額田王
額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳。女性)は、飛鳥時代の日本の皇族・歌人。天武天皇の妃(一説に采女や巫女)』)、額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。
係累他[編集]
『日本書紀』には、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され、一説に宣化天皇皇子の火焔皇子の曾孫といい[1]、この場合は威奈(猪名/韋那)氏の同族である。また、近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。
生年は不詳であるが、まず孫の葛野王が669年(天智天皇8年)の生まれであることは確実である。このことから、娘の十市皇女の生年は諸説あるが、648年(大化4年)から653年(白雉4年)頃の間の可能性が高い。更に遡って、額田王は631年(舒明天皇3年)から637年(同9年)頃の誕生と推定される。
出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。
『万葉集』『日本書紀』に見える鏡姫王(鏡王女)を姉とする説もあるが(本居宣長『玉勝間』)、それは「鏡王女」の表記を「鏡王の女(むすめ)」と解釈したもので無理があるとの意見もある。また、表記の解釈は同様で「鏡王の女(むすめ)」とは額田王自身のことを指すのではないかという新説も提出されている[2]。
十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが確証はない。状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。特に
- 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
- 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)
の2首などをめぐって天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが、池田弥三郎・山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来、こちらの説も有力視され学会では通説となっている[要出典]。晩年の王の歌としては持統天皇の吉野行幸に際して弓削皇子と交わした贈答歌があり、行幸の時期からして60歳前後までは確実に生存していたと推測されている。従って没年は大まかなところ、690年頃としか言えない。
は中国の姓名だろうと思う。「をほど」という名前の音韻はまったく日本語らしくない。昔と今の日本語が違うといっても、名前らしくなさすぎる名前である。おそらく「袁」が姓だろう。百済人か新羅人か、中国人ではないか。中国人から帰化した朝鮮人が日本に渡来したとも思える。
武烈天皇が暴君だったという話は継体天皇の出自の怪しさを誤魔化す意図だと思う。
(以下引用)
『古事記』では越前の名前は全く出て来ず「近江」から迎えたとある事を指摘している[5]。 「天皇(武烈)既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太(応神)天皇の五世孫、袁本杼(をほど)命を近淡海(ちかつおうみ)国より上り坐しめて、手白髪(たしらか)命に合わせて、天下を授け奉りき。」[6]
『日本書紀』によれば、506年に大変な暴君[注 4]と伝えられる武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。
次に大伴金村が「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂こう。)[7]」と言い、群臣達は越前国三国(現福井県坂井市三国町あたり)(『古事記』では近江から迎えたとある)にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を迎えようとした。 臣・連たちが節の旗を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王には大王の品格があり、群臣たちはかしこまり、忠誠をつくそうとした。しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、大王に即位することを承知しなかった。 群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)がいた。荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた。使者は3日かけて説得し、そのかいあって男大迹王は即位を決意し、大倭へ向けて出発したという[8]。 その後も、男大迹王は自分はその任にないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。 継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている[9]。 しかしその後19年間、なかなか大倭入りせず(大倭に入れず?)511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。 翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している(詳細は磐井の乱を参照)。
崩年に関しては『日本書紀』によれば、531年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『古事記』では、継体の崩年を527年としている。没年齢は『日本書紀』では82歳。『古事記』では43歳。都にいた期間は、『日本書紀』では5年間。『古事記』では、1年間程である。
対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するために、たびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『日本書紀』によれば、継体6年(513年)に百済から任那の四県[注 5]の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した[注 6]。
継体や勾大兄皇子、金村は軍事的な外交を行った。任那は百済や新羅からの軍事的圧力に対して倭の軍事力を頼り、継体らはそれを踏まえて隙があれば新羅と百済を討とうとしていた。現在の博多に存在した那津官家はその兵站基地であった。安閑天皇や宣化天皇期の屯倉設置も、兵站としての役割を期待されてのものであったと考えられる。
○朝鮮半島と大和政権
さて、卑弥呼の時代から160年ほど中国や朝鮮の歴史書に登場しなくなった日本(倭)ですが、大和地方に誕生した政権が再び東アジア地域と関わるようになったことから、色々なところで倭に関する記述が見つかります。・・・と、その前に中国と朝鮮の情勢を解説しますと。三国志の時代を経て、中国を統一した晋ですが、早々に弱体化し、北は匈奴をはじめとする異民族によって征服され、政権は南へと移ります。この時代を南北朝時代と言い、北は匈奴の諸国家が次々と興亡し(いわゆる五胡十六国。5つの異民族による16の国)、南も漢民族政権が次々と交代するようになります。
こんな情勢下ですから、4世紀になると、それまで中国の支配下にあった朝鮮半島で国家形成の動きが起こります。
まず、現在の中国東北部で建国された高句麗(こうくり、コグリョ)。その起源は紀元前2世紀とする説もありますが、313年に中国の朝鮮半島出先機関である楽浪郡を攻め滅ぼし、朝鮮半島北部に勢力を拡大します。
これに対し、南部では馬韓、弁韓、辰韓の3つの連合体が相争っていましたが、この中で辰韓地域から新羅(しらぎ、シルラ)が、馬韓地域から百済(くだら、ペクチェ)という統一国家が誕生します。
一方で、伽耶(かや)と呼ばれるようになった弁韓地域は小国が分立する状態が続く一方で、日本と密接な関係を持っていました。それどころか、日本側の資料である「日本書紀」では任那(みまな)として登場し、日本府、つまり大和政権の朝鮮半島統治機関(もしくは出張所)を置いていたと書かれています。・・・が、果たして日本が朝鮮半島南部をある程度にせよ、実行支配していたのかどうかは疑問の声も非常に強いです(もちろん、特に韓国側から~)。ちなみに、個人的には、逆に伽耶地域出身の王族が、大和朝廷の大王だったり・・・なんて推測もしています。
さて、こうした朝鮮半島の微妙な均衡を撃ち破ったのが高句麗。
4世紀末には、百済と新羅を服属させ、朝貢させていたのですが、大和政権の権益がある伽耶地域に対して手を伸ばそうとしてきます。大和政権は、朝鮮と密接な関係を保ち、そこから鉄を輸入することで他勢力に対して優位に立っていたので、伽耶地域を失うわけにはいきません。
こうして大和政権の軍勢は海を渡り、391年に百済と新羅を破ります。
さらに399年になると大和政権は百済と手を組むことにし、新羅を再び破るのですが、新羅は高句麗の広開土王(好太王)(374~412年)に援軍を要請。翌年、騎馬隊の戦力に勝る高句麗軍は大和政権の軍勢を破りました。
しかし、大和政権はすぐさま再攻撃に出ます。
404年になると、なんと朝鮮半島北西部まで怒濤の攻撃を繰り出すのです。
・・・が、やはりこれも高句麗軍の猛烈な反撃に遭い、見事に大敗を喫し、これによってしばらく、大和政権は本格的な朝鮮半島への軍事介入を諦めました。
以上の高句麗VS大和政権(倭)の交戦の記録は、当時、高句麗が都を置いていた丸都(がんと 現・中国吉林省集安市)にある好太王碑にシンプルながらも書かれています。これは、広開土王の一代記を記した碑文で、当時の日本と朝鮮の関係を記した、唯一と言ってもいい貴重な資料となっています。
ちなみに、広開土王の正式な諡(おくりな)は国岡上開土境平安好太王といいます。
そこから広開土王と略すか、好太王と略すか色々のようですね。
○渡来人と朝鮮文化の到来
さて、高句麗の騎馬隊にて痛い敗北を喫した大和政権では騎馬隊による攻撃というものを考案せざるを得なくなったようで、古墳の中に馬具が埋葬されるようになっていきます(そのため、一時は騎馬民族が日本を征服したという説もあったぐらいです)。また、この朝鮮半島の混乱を避けるため、多くの人々が朝鮮半島から日本にやってくるようになります。こうした朝鮮半島などから日本にやってきた人々のことを渡来人と言って、朝鮮や中国の文化や技術、政治システムなどを伝えました。大和政権は彼らを韓鍛治部(からかぬちべ)、陶作部(すえつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、鞍作部(くらつくりべ)といった技術部門別に分けて、各地に居住させました。
ワ(タイワ):日本(倭)
シンラ:新羅→訂正「シルラ」
ク・ダーラ:百済→訂正「ペクチェ」
コグリョ:高句麗
ミ・マーナ:任那→訂正「ニンナ」
ズイ:隋
トウ:唐
Ⅱ:人名
智彦(大智天皇):中大兄皇子
海彦(大武天皇):大海人皇子
嘉麻足:中臣鎌足
入鹿:蘇我入鹿
蝦夷:蘇我蝦夷
多家良皇后:皇極帝(天智・天武の母)
恕命天皇:舒明天皇
宇之姫:天智の娘で天武の妃(持統天皇)
Ⅲ:書き方
・冗談体で、中身は真面目。文体は坂口安吾風。あるいは、時に筒井康隆風。
・一人称描写で、自称「オレ」、実体は中大兄皇子。最後に大海人皇子が語り手になる。あるいは、複数人物の語りで話を進める。で、その度に「現実の姿」が変容する。
Ⅳ:主テーマ(問題点)
・天皇家はほとんど蘇我系だのに、なぜ中大兄皇子は蘇我本家(宗家)を滅ぼしたのかという謎→解のひとつは、中大兄皇子と山背大兄王が親友、あるいはホモだちだった。
・入鹿はなぜ山背大兄王を滅ぼしたのかという謎
・中大兄皇子の百済への異常な執着の謎
・中臣鎌足が百済の王子豊ショウであったという仮説
・中大兄皇子は単に鎌足に操作されたのではない、としたら、他にどんな動機があるか
・天智と天武の精神的関係(額田王との関係)
・山背大兄王は実は死んでおらず、入鹿軍の包囲網を脱出して変装し、1年後に「中臣鎌足」として中大兄皇子と手を結んで蘇我宗家を滅ぼしたという仮説。これは、中大兄皇子にとっても、蘇我本家の支配を脱して、自ら皇位を得る第一歩だった。→中大兄皇子の百済への執着の動機が弱くなる欠点がある。→中大兄皇子自身が舒明の子ではなく、皇極(斉明)と百済出身の官僚の間の子だったとするか?→この仮説を使うと、中大兄皇子が長い間皇位に就かなかった理由にもなる。で、話の冒頭は、その「自分が母の浮気の結果の子である」ことに動揺し悩む姿とする。→同様に、山背大兄王も聖徳太子の子ではなく、刀自子郎女と名も無い兵士との間の浮気によって生まれた子だとする。蝦夷は聖徳太子がホモであることを知っていたので、妹が生んだ子供が聖徳太子の子ではないと見抜き、山背の皇位への野望を阻んだ。
・主人公を中臣鎌足とするか? 最初、百済の豊ショウである、という解決を示し、後で実は山背大兄王だったという二段構え。語り手は大海人皇子とする。
ⅴ キャラ設定
海を渡ってきた「鉄」の話
製鉄の先進国だった古代の中国
世界で初めて鉄が作られたところはまだはっきり分かっていませんが、西アジアのヒッタイト(現在のトルコ周辺)とする見方が有力で、今からおよそ3800~4000年前のことになります。一方、中国で鉄が作られたのは、3400~3100年前ごろと言われ、日本でいえばまだ縄文時代の後期後半に当たります。中国においても、鉄の始まりは、宇宙から落下した隕鉄(鉄隕石)を利用したものでした。このころ、中国では、すでに鋳銅技術が開発され、金属器といえば青銅器が主流で、鉄はとても貴重なものだったのです。
やがて、中国では、世界に先がけて銑鉄が作られるようになり、この銑鉄を鋳型に流し込んだ鋳造鉄器とよばれる鋳物の鉄製品(多くは鉄斧や鋤先などの農耕具)が作られるようになりました。ところが、この銑鉄は、鋳物を作るには便利ですが、鉄中に炭素を多く含むため、非常に硬い半面、衝撃には脆い性質があり、刃物などの利器には適さないのです。
しかし、中国では、鉄中の炭素を減じる脱炭技術が開発され、粘りのある鉄、鋼が鋳造鉄器の刃部に利用されるようになりました。日本の弥生時代中期ごろになると、このような鉄で作られた鉄斧の破片などが北部九州を経由して日本に運ばれ、再利用されたのです。石の道具で山野を開拓していた弥生人は、鉄器のもつ切れ味の威力に驚いたことでしょう。ムラに持ち込まれた鉄製品は貴重品だったに違いありません。雲南市木次町の垣ノ内遺跡は弥生時代中期の集落遺跡ですが、ここから見つかった鋳造鉄斧片もこのようなものだったと考えられます。
日本の製鉄はいつ始まった?
日本では、弥生時代の前期ごろ、中国の製鉄技術は、朝鮮半島の北部に伝えられていました。そして、3世紀ごろには、朝鮮半島南部で生産された鉄が取引され、日本にも輸入されたのです。それは、日本の弥生時代後期後半から古墳時代初めに当たります。このコーナーで紹介した、平田遺跡出土の鉄素材がちょうどこのころの時期のものになります。
わが国の鉄関連遺跡で最古級の遺跡に、福岡県の赤井手遺跡があります。弥生時代中期中ごろの遺跡ですが、この遺跡は製鉄を行った遺跡ではなく、鉄素材を加工して鉄器を製作した鍛冶遺跡でした。中国で、隕鉄から鉄が作られて、実に1000年以上後になります。今のところ、この時代の製鉄遺跡は確認されておらず、わが国では、銅鐸などの鋳造技術の後に鍛冶技術が伝わったと思われます。製鉄遺跡としては、島根県邑智郡の今佐屋山遺跡のように6世紀前半の遺跡が確認されていますが、各地の発掘調査などから、5世紀後半には製鉄が始まっていたと考えられています。しかし一方では、弥生時代後期に鍛冶工房が急増することから、製鉄の開始時期は、このころまで遡るのではないかという見方もあります。
製鉄技術の不思議
ところで、大陸から、わが国に伝わった製鉄技術ですが、中国や朝鮮半島で行われていた製鉄は、間接製鋼法とよばれ、鉄鉱石を加熱、溶融して溶けた鉄鉱石を撹拌し、銑鉄を生産してから鋼をつくるのが主流でした。しかし、日本では、鉄鉱石や砂鉄を比較的低い温度で加熱し、溶融せずに直接、海綿状になった鉄塊(錬鉄)にする独自な製法(直接製鋼法)が作りだされたのです。これが「たたら製鉄」とよばれる製鉄法の基礎になっていますが、どういう過程を経て「たたら製鉄」法が考え出されたのか、まだ謎となっています。また、古代の鉄生産地の一つである山陽方面(かつての備前、備中、備後など)の多くでは、鉄の原料に鉄鉱石が使われていました。その一方、山陰側では、鉄鉱石に乏しく、島根県の斐伊川、神戸川、伯多川、鳥取県では、日野川の流域などで、砂鉄が使われています。古代の人々は、砂鉄から鉄ができることをどのようにして学んだのか、興味深いものがあります。