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「日本史」という素っ気ない名前のおそらく個人ブログ(サイト)であるが、文章が明快でユーモアもある。三韓の朝鮮読みが書いてあるのがいい。漢字表記とよく一致している。「百済」など、「ペクチェ」のほうが漢字音に近い。(高句麗、新羅も同様。)なぜ「くだら」という読みになったのか。日本人の韓国嫌悪が学界や教育界をも汚染したのだろうか。「くだら」ない話である。


○朝鮮半島と大和政権

 さて、卑弥呼の時代から160年ほど中国や朝鮮の歴史書に登場しなくなった日本(倭)ですが、大和地方に誕生した政権が再び東アジア地域と関わるようになったことから、色々なところで倭に関する記述が見つかります。・・・と、その前に中国と朝鮮の情勢を解説しますと。

 三国志の時代を経て、中国を統一した晋ですが、早々に弱体化し、北は匈奴をはじめとする異民族によって征服され、政権は南へと移ります。この時代を南北朝時代と言い、北は匈奴の諸国家が次々と興亡し(いわゆる五胡十六国。5つの異民族による16の国)、南も漢民族政権が次々と交代するようになります。


 こんな情勢下ですから、4世紀になると、それまで中国の支配下にあった朝鮮半島で国家形成の動きが起こります。
 まず、現在の中国東北部で建国された高句麗(こうくり、コグリョ)。その起源は紀元前2世紀とする説もありますが、313年に中国の朝鮮半島出先機関である楽浪郡を攻め滅ぼし、朝鮮半島北部に勢力を拡大します。

 これに対し、南部では馬韓、弁韓、辰韓の3つの連合体が相争っていましたが、この中で辰韓地域から新羅(しらぎ、シルラ)が、馬韓地域から百済(くだら、ペクチェ)という統一国家が誕生します。

 一方で、伽耶(かや)と呼ばれるようになった弁韓地域は小国が分立する状態が続く一方で、日本と密接な関係を持っていました。それどころか、日本側の資料である「日本書紀」では任那(みまな)として登場し、日本府、つまり大和政権の朝鮮半島統治機関(もしくは出張所)を置いていたと書かれています。・・・が、果たして日本が朝鮮半島南部をある程度にせよ、実行支配していたのかどうかは疑問の声も非常に強いです(もちろん、特に韓国側から~)。ちなみに、個人的には、逆に伽耶地域出身の王族が、大和朝廷の大王だったり・・・なんて推測もしています。

 さて、こうした朝鮮半島の微妙な均衡を撃ち破ったのが高句麗。
 4世紀末には、百済と新羅を服属させ、朝貢させていたのですが、大和政権の権益がある伽耶地域に対して手を伸ばそうとしてきます。大和政権は、朝鮮と密接な関係を保ち、そこから鉄を輸入することで他勢力に対して優位に立っていたので、伽耶地域を失うわけにはいきません。

 こうして大和政権の軍勢は海を渡り、391年に百済と新羅を破ります。
 さらに399年になると大和政権は百済と手を組むことにし、新羅を再び破るのですが、新羅は高句麗の広開土王(好太王)(374~412年)に援軍を要請。翌年、騎馬隊の戦力に勝る高句麗軍は大和政権の軍勢を破りました。

 しかし、大和政権はすぐさま再攻撃に出ます。
 404年になると、なんと朝鮮半島北西部まで怒濤の攻撃を繰り出すのです。
 ・・・が、やはりこれも高句麗軍の猛烈な反撃に遭い、見事に大敗を喫し、これによってしばらく、大和政権は本格的な朝鮮半島への軍事介入を諦めました。

 以上の高句麗VS大和政権(倭)の交戦の記録は、当時、高句麗が都を置いていた丸都(がんと 現・中国吉林省集安市)にある好太王碑にシンプルながらも書かれています。これは、広開土王の一代記を記した碑文で、当時の日本と朝鮮の関係を記した、唯一と言ってもいい貴重な資料となっています。

 ちなみに、広開土王の正式な諡(おくりな)は国岡上開土境平安好太王といいます。
 そこから広開土王と略すか、好太王と略すか色々のようですね。

○渡来人と朝鮮文化の到来

 さて、高句麗の騎馬隊にて痛い敗北を喫した大和政権では騎馬隊による攻撃というものを考案せざるを得なくなったようで、古墳の中に馬具が埋葬されるようになっていきます(そのため、一時は騎馬民族が日本を征服したという説もあったぐらいです)。また、この朝鮮半島の混乱を避けるため、多くの人々が朝鮮半島から日本にやってくるようになります。

 こうした朝鮮半島などから日本にやってきた人々のことを渡来人と言って、朝鮮や中国の文化や技術、政治システムなどを伝えました。大和政権は彼らを韓鍛治部(からかぬちべ)、陶作部(すえつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、鞍作部(くらつくりべ)といった技術部門別に分けて、各地に居住させました。
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Ⅰ:国名

ワ(タイワ):日本(倭)
シンラ:新羅→訂正「シルラ」
ク・ダーラ:百済→訂正「ペクチェ」
コグリョ:高句麗
ミ・マーナ:任那→訂正「ニンナ」
ズイ:隋
トウ:唐



Ⅱ:人名

智彦(大智天皇):中大兄皇子
海彦(大武天皇):大海人皇子
嘉麻足:中臣鎌足
入鹿:蘇我入鹿
蝦夷:蘇我蝦夷
多家良皇后:皇極帝(天智・天武の母)
恕命天皇:舒明天皇
宇之姫:天智の娘で天武の妃(持統天皇)

Ⅲ:書き方
・冗談体で、中身は真面目。文体は坂口安吾風。あるいは、時に筒井康隆風。
・一人称描写で、自称「オレ」、実体は中大兄皇子。最後に大海人皇子が語り手になる。あるいは、複数人物の語りで話を進める。で、その度に「現実の姿」が変容する。


Ⅳ:主テーマ(問題点)
・天皇家はほとんど蘇我系だのに、なぜ中大兄皇子は蘇我本家(宗家)を滅ぼしたのかという謎→解のひとつは、中大兄皇子と山背大兄王が親友、あるいはホモだちだった。
・入鹿はなぜ山背大兄王を滅ぼしたのかという謎
・中大兄皇子の百済への異常な執着の謎
・中臣鎌足が百済の王子豊ショウであったという仮説
・中大兄皇子は単に鎌足に操作されたのではない、としたら、他にどんな動機があるか
・天智と天武の精神的関係(額田王との関係)
山背大兄王は実は死んでおらず、入鹿軍の包囲網を脱出して変装し、1年後に「中臣鎌足」として中大兄皇子と手を結んで蘇我宗家を滅ぼしたという仮説。これは、中大兄皇子にとっても、蘇我本家の支配を脱して、自ら皇位を得る第一歩だった。→中大兄皇子の百済への執着の動機が弱くなる欠点がある。→中大兄皇子自身が舒明の子ではなく、皇極(斉明)と百済出身の官僚の間の子だったとするか?→この仮説を使うと、中大兄皇子が長い間皇位に就かなかった理由にもなる。で、話の冒頭は、その「自分が母の浮気の結果の子である」ことに動揺し悩む姿とする。→同様に、山背大兄王も聖徳太子の子ではなく、刀自子郎女と名も無い兵士との間の浮気によって生まれた子だとする蝦夷は聖徳太子がホモであることを知っていたので、妹が生んだ子供が聖徳太子の子ではないと見抜き、山背の皇位への野望を阻んだ。

・主人公を中臣鎌足とするか? 最初、百済の豊ショウである、という解決を示し、後で実は山背大兄王だったという二段構え。語り手は大海人皇子とする。




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