者たちの事績が不明だったために神武以降の八代の天皇は存在しなかったと学界では思われたのではないか。しかし、先代が実在したからこそ「実質的初代天皇」とされる崇神がその血筋によって皇位に就けたわけで、記録が無いから実在しない、というのは短絡的すぎるだろう。要するに、書くほどの資料の無い天皇の事績は書かなかっただけだと思う。ただし、「天皇」という呼称は実際には天智天皇か天武天皇の時代に作られたと思われる。

崇神記は異常に詳しいが、その最初に興味深い記述がある。
それは、宮中に「天照大神」と「倭大国魂」を二大神として祭っていたことで、その事が国に疫病という災厄をもたらしたと思われたことである。これは、天照大神が皇室の祖、つまり朝鮮から渡来した民族の祖神で、「倭大国魂」はその彼らが駆逐し支配した原日本人の神だったということだろう。しかも、この二神が同居できないとなった時、出て行かされたのは天照大神の方なのである。これは、「祟り神」としては、自分たちが滅ぼした相手の神のほうが怖い、ということではないか。逆に言えば、天照大神は「身内」なんだから多少失礼があっても許すだろう、ということだ。

(以下引用)



崇神天皇(四)疫病で国民の半数が死亡(日本書紀)

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原文

五年、国內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大国魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大国魂神、託渟名城入姫命令祭、然渟名城入姫、髮落體痩而不能祭。

現代語訳

崇神天皇即位5年。国内に疫病が多く発生して、民(オオミタカラ)の大半(ナカバスギ=半分以上)が死亡しました。

即位6年。百姓は流浪し、なかには背くものもありました。(国が荒れる)勢いはすさまじく、徳(ウツクシビ)を持って治めることは難しいほどでした。

そこで眠らず朝まで神祇(アマツカミクニツカミ=天津神国津神)に(疫病がやむように)お願いをしたのです。

これより先に、天照大神(アマテラスオオミカミ)・倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二柱の神を天皇が住む宮殿の中に並べて祀っていました。するとこの二柱の神の勢いが強くて畏れおおくて、共に住むのは落ち着かなくなりました。

そこで天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト崇神天皇の娘)を付けて、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀りました。そして磯堅城(シカタキ=地名か施設名かは不明)に神籬(ヒモロキ=神が降りる場所。後には神社を表す)を立てました。
神籬は比莽呂岐(ヒモロキ)といいます。

日本大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ=崇神天皇の娘)を付けて祀りました。しかし渟名城入姫は髪が抜け落ちて祀ることが出来ませんでした。
日本書紀の神武東征記を読んでいて不思議に思うのは、近畿に着くまで、戦闘らしい戦闘がほとんど無かったことだ。その理由として考えられるのは

(1)神武軍の「威に恐れて」相手が戦わずして降伏した。
(2)交渉によって平和裏に友好関係が作られた。
(3)何かの代償(おそらく文化的贈答品や技術伝承)によって友好関係を作った。
(4)相手側が最初から神武軍を敵と見なさなかった。あるいは上位存在と見た。

などが考えられ、(4)はたとえば第二次大戦後の米軍兵士たちを日本人が敵と見なかったことに似ているのではないか。つまり、支配者が何者かを敵と認定し、敵対心を鼓舞しなければ、日本人はその何者かを敵と考える性質は無かった、ということだと思う。その温和さ、平和を好む性質は現在でも同じだろう。闘争性が日本人に生まれるのは「財産の蓄積」が生じて後のことであり、奪われる「財産」など無い狩猟漁労生活では、他の部族を敵と認定する必要は無いからだ。(財産蓄積が可能な)稲作文化が始まっても、闘争などする意義はほとんどなかっただろう。「敵」を皆殺しにして稲を奪っても、単に短期間の利益でしかなく、長期的には労働者がいなくなり、自分たちが困窮するだけである。稲は労働者とセットでの財産なのだ。別の言い方をすれば、労働者こそが真に貴重な財産なのだ。
そして、近畿に至って激しい戦争が発生するのは、そこに既に「王国」が存在し、その支配者はおそらく国と国が争う経験を重ねてきた朝鮮半島の出自だっただろうと推測する。たぶん、北九州経由の大陸朝鮮系部族の大和朝廷とは別に、日本海から北陸経由で近畿に入った大陸朝鮮系部族だろう。だから、神武伝の中でその首長は「自分たちも天孫である」と言っていて、神武もそれを認める発言をしている。
一応、現段階での構想を書いておく。
全体は五部構成で、

1)「神武東征記(神武戦記)」~伯済国滅亡(ゼロの章、あるいはプロローグ)から神武東征まで。
*正義や道徳は問わず、古代史を冷徹に描く。これは以下の章(部)も同様。

2)「ヤマトタケル戦記」~ヤマトタケルの物語を中心に、大和朝廷の覇権拡大を描く。

3)「神仏の戦い」~仏教伝来の闘争を描く。

*支配手段としての仏教を描く。神仏不在の「神」と「佛」の戦い。  

4)「望郷戦記」~大化の改新と白村江の戦い

5)「継ぐのは誰か」~壬申の乱から継体天皇まで(記紀の誕生含む)

古代を描く「時代小説」のネックである、「人名」と「言葉遣い」の「常識」を完全に無視して、人名は簡略化、あるいは記号(符号)化し、話し方は現代人とまったく同一、つまりカタカナ語や外来語や現代の数字や単位を用いる。それによって、「大事なのは語られた表面ではなく、中味である」ことを強調する。つまり、日本史は原日本人が侵略者に敗北を重ねた歴史である、という事実を明確にする。そして、正義などどちらにもない、という視点を示す。道徳(儒教)も宗教(仏教)も政治の手段である、ということを示す。ただし、それらは道徳や宗教が無意義だということではなく、善悪どちらにも使える恐ろしい道具だ、ということである。これは世界史にも拡張できるし、現代社会もまた同じである。

全体の名称は未定だが、グローバル(まあ、アジア東部だけだが)な視点から見た古代史である、というのを感じさせたい。あるいは、「大和朝廷秘史」的な印象でもいいが、「トンデモ歴史小説」の印象は避けたい。「仁義なき古代史」というのを、今思い付いた。ふざけた名前だが、内容には合っている。古代史はヤクザ戦争と同じだ、ということだ。つまり、すべて利を争っての戦いにすぎない。

情景描写も基本的には不要だし、書く能力も無いので、小説ではなく脚本形式にするのがいいかもしれない。



馬韓は地理的にも、国が滅亡(国自体は四世紀まで存続したようだが、主権者が交代)した時に敗北王族が日本へ逃亡するのが自然であり、また馬韓人が大和朝廷の祖であることで、後に大和朝廷が任那日本府を作ったことや、後の百済と大和朝廷との友好関係も理解できる。おそらく、馬韓南方の、後の百済と重なる地方(伯済国)の首長が日本の皇室の祖だろう。「伯済」が「ハクサイ」という音から「百済」となったわけだ。
集落に城郭を作らないという都市形態も日本文化に引き継がれている。馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたというのも興味深い。辰韓人と馬韓人は別民族(おそらく辰韓人は北方遊牧民族の子孫で馬韓人は海洋民族の子孫)だったのではないか。ただ、海洋民族とは言っても、馬韓定住後は農業が重要産業だったわけだ。古事記の中には海洋民族的寓話が多く、たとえば「海幸彦山幸彦」の兄弟げんかは、辰韓と馬韓の仲の悪さの寓話かもしれない。


馬韓(ばかん)は、紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方はに接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。

馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの馬韓諸国には首長がおり、大きな首長を臣智(しんち)[2]と言い、それに次ぐものを邑借(ゆうしゃく)と呼んだ。。

集落に城郭は無く、五十余国が存在した。通説では、その内の伯済国がのちに百済になったと考えられている。

後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせたという。また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。





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