ちなみに、構想している話の冒頭は、日本中のすべての原発が「なぜか」連続的に爆発する、という事件である。つまり、日本は半分くらい滅亡し、残りも放射能の危険にさらされている状態。神々は明確には登場せず、「神託」を受けた人間が神々の代理として戦う話にしたい。
タイトルは「召命」でもいい。
(以下引用)
十二話 国譲り、その後(天津神の降臨)
さて、童たちも気になるようだから、オオクニヌシが「葦原の中つ国」をアマテラスの使者に譲ると言った後、どげなことになったか、ちょんぼし話しておくわ。
●ごっつおを食べた童たちの中には、こっくりこっくり舟をこいでいる童もいる。お土産にもらった袋が気になって、隙間から覗いている童もいる。
●爺さんも、童たちからの感謝状と共に胸に付けてもらった紙の勲章が気になった。

天孫降臨に向けて
さて、アマテラスとタカミムスヒは、征服したとの報告を受けると、さっそく統治者を遣わすことになぁました。子供のマサカツアカツカチハヤアメノオシホミミを遣わそうとしましたが、すでに子供がおおまして、自分の代わりにその子を遣わしてくれと言わっしゃった。その子の名前がアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ。アマテラスからみれば孫になるニニギを遣わすことになぁました。
ところが、ニニギが天から降りて行こうとすると、なんと、一人の神様が立ちはだかっていた。そりゃ凄い勢いで、その身は輝き、辺り一帯をも輝かせ、高天ヶ原も葦原の中つ国も照らしておった。アマテラスは、女の神様のアメノウズメに「だぁか、聞いて来い」と命じられました。アメノウズメはだぁか覚えちょうかな。アマテラスが岩戸に隠れなさったときに、岩戸の前で着ている衣をはだけて踊らっしゃった女の神様だ。
待っちょったのは国津神のサルタビコ。そうそう、天におらっしゃあアマテラスなどが「天津神」で、オオクニヌシのように地上におらっしゃあ神様が「国津神」だ。スサノヲも国津神だな。
そのサルタビコが、ニニギの先導をしたいと言わっしゃった。
天孫降臨のお供
こげして、ニニギの天孫降臨の態勢ができましたが。
●爺さんは懐にしまった紙を見た。長い名前はなかなかうまく言えん。そこでお守り代わりにカンニングペーパーを用意するのだ。
アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤの五神を連れ、八尺(やさが)の勾玉と鏡、それに草薙の剣を持ちました。それにオモヒカネ、タヂカラヲ、アメノイハトワケをそばにつけました。
アマテラスは「この鏡はわが御魂として、大切にして、祈り祀りなさい」と言わっしゃった。それは伊勢神宮に祀られた。
いざ、降臨
さてさて、ニニギは高天ヶ原にお供の神様たちを連れて出発されました。たなびく八重雲を押し分けて、力強く踏み分けて、天の浮橋から、一気に筑紫の日向(ひむか)の高千穂の峰に降臨されました。

●「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」。年長の童が呟くように言った。
よう憶えちょったな。良いことだぞ。
●「爺さん、今、言わっしゃった、『八重雲を押しのけて』ちゅうのは、なんかね。間接的に出雲を押し破ったと言いたいからだかね。たしか『八雲立つ』は枕詞で、出雲を修飾するほめ言葉と言わっしゃった気がすうが」
●オナゴの童が反論した。「『八重』は沢山という意味がああが、だけん、沢山の雲を押し分けてと訳したがいいと思う。無理に『八雲立つ』につなげんでいい」
●爺さんは考えた、どげしたもんかと。今の今まで考えたことがなかった。原文に当たればヒントになるものがあろうが、爺さんの覚えた神話はいろんな人から聞いた寄せ集めと、爺さんの創意でできている。
二人の意見はもっともだ。ごめんだが、爺さんの宿題にしてくれんかの。
●童は笑って頷いた。答えられないことも嬉しいが、爺さんとまた話すことができることが有難かった。
そのときにな、二人の神様が、アメノオシヒとオマツクメがな、大きな矢筒を背負い、大きな刀を腰に付けて、武装の格好で前払いをしたそうだ。
●「横綱の土俵入りだ。太刀持ちと露払い。横綱は栃錦と吉葉山だ」
●たしかに横綱の土俵入りの露払いは、日本刀と弓矢を持っていて、弓で土俵を清める。
降臨
さてと、地上に降りたニニギは言わっしゃった。
「ここは、海を挟んで韓(から)の国に向き合い、笠沙(かささ・九州南部)にもつながっちょう。朝日が昇り、夕日がきれいな、素晴らしい国だ」と。そげして、深く掘って宮柱を立て、高い宮殿を造らっしゃった。そこにニニギは住まわっしゃった。
●「お爺ちゃん先生、なんで出雲の国に降りんかったの」。小さな童が問うた。大きな童が爺さんを見ながら言った。「そりゃあ、怖いからだ。まだまだ出雲国には反対する神様がいっぱいおらっしゃったんだ。そげだから九州に降りなさったんだよ」
●小さな童は爺さんを見た。
そうかもしれんな。そこんとこは定かではないな。
●童たちは頷いた。
さてさて、ある日のことだ、道案内をしたサルタビコが故郷に帰りたいと言い出した。そこでニニギはアメノウズメにサルタビコを送らせた。なんやかんやの褒美に、アメノウズメの代々はサルタビコの名前を貰って「猿女(さるめ)の君」と呼ばれるようになったげな。サルタビコの故郷は今の三重県の松坂あたりらしい。
アメノウズメはサルタビコを送って三重に行くとな、アメノウズメは伊勢の海の魚を全部呼びつけ「お前たちは天津神に従うか」と問われた。みんなは「はい」と返事をしたのに海鼠(なまこ)だけはなんも言わんかった。そこでな、アメノウズメは「何も言わん口だ」と刀で口を切り裂いてしまった。そげなことで今でも海鼠の口は裂けたままだとていうことだ。
さて、こうがオオクニヌシの国譲りのその後だわ。こうから先がニニギの国治めの始まりだ。
じゃあ、今日の話は、こっぽし、こっぽし。
●「爺さん、やはり、その先もききたいな」「もう、出雲の神さんはでんかね」「「昔話でもいいけ、聞かしてくれんかの」。
●有難い声に爺さんは頷いた。
そげだな。もうすこし考えさせてくれ。それにな、ほかの童も「出雲神話」を聞きたいと言うちょうが。
●もう、そこまで冬が来ていた。来週は年末の準備と年越しに向け町に「市」(いち)が立つ。それにあわせて夜店や見世物小屋も来る。童たちにとっては楽しみだ。
●木枯らしが抜吹き抜けた。
クシナ) どこに行ったのだろう、オロオロは。
クシナは次に来た木枯しに乗った。
ある有閑階級の青年あるいは中年男が、公園での散歩から戻る途中で、町の曲がり角の目立たない場所に文庫本の1ページ目が貼られている(差し込まれている)のを見つける。その曲がり角を進んで、次の曲がり角で2ページ目(表裏で1枚の紙なので厳密には3,4ページ目)を見つける。そこで、これは誰かが誰かを追跡し、後でその道筋をたどるための目印だと判断し、自分もその追跡を始める。その際に、頭の中で趣味の作曲をしながら悠々とその「追跡散歩」を続けるのだが、その曲に「記憶のタグ」のために「追跡」という名前を付けておく。まあ、そういう話で、その曲まで寝床の中で部分的に作曲したわけだ。安直な曲だが、たぶん、私のオリジナルである。軽快な曲である。楽器はギターかと思うが、声を楽器的に使うのもいい。リズムは「ターンタターン、たららら、ターンタターン、たららら、ターンタ、ターンタ、ターンタ、ターン、たららら、ターンタターン、たららら」の繰り返しで、音の高低の変化もわずかである。覚えやすい曲だが、これだけで自分で再現できるかは怪しい気もする。
なお、問題の文庫本は、たとえば「ヘンリ・ライクロフトの私記」のような、今どきの人が読まない本で、或る意味マニアックである。それだけに、それを目印のために破って使うということは、その人物にとってその「追跡」が重要な意味を持っていたということだろう、と主人公は推理する。
まあ、結末の一案として、実はその男にひそかに惚れている女が、推理マニアの彼を「引っ掛ける」餌として、その文庫本を撒いていた、として、さらにはハッピーエンドにする形もある。追跡しているつもりが(形而上的には)追跡されていたというオチだ。北村薫にO・ヘンリー的なひねりを加えた感じか。チェスタトンに、レストランで塩の壺と砂糖の壺の中身を入れ替えるなどの奇妙な行為を、誰か(ブラウン神父)に自分を追跡させるための「目印(呼び水)」にする話もあった。
読者が主人公と自分を同一化して(感情移入して)読めば、楽しい気分で読み終えるのではないか。
追跡の途中で様々な物や人々の情景を見ては主人公はあれこれ考えるが、ラストシーンは、最初の公園に導かれ、そこのベンチで座って本(問題の「本」でもいい)を読んでいる「犯人」の女性を発見し、彼女と会話する場面にしようか。一種の円環構造である。
文庫本一冊で恋が成就するなら、安い投資である。恋にはカネより頭が大事。
告白と自己防衛とはいつも微妙に噛み合っているから、告白型の小説家を、傷つきにくい人間だなどと思いあやまってはならない。彼はなるほど印度の行者のように、自ら唇や頬に針を突きとおしてみせるかもしれないが、それは他人に委せておいたら、致命傷を与えられかねないことを知っているから、他人の加害を巧く先取しているにすぎないのだ。とりもなおさず身の安全のために!
小説家になろうとし、又なった人間は、人生に対する一種の先取特権を確保したのであり、それは同時に、そのような特権の確保が、彼自身の人生にとって必要不可欠のものだったということを、裏から暗示している。すなわち、彼は、人生をこの種の『客観性』の武装なしには渡ることができないと、はじめに予感した人間なのだ。
客観性の保証とは何か?それは言葉である。(三島由紀夫『小説とは何か』1970年)
で、何が言いたいかというと、「魅力的なキャラを作れれば、話は自然と生まれてくる」という考え方の創作法もある、ということだ。この創作法のポイントは「話の整合性はある程度誤魔化せる」ということだと思う。キャラが読者や視聴者の頬をゆるませるかぎり、些細な欠点は見逃されるということだ。これは、幼児や小児や愛玩動物を見る大人の気持ちを考えれば理解できるかと思う。高橋留美子の「うる星やつら」は、無数のキャラを出し、それらを動かすことで大長編を作ったわけで、個々の話は毎度毎度同じようなものだったわけだ。「めぞん一刻」にしても、話の大筋は一本、つまり主人公とヒロインの恋物語で、それはいろいろ変化するが、一刻館の住人のドタバタ騒ぎはほとんどがワンパターンである。つまり、同じキャラが、毎度似たような行動を取って騒動が起こるわけだ。
久米田康治が書いていたが、「絶望先生」でたくさんのキャラを出してしまったことを激しく後悔しているそうだ。つまり、それぞれのキャラで別作品が幾つも描けたはずだ、ということである。逆に言えば、キャラを作ることは容易な作業ではない、ということだ。
高橋留美子にしても、犬夜叉と男らんまはほぼ同じ性格のキャラである。時代と外貌が違うが、キャラの中身は同じなのである。あだち充の主人公にしても、男はほぼ同じキャラで、ヒロインは2種類くらいだろう。つまり、作者自身の好みに合わないキャラは描いていても楽しくないからだと思う。この辺は、推理小説作家とはだいぶ違うようだ。推理小説は、パズルがメインで、キャラはただの「道具」であることが多い。だから、人物が簡単に殺される。主人公の探偵にしても、「解決篇の説明をするための道具」と言っていい。「金田一少年の事件簿」など、主人公は魅力ゼロである。
私が好きなキャラを挙げておく。
1「トム・ジョーンズ」のトム・ジョーンズ
2「高慢と偏見」のミスタ・ダーシー
3シャーロック・ホームズ
4「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャン
5あだち充作品の男主人公やヒロイン
6「風と共に去りぬ」のレット・バトラー
7「ピグマリオン」のヒギンズ教授
8映画「西部の男」の主人公(ゲーリー・クーパー)
9「ローマの休日」「マイ・フェア・レディ」のヒロイン(ヘップバーン)
10「第三の男」のハリー・ライム
これらのキャラの特徴や共通性を考えると、悪役のハリー・ライムやヒロインキャラは別として、主人公は基本的に
「善良である」「正直である」「勇気がある」「知性が高い(物事のポイントを見抜く洞察力がある)」「ユーモア感覚がある」「身体能力が高い」「悪に対抗する力がある」「抜けたところがある」「騎士道精神がある」
などの条件を持っているようだ。この中のひとつかふたつだけでも、主人公キャラになれる。たとえば、「ワールド・トリガー」の主人公は「善良である」「知性が高い」のふたつと、後は「騎士道精神がある」かもしれない、というだけの弱キャラだが、それでも主人公の資格はある。
で、少年漫画だと「身体能力が高い」だけでも主人公になることがあるが、読者の好感は得られないだろう。天才的運動能力があるだけの嫌みな主人公というのはうんざりするほどいるのである。低レベルの漫画家や原作作家は、天才というだけで子供が憧れると安易に考えているのだろう。実際、そういう馬鹿な子供も一定数いるとは思う。
(追記)昔の記事の一部を再掲載。
二次創作は初心者が創作する入り口としては非常に優れた手法だと思う。
と言うのは、小説や漫画を書く初心者が苦しむのは「キャラクター作り」であるからで、話自体は松本清張が言うように「人物が3人いれば話はできる」からである。つまり、キャラクター同士の干渉によって話が動いていく。だが、面白いキャラクターを創造するのは難しい。どうしても類型的キャラクターしか想像できないのが初心者の常なのである。だから、「二次創作」が有効なのである。
「話」を作ること自体がさほど大変でないことは、「なろう小説」の話がほとんど異世界冒険物であることから分かるだろう。これは、キャラではなく、RPGの「お約束」を借りた二次創作的な作法だからだ。
主に「ヒナまつり」の脇役たちで、「性格の悪い」女子連中と「馬鹿な」男たちである。高専だと優秀な生徒の集まりなので「世間知が無い」「人間関係慣れしていない」意味の「馬鹿」である。ただし、中には本物の馬鹿もいる。
視点を主人公視点にするか、傍観者視点(ワトソン的人物が語る)にするか、神の視点にするかという問題もある。
話を、高専の生徒たちが、「世界の歴史を変える」大発明をする話にするとか、何か大きなドラマが欲しい。最初はただの馬鹿な男の子や女の子の話から、最後は壮大な結末にする。
(追記)専科と本科の違いだが、専科は「院」的なものと見ていいようだ。下の「五年生」「二年生」は「五年制」「二年制」の間違いだろう。
高専OBです。
>高専本科・高専専攻科というのがあるようですが、高専本科は五年生、高専専攻科は二年生ということでいいのでしょうか。
おっしゃる通りです。 ちなみに、組織上は異なる学校として見なされるので 何かと手続きが面倒です。 補足についてですが 学士の称号が自動的に得られるのは四年制大学だけですから 学位試験を受けなければ、学士にはなれません。 ただ、多くの高専が 学位取得を修了条件としているでしょうから 実際は専攻科修了時に学士となる と言っても過言ではないでしょう。
1:三嶋瞳
2:相沢さよ
3:倉敷(委員長)
4:中田ケンゴ(ただの馬鹿。悪意は無い)
5:新庄マミ(性格のみ)
6:中村貴志(馬鹿だが妄想癖あり、特殊性癖あり)
7:斑鳩景
8:アンズ(性格のみ)
9:マオ(性格のみ)
10:前田仁志(無自覚イケメンアイドル:性格良し)
11:ミカ(暴力派部活顧問)
12:詩子
13:横山霞(やる気無し教師だが、頭はいい)
14:日代千鶴(「リライフ」から特別出演)
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