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中国人がなぜ現代日本のカウンターカルチャー(死語か? ポップカルチャーと言うべきか。)が好きになるのかと言うと、ほぼ同じ文化的ルーツを持ちながら、中国は革命によって過去の文化と断絶したためだろう。中国の文化の最良の部分が日本に伝わり、それがアレンジされて大衆化したのが日本のポップカルチャーである。
つまり、現代の日本というのは「かくあり得た別の世界線の中国」であり、中国人には一種の郷愁を伴っているのではないか。たとえば、現実の日本の学校など、日本人にとっては空気の支配する束縛された場所だが、アニメや漫画では、現実の肉体の醜さや体臭の無い萌え絵が象徴するように現実の苦痛が消された理想世界であり、面白い男女が恋愛をしたり遊んだりする世界だ。
まあ、コリン・ウィルソンが言う、「遠くにある美しい砂漠と、今そこにある、靴の中に絶えず砂が入り込む砂漠」の違いである。




中国に来て4ヶ月目の感想、中国人のインテリ層は本当に日本が大好き。日本に詳しいし知識も豊富。
みんなこぞって日本旅行するし、日本文化のアニメやゲームにも造詣が深い。
日本の知中派よりも中国の知日派の方がずっと多い。日本人は自分たちの中国への理解のなさを危惧した方が良いくらい。







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映画というのはもともと絵空事を「本物風に味付けして」見せるものであり、それを「こんなの絵空事じゃん」と思いながら見たら即座に崩壊する世界である。
逆に「絵空事は絵空事として面白ければいいじゃん」というのがアニメである。実写では不可能な描写や実写だと汚らしくなる対象が抵抗感無く見られるようになる。「NEW GAME!」など、現実には汚らしい親父たちがブラック企業でこき使われる話で、それを実写でやったら悲惨で醜いだけだろう。最近の萌え絵アニメのほとんどは、女の子たちを不細工にしたり男の話にしたら成立しない話ばかりである。
フィクションの中でリアリズムが大事なのは、「そこをリアリズムで描かないと子供でもアホ臭く思うだろう」という部分だけだ。
たとえば、私が子供のころに見た日活映画だと、喧嘩の場面で、拳が当たってもいないのに相手が吹っ飛ぶとか、東映時代劇で、まるで踊りでしかないチャンバラ場面などは、子供心に白けたものである。もっと大きなホラだと、たとえば東映SF映画などで地球に彗星がぶつかるから地球に噴射機をつけて軌道から動かす、という大法螺など、まったく抵抗感なく見られたのだ。
つまり、設定自体が空想的なフィクションだという前提ならどんなに非現実的でもいいが、日常的な部分のデティールこそリアリズムが大事だ、ということである。

ただし、日常性のリアリズムと言っても、下のツィートにある「パンツの中に手を入れてボリボリ掻いて『あ~インキン痒か~』」を実写でリアルに描いてそれを面白いと思う観客がDQN以外にいるか、という話だ。要するに、作り手自身がDQNだから実写と漫画の違いを理解していないのである。
実写化で成功した漫画は、非常に少ないのだ。




  1. 映画の出来はともかく役者さんが路上でパンツの中に手を入れてボリボリ掻いて「あ〜インキン痒か〜」でもう正視できなかった。

  2. アシさんが某漫画のドラマ化に関して漫画なら可愛い絵柄もあってファンタジーとして見れてた過剰な出来事が生身の俳優が演じると汚らしく見えるというあるある意見。俺は松本零士原作、曽根中生監督の『元祖大四畳半大物語』(80)思い出す。

私は栗本薫のファンではないが、「グイン・サーガ」は日本大衆小説史に残る優れた作品だと思っており、それが未完に終わったのはその欠点でも何でもないと思っている。それは「大菩薩峠」が未完に終わったのと同じことである。逆に、その方が読者の想像力に訴えて魅力を増すとすら言えるだろう。
「グイン・サーガ」の場合は、どう終わるかより、途中途中のエピソードや描写のほうが主な魅力なのである。冗長さを言うならば、むしろ序盤のほうに冗長な描写は多い。これは作者が推敲というものを(頭脳内での推敲ではなく、書いたものの推敲を)まったくせず、特に、冗長な部分の削除という作業をまったくしなかったからだろう。と言うのは、作者は一番最初に「世界で一番長い小説を書く」と言明していたからである。
ところが、そういう「雑な」書き方にもかかわらず、書かれた人物が生きて躍動している、というのがこの小説の素晴らしいところである。まあ、当人が言っているように、創作の神が降りてきて、彼女は自動書記状態で書いていたと思う。
私がこの一文を書いたのは、下のツィートなどを読んで、「グイン・サーガ」は出来の悪い小説だと誤解する人がかなり出てくるだろうと思うからである。物語を完結させることに過大な意味を求めるべきではない。物語の元である現実人生には死以外には「完結」など無いではないか。物語の「完結」のほうがむしろご都合主義だとすら言えるのである。
  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 7時間7時間前
  1. やはり「一人ペリー・ロ●ダン」の荒行は無理があったか;>RT
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    1. さんがリツイート
    1. 7時間前
    1. そう思います。 100巻に至る随分手前で、100巻での完結を投げた、と感じました。 作者の気持ちはどうであれ、読み手としては物語に冗長さを感じて離れてしまいましたね。
    2. 3件の返信 22件のリツイート 27 いいね


まあ、その地獄状態である「プロ」創作家の存在によって我々創作愛好者は無数の傑作や名作に出逢えて幸福を得られるわけで、これはある意味では「他人の不幸が自分の幸福になる」悪魔のサイクルである。そして、カネが得られるということによって彼らは膨大な傑作や名作を生み出す。私は「搾取のサイクル」である資本主義を否定する人間だが、創作活動ということに関しては資本主義は物凄いエネルギーを生み出すものだとは思う。
  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 59分59分前
  1. 編集の意見を聞くこともなく、描きたい時に描き、描きたくないときに描かず、すべて好きに出来る同人誌には、けしてプロでは味わえない幸せがあります。
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  1. ちなみにプロで漫画を描いていくのは、生まれ変わっても(そんな気はないが)二度とやりたくないくらいしんどい。一生漫画を描いていたいほど漫画が好きな自分でもそんなにしんどいことを、うかつに人にすすめられない。
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  1. 自分は一生漫画を描いて死にたいくらい漫画が好きだが、ほんの1時間でも机に向かうのは拷問という人がいるのも知っている。あなたも描くと幸せになるかもしれませんよ、とか、興味の無い人に間違ってもすすめない。
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前回書いた田口俊樹訳の「泥棒は図書室で推理する」(原題は「図書室の泥棒」というあっさりとしたものだが、このタイトルの訳はいいのか悪いのか判断が難しい。)の中に、ケネス・グレアムの童話というか、子供向けの小説である「たのしい川辺」に「ウィンド・イン・ザ・ウィロウ」と振り仮名がつけてあり、この種の振り仮名がこの作品(翻訳)には多くて非常に助かるのだが、「ウィンド・イン・ザ・ウィロウ」には頭をひねった。直訳すると「柳の中の風」である。「風の中の柳」なら意味も分かるが、動物の気管じゃあるまいし、柳の中に風があるのは妙である。そこで、(私はこの有名な児童文学を読んでいないので)あれこれ考えたのだが、たとえば、登場人物(擬人化された動物)のひとりが、言葉の言い間違いをする癖があって、それが特徴になっている、という考えなど。一番簡単なのは原題が「wind in the willows」つまり、「柳の林の間を吹き抜ける風」なのではないか、というものだが、まさか英文翻訳家である人間が、英語では重視される単数と複数の違いを無視するという、そんな初歩的な間違いをすることはあるまい、ということで最初に却下した。
そこで、ネットで調べられる限界の確認の意味もこめて、調べてみると、あっさりと「(The)wind in the willows」というのが出てきた。つまり、これが正確な原題だったわけだ。


たのしい川べ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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たのしい川べ』(たのしいかわべ、The Wind in the Willows)は、イギリスの作家・ケネス・グレアム1908年に発表した児童文学作品。

原題の "The Wind in the Willows" は日本語に直訳すると「ヤナギ林に吹く風」の意味であるが、日本では英文学者中野好夫1940年に抄訳した際の『たのしい川べ』という題名が定着しており[1]、他に『ひきがえるの冒険』『川べにそよ風』『川べのゆかいな仲間たち』などの題名でも出版されている。

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