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私は栗本薫のファンではないが、「グイン・サーガ」は日本大衆小説史に残る優れた作品だと思っており、それが未完に終わったのはその欠点でも何でもないと思っている。それは「大菩薩峠」が未完に終わったのと同じことである。逆に、その方が読者の想像力に訴えて魅力を増すとすら言えるだろう。
「グイン・サーガ」の場合は、どう終わるかより、途中途中のエピソードや描写のほうが主な魅力なのである。冗長さを言うならば、むしろ序盤のほうに冗長な描写は多い。これは作者が推敲というものを(頭脳内での推敲ではなく、書いたものの推敲を)まったくせず、特に、冗長な部分の削除という作業をまったくしなかったからだろう。と言うのは、作者は一番最初に「世界で一番長い小説を書く」と言明していたからである。
ところが、そういう「雑な」書き方にもかかわらず、書かれた人物が生きて躍動している、というのがこの小説の素晴らしいところである。まあ、当人が言っているように、創作の神が降りてきて、彼女は自動書記状態で書いていたと思う。
私がこの一文を書いたのは、下のツィートなどを読んで、「グイン・サーガ」は出来の悪い小説だと誤解する人がかなり出てくるだろうと思うからである。物語を完結させることに過大な意味を求めるべきではない。物語の元である現実人生には死以外には「完結」など無いではないか。物語の「完結」のほうがむしろご都合主義だとすら言えるのである。
  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 7時間7時間前
  1. やはり「一人ペリー・ロ●ダン」の荒行は無理があったか;>RT
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    1. さんがリツイート
    1. 7時間前
    1. そう思います。 100巻に至る随分手前で、100巻での完結を投げた、と感じました。 作者の気持ちはどうであれ、読み手としては物語に冗長さを感じて離れてしまいましたね。
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まあ、その地獄状態である「プロ」創作家の存在によって我々創作愛好者は無数の傑作や名作に出逢えて幸福を得られるわけで、これはある意味では「他人の不幸が自分の幸福になる」悪魔のサイクルである。そして、カネが得られるということによって彼らは膨大な傑作や名作を生み出す。私は「搾取のサイクル」である資本主義を否定する人間だが、創作活動ということに関しては資本主義は物凄いエネルギーを生み出すものだとは思う。
  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 59分59分前
  1. 編集の意見を聞くこともなく、描きたい時に描き、描きたくないときに描かず、すべて好きに出来る同人誌には、けしてプロでは味わえない幸せがあります。
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  1. ちなみにプロで漫画を描いていくのは、生まれ変わっても(そんな気はないが)二度とやりたくないくらいしんどい。一生漫画を描いていたいほど漫画が好きな自分でもそんなにしんどいことを、うかつに人にすすめられない。
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  1. 自分は一生漫画を描いて死にたいくらい漫画が好きだが、ほんの1時間でも机に向かうのは拷問という人がいるのも知っている。あなたも描くと幸せになるかもしれませんよ、とか、興味の無い人に間違ってもすすめない。
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前回書いた田口俊樹訳の「泥棒は図書室で推理する」(原題は「図書室の泥棒」というあっさりとしたものだが、このタイトルの訳はいいのか悪いのか判断が難しい。)の中に、ケネス・グレアムの童話というか、子供向けの小説である「たのしい川辺」に「ウィンド・イン・ザ・ウィロウ」と振り仮名がつけてあり、この種の振り仮名がこの作品(翻訳)には多くて非常に助かるのだが、「ウィンド・イン・ザ・ウィロウ」には頭をひねった。直訳すると「柳の中の風」である。「風の中の柳」なら意味も分かるが、動物の気管じゃあるまいし、柳の中に風があるのは妙である。そこで、(私はこの有名な児童文学を読んでいないので)あれこれ考えたのだが、たとえば、登場人物(擬人化された動物)のひとりが、言葉の言い間違いをする癖があって、それが特徴になっている、という考えなど。一番簡単なのは原題が「wind in the willows」つまり、「柳の林の間を吹き抜ける風」なのではないか、というものだが、まさか英文翻訳家である人間が、英語では重視される単数と複数の違いを無視するという、そんな初歩的な間違いをすることはあるまい、ということで最初に却下した。
そこで、ネットで調べられる限界の確認の意味もこめて、調べてみると、あっさりと「(The)wind in the willows」というのが出てきた。つまり、これが正確な原題だったわけだ。


たのしい川べ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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たのしい川べ』(たのしいかわべ、The Wind in the Willows)は、イギリスの作家・ケネス・グレアム1908年に発表した児童文学作品。

原題の "The Wind in the Willows" は日本語に直訳すると「ヤナギ林に吹く風」の意味であるが、日本では英文学者中野好夫1940年に抄訳した際の『たのしい川べ』という題名が定着しており[1]、他に『ひきがえるの冒険』『川べにそよ風』『川べのゆかいな仲間たち』などの題名でも出版されている。

小谷野敦の「このミステリーがひどい!」は、痛快な本だが、勢いで書き飛ばしたような部分も結構あり、自分の「面白い、面白くない」という主観を、対象作品の価値(ひどい作品、馬鹿ミスである)としているのを割り引いて読まないと俎上に上げられた作品群に対して不公平だろう。そもそも、ミステリーのファンタジー性(非現実性)というのはミステリーファンが最初から承知の上で読んでいるのであり、それはプロレスが本気の殺し合いではないのを承知で喜んで見ているのと同じことだ。土台(事件の骨子)そのものが非現実的であっても、デティールを現実的にすることで、その乖離の「浮遊感覚」を楽しむのがミステリーだと言ってもいい。それはまた、文学的価値が無い、という評価にもならない。文学的価値は多様なのである。(ちなみに、私は小谷野氏同様、ミステリーはあまり好んではいない。読むのが面倒くさすぎる。騙されるために読むというのも、正直言って馬鹿馬鹿しい。)
その「このミステリーがひどい!」の中で、古典的文学をミステリー作品と見立てて批評している部分があるが、そこでもやはり作品価値を「ミステリーとしてはひどい」「馬鹿ミスである」とするのはおかしな話だろう。それらの古典は人間の心の深い部分を揺り動かすものがあるから偉大な古典となったのである。御伽噺に鬼が出てくるからといって、「鬼など存在しない。したがって、そういうありえない話を書いている御伽噺は無価値だ」と言うのと同じことだ。
たとえば、馬鹿ミスの例として、「オセロウ」について、

「オセロウは愚かだと言われるが、イアゴーを信じたところが愚かというより、いちおうデズデモウナに確かめなかったところが愚かなのである」

と書いてあるが、これは「比較文学者」、つまり、一応は文学研究者である小谷野氏の発言としては、氏の文学鑑賞眼を疑わせる「浅すぎる」言葉ではないだろうか。
オセロウがデズデモウナをあまりに愛しすぎていたために、彼女が自分を本当に愛しているかどうか自信が持てずにいることは明白に描かれている。ならば、不貞の事実を彼女に確かめることは、彼にとって死ぬよりつらいことのはずである。むしろ、「彼女が自分(のような黒人)を愛しているはずがない」という確信のほうが彼の心の中では大きかっただろう。その彼女に「事実を確かめる」ことができるはずがあるだろうか。それよりは、「不貞が事実かどうか不明のままで」彼女を殺したほうが、「不貞ではなかった」という「美しい可能性」が残るから、そのほうを選ぶ、というのは愚かではあるだろうが、人間心理として大いにありうることだと思う。そういう、かつて誰も描かなかったが「真実」でもある、奇怪な人間心理を描いていることを観客たちは心の底で感じたからこそ、「オセロウ」はシェークスピアの傑作のひとつと評価されたのだと私は思う。

昔、「愛するって怖い」という歌謡曲がヒットしたが、その俗っぽい題名が嫌いで私はロクに聞いたこともない。だが、「オセロウ」と重ね合わせると、まさに「愛するって怖い」は真実なのである。




「紙屋研究所」から記事の一部を転載。文中の「本書」とは、独ソ戦に関する大木毅の岩波新書である。
現在のロシア人(ロシア連邦全体か)の多くがスターリンを歴史的偉人のナンバーワンとしているらしいということは前にも書いた気がするが、スターリンに関する西側諸国の人々の意識は西側マスコミと西側御用学者らによって作られたもので、おそらくかなり偏向している可能性が高いと思う。もちろん、彼が残酷な国内統治をした事実もあるだろうが、それは「ソ連邦を維持する」目的のために、治安維持に不適切な行動を取った人々を処置したという、或る意味では「為政者として当然の行為」だとも言える。現在の「反プーチン」運動者の逮捕なども、そう見れば当然だとなる。簡単な話、自分の所属する会社の前で会社の悪行を大声で叫び、会社社長の醜聞を暴露する社員がガードマンに排除されるのと同じである。もちろん、そうした悪事の存在が事実なら、それを排除すべきではない、とリベラリスト風の偽善的御託を言うことはできるが、世の中、性善説で動いているわけではない。

(以下引用)


 次に「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題。

 これは第3章第四節からの記述が対応している。

 本書にも書かれているが、ヒトラーが「ソ連軍など鎧袖一触で撃滅できる」(本書p.32)と考えており、「純軍事的に考えても、ずさんきわまりない計画」(同前)を立ててしまったように、スターリン支配のもとで国はボロボロだろうと思われていたわけである。

 ところが、頑強に抵抗し、ついにはドイツを倒してしまった。

 この点では、本書は、「おおかたの西側研究者が同意するところ」(p.114)としてスターリニズムへの拒否意識があったがゆえに緒戦では数百万の捕虜を出したが、ドイツ側の残虐が明らかになるにつれ民衆も反ドイツになっていたという紹介をまずしている。しかし、これは大木がツッコミを入れているように、多くの人がドイツとの戦争に志願している実態と合わない。

 ぼくも、本書「文献解題」で「一読の価値がある」として紹介されているスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を読んだ時、ソ連の女性兵士たちがどのような経過で志願していくのかを注意深く読んだ。彼女たちはドイツ軍の蛮行を目の当たりにするよりも前に、開戦と同時に志願している場合が多い。共産主義的な動機もあれば、祖国防衛というナショナリズムの感情もあるし、家族を守りたいという素朴な感情もある。しかし、総じて、今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっているように読めた。

 

 

 本書(大木本)では、アメリカのソ連研究者、ロジャー・R・リースの説明を紹介して、内的要因(「内発的要因」というべきだろうか)と外的要因(「外在的要因」というべきだろうか)に分け、前者について、

自らの利害、個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、スターリン体制の利点に対する評価、先天的な祖国愛(p.116、強調は引用者)

 と書いている。

 「大祖国戦争」という命名に象徴される「ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された上に、対独戦の正当性が付与」(p.117)という規定を大木は行なっている。

 「大祖国戦争」という形でナショナリズムに訴えた宣伝が功を奏したことはぼくから見ても間違いないとは思うのだが、ぼくが気になっているのは、リースがあげている「スターリン体制の利点に対する評価」という点なのである。

 スターリン体制によって成し遂げられた工業化はベースのところでソ連国民によって支持されていたのではないか? と思うのだ。前述の『戦争は女の顔をしていない』で出てくるインタビューには、露骨な体制支持やイデオロギー支持はそれほど多くないが、守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれるが、そういう日常を支持している庶民が、志願をしている。つまりそれは「スターリン体制の利点に対する評価」があったのではないかと推測できるのである。

 加えて、ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ。それはスターリン体制が工業化を達成したことと不可分の話ではないだろうか。

 さらに加えておけば、本書はそもそも「ソ連の人的・物的優位」は「勝利の一因」として認めつつも、「作戦術にもとづく戦略次元の優位」(p.224)という原因を提示している。本書の新たな「意義」という側面からすれば、この点の指摘の方が実は重要なのだが(ぼくにとってはそれほど関心を持てない点でもあった)。

 何れにせよ、この「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題については、対応する記述が本書にはある。その点をどう評価するかは、読む人がそれぞれ判断すればいい。

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