(以下引用)
反動の時代(1825年 - 1855年)[編集]
1825年11月19日に急死したアレクサンドル1世には跡継ぎの男子がなく、皇位の継承に空白が生じ、弟のニコライ1世(在位1825年 - 1855年)が即位するまでに3週間を要した[n 7]。この混乱に乗じる形で12月14日に自由主義貴族や士官たちが決起した(デカブリストの乱)。専制政治の打倒と農奴制の廃止を主張する、この反乱の背景はナポレオン戦争に遡り、戦争の際に多数の教育を受けたロシア軍士官が従軍しており、西欧の自由主義思想に接した彼らは国内で秘密結社を組織して専制体制の祖国の改革を模索するようになった[104]。
将校たちは皇帝への宣誓を拒否し、約3000人の反乱軍が憲法制定を要求して元老院広場に集結した[105]。準備不足のまま決起した反乱は容易く鎮圧され、首謀者たちは絞首刑またはシベリア流刑となった[106]。だが、反乱に対する政府の苛酷な報復によって、逆にデカブリストに対する知識人たちの共感が集まり、彼らはロシアにおける革命運動の最初の殉教者と見なされるようになった[107]。
ニコライ1世は革命から専制体制を守るために「正教、専制、国民性」(Православие, Самодержавие, Народность)のドクトリンを標榜して警察国家体制の構築を図った[108]。更なる反乱を阻止すべく、ニコライ1世は革命予防措置を目的とする「皇帝官房第三部」と呼ばれる政治秘密警察を設け、スパイが各地に配置された[109]。検閲法が定められて思想弾圧が行われ、さらに弾圧は教育は学問にも伸び、庶民の高等教育への道が閉ざされた[110]。
法体系の不備に不満を持ったニコライ1世は左遷されていたスペランスキーを再起用して法令の集成にあたらせ、1830年に「ロシア帝国法律大全」を編纂させ、1833年には「ロシア帝国法典」を発布した[111]。これによって官僚制の発展・整備が促された一方で、軍人出身のニコライ1世の武官重視の姿勢によって「行政の軍事化」の傾向が現れるようにもなっている[112]。
この時代、ロシアでは農民暴動が増加しており、ニコライ1世は革命予防のために現行の農奴制を維持しつつ、農奴の状態を改善しようと試みたが、効果を上げることはできなかった[113]。
(中略)
19世紀前半のロシアでは、ロシアの後進性を痛烈に批判したチャーダーエフの『哲学書簡』(1830年)に端を発して、インテリゲンチャ(知識階級)の間で西欧派とスラヴ派との論争が起こった[123]。ホミャコーフを代表的思想家とするスラヴ派は西欧を「堕落したもの」と認識してピョートル1世以前の伝統への回帰を唱え、西欧の個人主義に対比する、ロシアの伝統的な農村共同体(ミール)の集産主義を称揚した[124]。これに対して、ベリンスキーをはじめとする西欧派はスラヴ派の主張を無知と空想の産物に過ぎないと否定し、ロシアの後進性を批判した[125]。
大改革と革命の胎動(1855年 - 1881年)[編集]
1855年3月2日にアレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)が即位した。クリミア戦争の戦況は好転せず、セヴァストポリは1年近くの包囲戦の末、8月に陥落した。ロシアの継戦能力は尽き、翌1856年3月に黒海の艦隊保有禁止、ボスポラス・ダーダネルス海峡の軍艦通行禁止、ベッサラビア南部の割譲といった屈辱的な内容のパリ条約が締結されて戦争は終わった[126]。ナポレオン打倒に主要な役割を果たして以来、ロシアはヨーロッパ最強の陸軍大国と見なされてきたが、近代化された英仏軍に敗れたことにより、その自尊心は大きな打撃を受けることになった[127]。
貴族領主に人格的に隷属させられた農奴は全農民の半数近い約2300万人が存在しており、敗戦を契機に諸悪の根源と見なされた農奴制への非難が強まった[128]。後に「解放皇帝」と呼ばれるアレクサンドル2世本人は保守的な考えの人物であったが[129]、改革の必要に迫られ、進歩的官僚を登用して改革に取り組むことになった[130]。アレクサンドル2世は戦争終結の詔勅で改革の意向を明らかにし、さらに貴族団の前で懸案であった農奴解放についての演説を行い「下からよりは、上からこれを行うべきである」と宣言する[131]。
1861年2月19日(3月5日)に農奴解放令が公布され、農奴には人格的な自由と土地が与えられた[132]。しかしながら、土地が無償分与された訳ではなく、政府が領主に対して寛大な価格で買戻金を支払うことになり、解放された農奴は国家に対してこの負債を支払わねばならなかった[133][n 9]。また、土地の1/3程度が領主の保留地となり、多くの場合、元農奴は耕作地が狭められた上にやせた土地が割り当てられた[134][135]。大概の分与地は農村共同体(ミール)によって集団的に所有されて農民への割り当てと様々な財産の監督が行われ、元農奴は領主に代わって農村共同体に自由を束縛されることになった[136]。農奴制は廃止されたものの、解放から暫くの間、農民の生活は一層苦しくなり、農奴解放令の内容に不満を持った農民の暴動が各地で引き起こされる結果となった[137]。
農奴解放によって都市労働者(プロレタリアート)が供給され、工業が活性化し、ブルジョワジー階級が増加してロシアの資本主義経済が加速された[138]。だが、革命家たちは、解放された農奴たちは単に産業革命を始めるための賃金奴隷(en:wage slavery)にされ、ブルジョワジーが領主にとって代わっただけであると信じた。アレクサンドル2世の思惑と異なり、農奴解放令によって逆に社会矛盾が激化することになり、革命の緊張は緩和されなかった[139][135]。
アレクサンドル2世はヨーロッパ・ロシア34県とこれに属する郡に代議制議会を持つゼムストヴォ(地方自治機関)を設置する地方行政改革を行い[140]、さらに司法改革[141]、教育改革[142]そして軍制改革[143]をも実施しており、農奴解放を含めたこれら一連の改革は「大改革」(Великая реформа)と呼ばれる[144]。
(中略)
この時代、これまで貴族中心だったインテリゲンチャの世界に変化が生じ、聖職者や下級官吏、商人など様々な階層の知識人が現れるようになった(ラズノチンツィ:雑階級人)[163]。1860年代のインテリゲンチャの特徴は既存の価値観や権威を否定するニヒリズムである[164]。主な思想家には西欧のそれとは異なるロシア独自の社会主義を提唱したゲルツェン[165]とチェルヌイシェフスキー[166]、無政府主義を主張してヨーロッパの革命運動で活躍したバクーニン[167]がいる。
やがて、専制政治の打倒を標榜する革命的な傾向がより強まり、ロシアの農村共同体を基盤とした資本主義を経ない社会主義社会の実現を目指すナロードニキ(人民主義者)が現れる[168][169]。彼らは政府の弾圧を受けながら労働者への宣伝活動を続け、そして、バクーニンの影響を受けた革命家たちが「人民の中へ」(ヴ・ナロード:в народ)を標語に農民への宣伝活動を広げた[170]。1874年は「狂った夏」と呼ばれ、数千の男女が農村に入り、農民に対する革命宣伝を試みている[171][172]。だが、農民は彼らを理解せず、この運動は失敗に終わり、多数の運動家が逮捕される結果に終わった[173][172]。
この後、ナロードニキの一部は「土地と自由」を結成して運動を継続するが、彼らの革命運動は過激化し、官吏を狙った暗殺事件が相次ぎ、1879年にはアレクサンドル2世も標的となった[174]。政府の弾圧により多数の活動家が逮捕され、またテロリズム路線の是非を巡って「土地と自由」も「人民の意志」派と「土地総割替」派とに分裂した[175][169]。1881年2月には冬宮にダイナマイトを仕掛けられる事件が起き[176]、そして、3月1日、テロによる政治革命を標榜する「人民の意志」派がアレクサンドル2世に対する爆弾テロを成功させた[177](アレクサンドル2世暗殺事件 (1881年))。