「わかりやすい表現はマンガ家の寿命を縮める」というほど、他の漫画家の漫画歴を彼は熟知しているのだろうか。短命に終わった漫画家は、「わかりやすい」から短命だったのか。「分かりやすい」のではなく、絵や話が小学生レベルだっただけではないのか。そして、その中には幼児時代の郷愁から年月が経っても一定の支持を得る「キン肉マン」のような作品もある。
確かに、つげ義春のように「わかりやすい」とは言えない漫画家が高い評価を得ることはあるが、それは分かりにくさのための高評価ではなく、その芸術的達成度の高さのためだろう。逆に、表現は一見「分かりやすい」が、その漫画技術の高さ(たとえばコマ運びの上手さや細部の描写の的確さ)ではなく、話やキャラや「分かりやすいギャグ」が大衆の自然な好みにあって好感を得ている「スパイ×ファミリー」など、「分かりやすさ」云々を越えた生命力を持っているのではないか。ネットで一部の偏屈なファンから「面白い」と評判された「素人には分かりにくい」ギャグマンガの大半は実に人気が短かったではないか。
ついでに言えば、紙屋氏の文末での発言は「ミステリー性」や「サスペンス性」と「分かりにくさ」を混同するという、初歩的な勘違いをしている。高等数学の問題は分かりにくいが、ほとんどの人間にはまったく興味を引かないのである。人間関係の葛藤とはまったく別の話だ。
(以下「紙屋研究所」から引用)
さて、この川崎の本の中に、売れないマンガ家を続けるコツとして「『わかりやすさ』と距離を置くこと」というテーゼが示されている。
わかりやすさはある方向への偏り(偏向)かもしれないし、もっと深く考えられる主題を浅くしてしまっている危険をはらんでいるのかもしれない、と川崎は警戒するのだ。
わかりやすい表現はマンガ家の寿命を縮める
とまで言う。
『ブルーピリオド』12で主人公が興味を抱いたアートコレクティブのリーダーのアジテーションが「わかりやすく」、主人公が「シンプルな存在になれる」と感じてしまうその危険な魅力を描いていたことをぼくは紹介した。
わかりやすくしたい、というのはぼくの基本的欲求であるので、このテーゼはむしろぼくと対立する。しかし、言いたいことはわかる。物事はそれほど単純ではないのである。しかし、その単純でなさが多くの人を問題から遠ざけてしまっているのであればやはりわかりやすくすることには大義がある。
だが、ここではあえてこの川崎のテーゼを考えてみたい。
最近そのことを感じたのは、木村イマ『シュガーレス・シュガー』1を読んだ時であった。
昔は小説に応募して入選したこともあり作家にもなりたかった平凡な主婦・柴田業(しばた・ごう)は新進気鋭のSF作家・弦巻融(つるまき・とおる)と喫茶店で知り合う。弦巻との交流に刺激を受けてモノを書くことに目覚めるが、そこにのめり込む様子を見て柴田の夫は不安を感じる。夫のいる妻の行動としておかしくないか? 昼間の主婦に行動として逸脱してはいないか? と疑問をぶつけるのである。
結婚している女性が家族でもない男と会っていたらおかしいでしょ
柴田はキレる。夫は自分の書いた小説をロクに読みもしない、つまり自分そのものに何の興味も示さなくなっているくせに、妻や母や主婦としての役割だけを形式的に求めようとするからである。
結婚して子供がいても私だよ!!
母親やって妻やってもも私は私だよ
役割のために生きてるんじゃない
泣きながら飛び出して、しかしすぐに柴田は反省をする。
女性の一生を乗りこなすのは容易い
女性というパッケージに妻というパッケージ 親というパッケージ それさえ用意できれば主体性などなくても乗りこなしていける
とSNSに以前投稿した小賢しい自分の一文を読み直しつつ
何をのぼせているんだろうか
今までパッケージに頼って生きてきたのは私じゃないか
と自己批判をするのだ。
帰りたくない…
このまま全部やり直したい
しかしこのような「役割」を破壊したくなる衝動は、そんなに単純に「役割」という檻を壊せるものではない。
柴田は結局「役割」に戻っていこうとする。
だが、それを壊そうとする衝動は常に自分の中に蓄積していく。
「役割」を壊そうとする「私」たらんとする衝動と矛盾は解決していない。一体この矛盾とどう折り合いをつけるのか、と不安に満ちた展開を示して1巻は閉じられる。
一体どうする気なんだ、と思う。
その「わかりにくさ」がこの作品の矛盾に満ちた推進力になっている。
(以下引用)
異世界アニメがみんな同じに見えるんやが・・・

設定が若干違うだけや
せやから中年チーがハマるんやで
編集者の知り合いが言うには面白いと思ったものが終わると似たようなものをさがして欲求を埋めようとするすらしいで
いうて10代20代も大好きやん
あれこそ変化の極みやと思うで
老害は昔の作品の方を好むもんやないか
あとは絵師ガチャよな
大体流れ同じやけどちょっとだけ変えてくる感じ
無職転生
このすば
リゼロ
ログホラ(2期まで)
この4つ
どういう風に生きてきてどういう人と関わって何を体験して何を考えたのかそういう全人的なものが全部出る
変化なくて当たり障りない内容を垂れ流して話題にしたいから同じの量産しても需要がある
続きどんどんアニメ化してほしい
まあ、書く方、作る方は楽だろうが、読者や視聴者は白け切っていると思う。
大昔の「スレイヤーズ」は名作アニメだったが、戦闘場面はほとんど退屈だった。それでも、魔法の名前とか魔法効果の説明とかは今よりきちんとしていたと思う。
私がもし魔法アニメを作るなら、「魔法は物理効果は無く、心理効果のみ。しかし、常人にはそれと本当の物理効果の区別ができない」とする。魔法を受けた者の心理描写とその現実の外的描写の連続で描けばいいが、あまり理に落ちすぎて面白くないだろうな。
まあ、下のコメントにあるように、魔法的なものはサブに添えるくらいがいいと思う。
(以下引用)
どっちの火の玉が威力があるみたいな話になるし、違い出そうとしても表現が単調になる
ハリーポッターも実際戦闘シーンが地味
魔法的なのはサブに添えるくらいがいいんじゃなかろうか
もちろん、古くは中江兆民の「三酔人経綸問答」などの例があり、啓蒙性はあるが芸術性はゼロというのが定評だろう。しかし、逆に言えば、「啓蒙性があっても、お堅い評論など誰も読まない」のに対して、今の時代は「政治や経済について自分は無知だが、無知な自分でも理解でき、読んで面白い作品を読みたい」という層はかなり大きいのではないか。まあ、漫画でその類の啓蒙書はたくさんある。漫画が描けない人は小説で書いてもいいわけだ。
今思いついた名前だが
根東洋(こん・とうよう)一見「ネトウヨ」の「アジア主義者」
黄米小夜(きごめ・さよ)「サヨク」
夢告積(むこく・せき)または世改浩(せかい・ひろし)「コスモポリタン」
国定一郎(くにさだ・いちろう)「国家主義者」
(以下引用)
左翼組織の今後のあり方、もっと言えば「ビジネスモデル」「マネタイズ」とか考えていたら、キャラクーが出てきてなんか考えたり、つぶやいたりした方がやりやすいな、と思ったのでそうなったまでなんです。
まさに「思想の道具としての小説」です。
カテゴリーが、ヒトの着ぐるみ着ているような、そういうやつです。
日刊紙って紙でなく完全電子にして大幅値下げしたらどうか。
とか。
地区組織を大幅に縮小してリモート活用したらどうか。
とか。
地区の人員・不動産を全部都道府県に集めたらどうか。
とか。
そんなことを実験的に考えたものです。
あるレベルの収入を維持するためにヒトやモノの資源を莫大に投入しているわけですが、コストそのものを縮小して、もっと小さな財政規模で回すことも、「プランB」として考えてみてはどうか。
あるレベルの収入維持が活動の中心になってしまうと、活動の魅力や面白さが失われてしまうと思うのです。
その面白さを「ドリン・ドリン!」という言葉に託しました。
そして、昔の活動家の記録(遺稿)をたまたま読む機会があって、そこにある全体性や、生き生きとした様子などに思いをいたして、この一文を書いたのです。
「何を大袈裟な」と思う人は、この「さよなら絵里」を見て、心から満足したか。漫画を読む快感、楽しさを得たか反芻してみると良い。作者の才能の凄さは分かるし、細部まで計算しつくされた作品のレベルの高さは誰でも感じるだろう。漫画界のベテランたちも彼の才能に讃嘆の声を上げている。ただ、問題はその作風の中心である「メタ視点」なのである。これは「ルックバック」でも見られた特徴だと思う。たとえば時間の再構成などもメタ視点が強調される技法だ。これには細心の工夫と注意が要るし、下手な漫画家には不可能な力技だ。だから評論的には必ず高評価を受けるだろう。「ルックバック」が主にプロ漫画家から絶賛されたのは、そのためだと思われる。
だが、漫画でも小説でもそうだが、我々は「作品内現実」を「批判を一時的に棚上げにして」受け入れて読むのであり、そうでなければすべて「ただの作り事じゃん」ということになる。実際、漫画や小説を読まないという人の中でそういう発言をする人は多い。
しかし、「作品内現実」が本物の現実と同等かそれ以上の意味を持つという漫画愛好家・小説愛好家は多いのであり、そういう人々が漫画や小説の愛読者として漫画や小説を支えているわけだ。
そういう人々に「これはただのお話だよ」と作者が面と向かって言うのが「メタ視点」作品なのである。
「さよなら絵里」のラストシーンの「爆発」が意味しているのは、そういうことだ。果たして爆破されたのは何か。それは作品に没入していた読者の心でないと言えるだろうか。
考察サイトからコメントをふたつ転載する。おそらく読んだ人の8割くらいはこのどれかになる
のではないか。そして残りが「エヴァンゲリオン」のように、勝手に妄想的考察をするわけだ。
あっという間に読み終わった。
面白かった。でもなんだろう、心のどこかに小さなしこりが残ってるんだけどそれが何なのかわからない。
いやいや、いやいやいや、まてまて。最初の数ページでタツキ先生にしては平凡な漫画描いたんだなと思ったけど、いやいや、とんでもねえな。ルックバック割とまともだったじゃん?? あまりにもまともな漫画描いた自分が嫌になっちゃったのかな??? ねえ、感想とかねえよ、何を見せられたのか解らん
Comment-コメント-
縦の勇者は漫画版をちょっと見たけど主人公可哀想だったから見たくない
端から見たらそれちょっと悲しくなるな(´ε` )
ハズレ能力かと思ったら実は当たりでしたとか、弱いと見せかけて実は最強でしたとか
芸人のリズムネタみたく流行った物を真似てとりあえず1発当ててやろう感が見え透いたやつばかりでゲンナリする
少しは他とは違う発想力や構成力で勝負する作品が出てきてほしいわ
野球興味ない奴にどこの球団のどこの選手がどうこう語るのと一緒みんな玉転がしして遊んでるようにしか見えねーよ
バンプもRADみたいなバンプのパクりバンドも興味ないから区別付かんし
興味ない人からしたら同じジャンルの物は全て一緒だろ