第五章 旅宿にて
村の入口近くにあるその旅宿は、一階の裏が馬小屋、建物の一階が食堂、二階が宿室になっていた。
四人は馬を馬小屋に入れ、その世話を宿の者に頼むと、食堂で遅い夜食を取った。グエンは顔を白い布で包んで隠している。
「あんた、変な病気じゃないだろうな」
でっぷりと肥った宿の主人は、グエンを見てそうは言ったが、深くは追求しなかった。
鍋にぶつ切りの鶏肉や玉ねぎやエンドウ豆や人参や蕪をたっぷりと入れ、牛乳で煮込んだシチューは、四人にとっては久し振りの食事らしい食事であった。宮廷で出されたら手もつけないようなこの食事が、王女と王子にも、何にもまさる御馳走である。
フォックスは安いワインも頼んだ。もちろん、酔うほどに飲むつもりはない。
「グエンもどう?」
グエンは陶製のジョッキに注がれたワインの匂いを嗅いで、うなずいた。
あの顔の構造でジョッキの酒が飲めるかな、とフォックスは見ていたが、案外器用に、こぼさずに飲んでいる。よく見ると、舌ですくい取るようにして口に入れているようだ。それも非常に素早い。だから、注意して見ないと、普通にジョッキのへりに口をつけて飲んでいるように見える。
鶏肉は骨のままばりばり食べている。
(剣が無くても、あの牙があれば十分な戦闘能力があるんじゃないだろうか)
とフォックスは思ったが、もちろんそんな失礼なことは言わない。
宿屋にはほかに客もいなかったので、四人は、周りに注意しながらではあるが、話をすることもできた。
「グエンはどこから来たの?」
ダンの遠慮の無い問いに、グエンは首を横に振った。
「分からないってこと?」
今度は頷く。
こういう具合で、時間はかかるが、知りたいことを知ることはできる。
どうやら、この奇妙な虎頭の男は、今日突然にあの野原にいる自分自身を発見したらしい。
それを嘘だともありえないことだとも他の三人は思わなかった。
「魔法にかけられて、ここに飛ばされたんだね」
ダンのその言葉が自分の今の状況をもっとも的確に表しているとグエンは思った。
グエンはこの旅の道連れの三人がどんどん好きになっていた。
たった一人でこの世に突然現れた自分に、こうして話のできる相手ができたことは幸運だったのではないだろうか、と彼は考えた。一方、自分が彼らの危難を救ったことについてはもうすっかり忘れていた。弱い者が苦難に遭おうとしている時にそれを救うのは当然の行為である、というのが彼の心の自然な声だったのだ。その一方で、自分があの兵士たちを殺したことへの自責の気持ちはまったくなかった。あの連中は、このか弱い人々に危害を加えようとした。それを防ぐために相手を殺すのも、まったく当然の行為だと思えたのである。
話をするうちに、グエンの発声能力の程度も分かってきた。今は簡単な「はい」「いいえ」以外はぶつぎりに単語を言うだけで、文章化して言うのはむずかしいが、まったく発音できないわけではない。とりあえずは、「はい」「いいえ」を重ねるだけでも意思の疎通はできる。
そうであるから、グエンが自分の側の話をすることはあまりできなかったが、他の三人の話を聞いているのは彼には楽しかった。
それに、この三人の容姿は見ていて快い。フォックス、いやフローラは日焼けこそしているが、とても整った顔立ちだし、化粧をしたら美女に化けることもできるだろう。そしてソフィはというと、これはまったくの美少女、金髪で色白でサファイア・ブルーの大きな瞳の目が長い睫に縁取られた、絵に描いたようなお姫様である。もちろん今は、旅をするために男装をしており、髪も王宮を脱出する時に男の子に化けるためにうんと短く切ってあるが、それでも顔立ちの美しさは、教会の天使像のようだ。
(教会の天使像? 俺はそんなものを見たことがあるのか?)
グエンは自分の想起した言葉につまずいて、物思いの世界に入り込む。
(いったい、俺は何者なのだ。記憶を失うまでの俺はどこにいて、どのような暮らしをしていたのだ? 俺は一人身なのか、それとも妻がいたのか? ははは、こんな顔の俺に妻などいたはずはないか。だが、俺のいた世界では、俺のような顔の人間がふつうなのかもしれない。……虎の顔をした妻か!……)
グエンは暗鬱な気分になり、二杯目のワインを飲んだ。
「グエン、どうしたの?」
グエンの気分を察したようにダンが聞いた。
グエンは何でもないというように首を横に振って、ダンの肩を軽くポンポンと叩いた。
「さあ、明日は早いから、今日はそろそろ寝ましょう」
フローラの言葉で四人は立ち上がり、寝室に向かった。
四つの寝台のある部屋に入った四人のうち、ダンは疲れたらしく粗末な寝藁の寝台に入るとすぐに寝息を立て始めたが、他の3人はもう少しお互いの話をした。
とは言っても、話したのは主にフローラである。ソフィはうまく事情を説明できるほどの年齢ではない。グエンは言うまでもなく言葉が不自由だ。
「このお二人はサントネージュ国の王女と王子であることは、先ほど言いましたが、私は近衛隊隊員のフェードラ、通称フォックスです。
つい五日前、この国の国王は同盟国ユラリア国王を招いて、親睦のために共に狩りをしました。その時、ユラリア国の国王からサファイア姫をユラリア国の第一王子の妃に迎えたいという話が出ましたが、我が国王アメジスト様はそれをお断りになりました。なにぶんにもサファイア様はまだ若すぎるという理由からですが、本心は、ユラリアの第一王子セザール様は残忍な方だという評判を聞いていたからです。申し出を断られたユラリア国王のマライスはその晩、アメジスト様を暗殺したのです。それと同時に、国境に待たせていた大軍がサントネージュとの国境を越えて侵入し、首都オパールに迫りました。国王を失っては、軍隊を統率することもままならず、王妃のルビー様はご自分の死を覚悟してこの私にお子様たちを逃すようにお命じになったのです」
「うう……どこに……行く?」
「タイラス国は我が国と縁戚関係にありますから、そこを頼ろうかと思ってます」
こんな見ず知らずの人間(いや、人間なのかどうかも分からないが)にすべてを打ち明けていいものかどうかと思わないでもなかったが、じぶんが信頼できると判断した人間には隠し事をしない方がいい、とフェードラは決心したのである。
「あなたはどうします?」
「分か……ら……ない。お前たち……と……行く……?」
ソフィは彼の首すじに飛びついて抱擁した。
「ありがとう。あなたが一緒に来てくれて嬉しい!」
ソフィは自分がこのようなあからさまな感情表現をしたことに自分で驚いた。彼女が受けたしつけには無い行動である。虎頭の男はこの無邪気な行動に戸惑いながらも嬉しそうだ。
「まあ、まあ、ソフィ様。でも、私も本当に嬉しいですわ。あなたのような強い人が一緒にいてくれるなら、何も怖いものはない、という気分です」
グエンは頷いた。べつに謙遜することもない。自分が馬鹿馬鹿しく強いことは、すでに確信していた。
何はともあれ、やるべき事ができたのは、自分にとってはいい事だろう。自分の正体については、今すぐには分かりそうもないから、当面はこの三人のお守りをしながら旅をし、この世についての知識をだんだんと増やしていくのが賢明なようだ、と眠りにつきながらグエンは考えた。眠りの中に沈みながら、ソフィが彼に抱きついた時の本当に嬉しそうな顔を最後に思い出し、彼は微笑を浮かべた。
第六章 セザールとグレゴリオ
「虎の頭をした男だと?」
セザール王子は報告を受けて眉根に皺を寄せた。年の頃20代後半の大兵肥満の男だが、顔は日焼けして精悍だ。顔の下半分は鬚に覆われていて、年よりもふけて見える。その目は小さく残忍な光がある。全体に、王子らしくもなく、熊か猪めいた野獣性を感じさせる男だ。
「それは仮面をかぶっているのか?」
「わかりません。宿屋の主人の言葉では、二日前に10歳くらいの女の子と8歳くらいの男の子を連れた夫婦ものが宿泊し、出がけにその男に男の子が抱きついた拍子に顔の包帯がはずれて、虎の顔が見えたということです」
「虎の仮面の上から、さらに包帯をするというのも理屈に合わんな。かといって、虎の頭をした男がこの世にいるなどとは聞いたこともない。まあ、神話の中には半人半獣という奴もいるにはいるが。で、そいつらはどこへ向かった?」
「東の方角ですから、タイラス国かと思われます。あるいはトゥーラン国かもしれません」
「ふむ。分かった。下がってよい」
東方面の報告を終え、間者は退出した。
続いて、捜索隊の隊長からの報告がある。
「最初の捜索隊の兵士たちの死体が見つかりました。20人全員です」
「すべて死体で見つかったのか?」
「はい」
「場所は?」
「サルガスの野の街道沿いの小川に皆、投げ込まれていました」
「サントネージュの残党がまだあちこちに残っているというわけだな。オパールの町の兵士や将校は皆処刑したはずだな?」
「はっ」
「だが、庶民に身を変えているとも考えられる。ならば町の成年男子は皆殺しにするしかあるまい」
「しかし、それは……」
「何だ?」
「いえ、何でもありません」
「不服そうだな。だが、お前らの仲間が20人も殺されたのだぞ。これもサントネージュの残党がこの世にいるからだ」
「兄者」
と声を掛けたのは、窓の傍に立って室内のことには興味もなさそうに外を眺めていた男である。こちらはセザールの弟だろうが、兄とはまったく似ていない。おそらく母親が違うのだろう。中背で細身、白皙の顔に長い黒髪がかかっている。美男と言ってもいい容貌だが、兄と同様にその灰色の瞳にはどこか冷酷なものがある。窓から室内に向き直って、上座の椅子に座っているセザールに言う。
「敵国の男どもとはいえ、奴隷として使えば貴重な労働力です。むだに殺すことには賛成しかねますな」
「俺の言葉に逆らう気か、グレゴリオ?」
威圧するようなセザールの言葉に、グレゴリオと呼ばれた男は平然として答える。
「べつにあんたは王ではない。たまたまオパール総督を命じられただけのことだ。俺の主君でもない」
「ほう、その言葉、覚えておくがいい。俺が王位についた後、俺に膝まづいて俺の靴を舐めることになるぞ」
「そうなるのがあんたでないとも限らないがな」
セザールは立ち上がって剣を抜いた。
「ならば、今、決めてやろう。剣を抜け」
「御免こうむる。ゴリラ相手に力で勝負をする気はない」
「腰抜けめ」
セザールは床に唾を吐いた。
「それよりも、早くしないとサファイア姫とダイヤ王子が国外に脱出するぞ」
「国境は兵士たちに固めさせてある。それに、あんな子供たちが逃げたところで大した問題ではない」
「子供はいつまでも子供ではないさ」
「1万人にも足らぬ軍勢に首都を奪われるような腰抜け国の王子や姫に何ができる」
「俺は、その虎の頭をした男が気になるな。もしかしたら、その男が追跡隊20人を殺したのかもしれんぞ」
「馬鹿な! いかに豪勇無双な人間でも一人で20人が倒せるものか」
「一人でではないだろうが、もしもサントネージュ王妃から遺児を託された人間なら、相当の勇士だろう。会ってみたいものだな」
「そのうち、首だけになったそいつと対面させてやるさ。おい、いつまでそこにいる。さっさとその虎頭の男と一緒だという大人の女、女の子、男の子の4人連れをとっつかまえて来い。キダムの村から東の方面だ。抵抗するなら大人は殺してかまわん」
怒鳴りつけられて捜索隊隊長は飛び上がり、一礼して出て行った。
部下からの報告を受ける用が済んだので、セザールも謁見室となっているこの部屋から出て行った。おそらく食堂に酒を飲みに行ったのだろう。自分の居室で飲むよりも台所や食堂で飲むのが手っ取り早いというわけだ。
グレゴリオは窓辺にまだ立っていた。
「グレゴリオ様……」
声をかけられて振り向くと、予期した顔がそこにあった。
「何だ。ナルシス卿」
「もしも捜索隊が首尾よくサファイア姫を捕まえることができましたら、サファイア姫を私にいただきたいのですが」
「もらってどうする」
「妻にいたします」
「まだ十歳だと聞いているぞ」
「もちろん、結婚はまだ先のことですが」
「先物買いか。将来それほどの美人になる見込みがあるわけかな」
「はあ。まあ、そういうわけで」
「お前が国を裏切って、アメジスト国王暗殺の手引きをしたと知ったら、サファイア姫はお前をどう思うかな」
「それも一興でしょう。愛し合うばかりが夫婦ではないでしょうから」
「そういう退廃的な趣味は俺には分らん。まあ、サファイアをどうするかは、俺ではなく、あのゴリラの一存だろう。幸い、あのゴリラはデブの女が好きで、子供には興味はない」
「では、よしなに」
ナルシス卿と呼ばれた男は一礼して去った。
グレゴリオはこれまでサファイア姫には何の関心もなかったが、今の会話で少し興味が湧いてきたようである。
第三章 殺戮
「このおじちゃん、裸だ」
ダイヤは、いや、今はダンという名になっているが、まだ8歳の子供らしく、相手の頭が虎であることよりも、相手がまっぱだかであることにまず興味が向いたらしく、そう言った。
ソフィ、つまりサファイヤは、顔を赤くして横を向いた。さすがに大人の男の裸を正視する勇気は無いし、品高い育ちの彼女にはそういうはしたなさも無い。
「うう……」
頭が虎の男はそう唸った。
「お願いです。どうか静かにしてください。ダン、ソフィ、あなたたちも声を立ててはいけません」
しかし、森や林の無い野原の街道を行く三人連れの姿は、獲物を追う追手たちの視界にすでに入っていた。
騎馬軍勢は馬の足音の地響きを立てながら街道から駆け降り、奇妙な遭遇をした4人の所に殺到し、その前に馬を止めた。その数は20名前後だろうか。
「サントネージュ国王女のサファイアとダイヤ王子だな。もはや逃れるところは無いぞ。大人しく捕まるがよい。そうすれば、死罪にだけはならずに済むだろう」
盤広で髭面の、下品な赤ら顔をした隊長らしい男が唇をゆがめるような笑いを浮かべて言った。言いながら、相手の二人の女(一人はまだ子供だが)を値踏みするような好色な目で見ている。(ほほう、これは上物だ)と言う無言の声がその表情に出ている。
「誰が大人しくつかまるものか」
フォックスは剣を抜いた。
「愚かな。こちらは20人もの軍勢だぞ。お前一人で何ができる。それともそこの妙な虎の仮面をつけた裸の男が加勢をするとでもいうのか。その男は剣さえも持っていないではないか」
「私一人でも十分だ。かなわぬまでも、お前たちのうち何人かは地獄の道連れにしてやる。さあ、かかってこい!」
フォックスは剣を構えようとした。その瞬間、あっと言う間にその剣が手からすべり抜けていた。
「何をする!」
彼女の手から剣を奪ったのは虎頭の男だった。
「お前はユラリア国の廻し物だったのか!」
虎頭は彼女の前を通って敵勢に向かって進み出たが、その時に彼女を振り返って見た。
虎が笑うということがあるなら、その顔は確かに笑い顔だった。
(虎が笑うところを初めて見た)フォックスは変に呑気な気分でそう考えた。
太陽はいっそう斜めに傾いて、影が深くなっている。
その夕方の光の中で全裸の大男が剣を持って立っている姿は異様なものだったが、しかもその頭が虎の頭であるのだから、世にこれほど奇妙な見物はない。
その大男のたくましい裸体は、油を注いだように夕日に輝いて、まるで古代の神々の姿のようだが、その頭は虎そのものである。そして、それがまた神話的な壮麗さを彼の姿に与えていた。
男はゆったりと剣を下げて、何の闘気も見せずにのっそりと立っているだけだが、敵の兵士たちはその姿に威圧されていた。
(美しい)
フォックスは、思わずその姿に見とれていた。
ソフィとダンは互いの手を握って抱きあい、固唾を呑んで、成り行きを見守った。
相手が抵抗する気だと見て取って、追手たちは馬から下りて剣を抜いた。少なくとも、体格だけで言えば、この虎頭の男は容易ならぬ力がありそうだ。
20人の人数を前にしても、この虎頭の男には何の恐怖も無いようだった。まあ、虎の顔では恐怖の表わしようもないだろうが、少なくとも、その動きは落ち着き払ったものだった。
「ええーいっ!」
敵勢の一人が気合を掛けながら斬ってかかった。その剣先を無造作にかわして、虎頭男の剣がひらめいた。兵士の頭が斬り飛ばされて宙に舞う。
続いて攻めかかった兵士も同様に頭を斬り飛ばされる。そして三人目も。頭を斬り飛ばすことにこだわるのは、相手兵士たちの鎧で剣を痛めないためだろうか。それにしても、一瞬のうちに頭だけを狙い、それを成功させるのは容易ではないだろう。
追手の軍勢は、相手の恐るべき剣の技量に恐怖心を感じ始めていた。
「ええい、同時にかかれ!」
隊長の下知に従って、兵士たちの中の3名が頷いてタイミングを計り、同時に斬りかかる。しかし、その一番右側の兵士の横を駆け抜けながら、虎頭男の剣はその兵士の頭を斬り飛ばし、次の瞬間には残る二人も、一人は胴を水平に斬られ、もう一人は肩から袈裟掛けに斬り下ろされて地面に倒れた。
「次、行け!」
次の3人も同じようなものであった。
これほど巨大な体格をしていながら、その動きはまさに虎のように柔軟で、虎のように速かった。速さのレベルが三段階ほど違うのである。これだけの人数を倒しながら、息一つ切らしてもいない。
「ええい、弓だ、弓で射ろ!」
兵士たちの背後に控えていた数名が弓を構えて引き絞ろうとした。
その瞬間、風が巻き起こった。いや、虎頭男が疾風のように兵士の群れに向って殺到したのである。
大殺戮であった。しかも、その殺戮はほぼ一瞬であった。見ていたフォックスの目には、ただ黒い嵐のような物が兵士たちの間を吹きぬけたように見えた。
数秒後、地上には20個の死体が転がっていた。
夕日の中に血刀を下げて静かに立つ虎頭の全裸の男の姿は恐ろしく、また、奇妙な美しさがあった。フォックスは恍惚となってこの殺戮の後の静謐な絵図を眺めていた。
第四章 旅の道連れ
「有難うございました。あなたがいなかったら、我々はきっと捕らえられていたでしょう」
そう礼を言いながら、フォックスは目のやり場に困っていた。相手の股間にどうしても目が行ってしまうのである。
「うう…」
虎頭男は、言葉を絞り出そうとしているようだ。
唖なのだろうか、とフォックスは考えた。
「どうも有難うございました」
思いがけずソフィがそう言ったので、フォックスは驚いた。この王女と身近に話すようになったのは二日前からだが、こういう高貴なお方たちは他人の奉仕に礼など言わないものだという思い込みが彼女にはあったからである。
「有難う。おじちゃん」
ダンも姉を見習って言った。
「その頭、お面?」
子供らしい遠慮無さでダンがそう聞く。
「うう……」
「お面なら、外せばいいのに。不便でしょう?」
男は悲しげに首を横に振った。
「外せないの?」
今度は頷く。
「そう、可哀そうだね。でも、すごくカッコいいよ、その頭」
ダンの言葉に、男の虎の顔にまた笑顔のようなかすかな表情が浮かんだ。
「とにかく、今はここをできるだけ早く離れましょう。次の追手が来るかもしれませんから」
男はあたりに転がった兵士の死体の間を歩いて、その一つの服を脱がし、それを着た。中に大柄な兵士がいたらしく、それが着られたようだ。フォックスに「借りた」剣を返し、地面に転がっている剣の一つを拾い、剣帯についた鞘に抜き身を差し込む。
「あっ、そうだ」
フォックスは、死体の懐を探し、財布を集めた。
「近衛隊隊員のフォックスが泥棒をするほど落ちぶれたと笑われそうだけど、今は変にプライドを持っていられる場合じゃないわ」
一番大きい財布に、かき集めた金を全部まとめて入れる。
「あなたも私たちと一緒に来たらどうかしら。ここにいると、さすがに他の兵士たちに追われることになると思うから」
虎頭の男は小首を傾げて少し考えたが、うなずいた。
「わあい、虎頭のおじちゃんも一緒だ。嬉しいな。こんな強い騎士は王宮にもいなかったよ」
「でも、いいんでしょうか。私たちは追われる身だし、かえってこの方にはご迷惑では?」
「さあ、それは本人の判断だけど、私たちにとっては、この人が一緒なら、こんなに心強いことは無いわね。少なくとも、私の知っているどの騎士にも、これほどの強さを持った人はいなかったことは確かね」
「ご一緒してもらえれば、こんなに嬉しいことは無いんですが」
ソフィの言葉に、虎頭の男は軽く頷いた。その顔は、なぜか笑顔に見える。
フォックスは虎頭の男に手伝ってもらい、兵士たちの死体を川に投げ込んだ。少なくとも、陸上にあるよりは発見に時間がかかるだろう。このあたりがフォックスのフォックスたる所以である。
追手の兵士たちの乗っていた馬が何匹か、近くで草を食んでいたので、それを捕まえて乗ることにする。
日はほとんど地平線に沈みかかっていた。
持っていた水筒代わりの革袋に小川から水を汲み、所持していたパンとチーズを食べると、4人は日の暮れた街道を馬に乗って出発した。馬は二頭で、虎頭の男の前にダンが乗り、フォックスの前にはソフィが乗る。馬を並べて歩ませる。
「ねえ、おじちゃんの名前は何と言うの?」
「うう……」
「だめよ、ダイヤ、いえ、ダン、おじちゃんはお口が不自由なの」
「うう……グ、グエン、……」
「あら? 今、グエンって言った? 言葉は話せるようね。少し口は回らないようだけど、唖というわけではないみたいね。では、あなたの名前はグエンということでいいかしら」
フォックスの言葉に虎頭男は頷いた。どこからそのグエンという名前が心に現れたのか、いぶかしみながら。
「疲れたア……ぼく、もうお尻が痛くて乗っていられないよ」
やがてダンが音を上げた。
「だめよ、ダン、もう少し頑張りなさい。できるだけ遠くまで行かないと」
「いえ、ソフィ、私の考えでは、このグエンがいる限り、多少の追手がまた現われても大丈夫だという気がします。今、頑張りすぎると、これからの旅がつらくなりますから、今夜はこの近くで泊まりましょう」
ちょうど、数百マートル先に宿場町の明かりらしいものがあるのを見つけ、フォックスは言った。
「あ、グエンさん、私の名前はフローラということにしておいてください。ソフィとダンもそう呼ぶのよ」
「フローラだって。変なの。まるで女の子の名前みたいだ」
「私は女ですよ。これでも子供の頃は可愛い娘だと言われていたんですから」
「嘘だい。こんなに真っ黒に日焼けしているくせに」
「うるさいわね。私はあなたのお姉さん、ということになっているのだから、うるさく言うとお尻をぶちますよ」
「ダン、言うことを聞くの」
「はあい」
「タイガー、タイガー」創作メモ
Ⅰ 地理その他(第一案)
[地勢・社会]
サントネージュ:モデルはフランス。農業国。首都オパール。
タイラス:モデルはスペイン。物産に乏しい。海洋国。策謀家が多い。首都ランザロート。
トゥーラン:モデルはポルトガル。海洋国。農業も豊か。首都ランザネグロ。
ユラリア:モデルは昔の北欧。バイキング的性格。首都ノルデン。
[物語・人物・その他]
1 アベンチュラを主人公にするのは中止。少なくとも、物語前半では出さない。その代わり、美剣士クレセントを出す。「不乱剣朱太郎」における黒百合の役割。出す時期は未定。アベンチュラは戦争状況で主人公たちの同盟者として登場。
2 戦国状況を作り出す。
3 タイラスでの騒動を考えること。:いわば、「グイン・サーガ」におけるケイロニアの騒動である。しかし、国王を救うか、国王と敵対するか。前者の場合は、国王の造形をやり直す必要がある。もう少し、前に遡って書き換えるか。
① タイラス宮廷の主要人物を作ること。
宰相ケアンゴーム(ある意味、平凡な悪の欲望を持った人間だが、それなりの人間的魅力もある人物。)
ラモス大公:王弟で王座に野心を持つ男。33歳。ユラリアと通じている。
モーハン侯爵:ラモスの腹心。52歳。
ランケ子爵:ラモスの懐刀で剣の達人。知恵もある。クレセントとは仇敵。
レヴィ公爵:国王の友人。財務大臣。老齢。トゥーランとの同盟を図っている。
レーム将軍(伯爵):国王派。男盛りの35歳。第二師団長。サントネージュに同情的。
ラシード将軍(公爵):国王派のふりをしているが、本当はラモス派。第一師団長。45歳。
ラガシュ公爵:ラモス派
モンバサ公爵:中立派
騎士ヤスリブ
騎士モハーチ
騎士メネス・フェルド:ケアンゴームの懐刀。暗殺者。
騎士メルブ
法王モンテ・コルヴィソ:腹黒い寝業師。
法王庁侍従モンケ・ハン:モンテ・コルヴィソの腹心。
神父モルガン:善良な宗教人。
騎士マテオ:自由な性格の豪傑。
召使マンスール
商人マリニョーリ
商人マールワール
魔法使いマグリブ
美女リディア
美女アルヴィラ
美剣士クレセント:流浪の剣士で詩人。音楽家。レイピアの達人。
(トゥーラン宮廷)
少年ホージャ
貴公子アル・パスパ:国王の次男:23歳。アル・トーメンの異母弟。
アドワ
アトン
アトレ
アーヘン
アモン
アルコン
アル・ラージ(国王):52歳
アル・トーメン(皇太子):24歳
アル・ムシフ(教祖)
アル・ベンチュラ(=アベンチュラ):アル・ラージの私生児で放浪の騎士:27歳
② サントネージュ復興の義勇軍の話。
③ グエンの虎頭の解明:
A案:この世界はブラーマ神によって創造され、それがヴィシュヌ神とシヴァ神に渡された。ヴィシュヌは生と再生の神、シヴァは死と破壊と創造の神である。ブラーマ神の思念から生み出された「失敗作」、これまでのジャンルに入らない存在がグエンであった。しかし、ブラーマは彼に宇宙の破壊と再創造を行う可能性を与えていた。
B案:宇宙的実験室において生命体の創造を行っていた錬金術師マグ・ワンの手で、虎を父親、人間を母親として生み出されたのがグエンである。彼は秘密のうちに孤独に育てられ、20歳になった時に記憶を奪われてこの世界に投げ込まれた。
C案:サントネージュ王家の古い分家モンブラン家の息子であるグエンは、魔女マギ・ド・スエルの呪いにより頭を虎に変えられ、記憶を失わされて野原に放置された。(記憶喪失は催眠術によるため、キーワードの組み合わせで回復する。)
④ C案採用によって、魔法の世界を導入:ついでに幽霊も導入
可能な魔法は、基本的には「意思の力を物体に及ぼして物理的に変容させる」というもの。
・身体変容 ・記憶操作 ・幻覚 ・幻聴 ・超常的感覚 ・場所の記憶による過去の再現 ・幽霊の操作 ・催眠術 ・薬物の使用による感覚増強
⑤ タイラス宮廷のゴタゴタ
*「グイン・サーガ」におけるケイロニアのゴタゴタは、まず「お家騒動」で、王弟と后妃の不義、国王の暗殺未遂事件があり、それと並行してシルヴィアという跳ねっ返り王女のマリウス恋慕という危ない行動がある。つまり「色と欲」である。宮廷におけるゴタゴタは、それに他国との関係がからむかからまないかくらいだ。
中世の風俗を織り込みながら事件を描くこと。
すなわち「宴会」「歌舞」「槍試合」「狩猟」「教会への参詣」「法事」「王宮でのセレモニー」「徴税」「日常の飲食」「結婚式」「葬式」「病気の治療」「祈祷やまじない」などである。
⑥ まず、グエンたちがタイラスでどのようにして王宮まで行くか。また、どのようにして王宮に入るかを考えること。
・旅芝居の一座として旅をする。
⑦ グエンと山賊の話
・その前に、タイラス宮廷のドタバタを描くか?
「タイガー! タイガー!」 *『グイン・サーガ』の主題による変奏。
初めに
この小説は、栗本薫の大作『グイン・サーガ』のファンではあるが、その冗長な部分やセンチメンタルな部分、あるいは作者の一部の作中人物への偏愛ぶりにはいささか批判的な筆者が、『グイン・サーガ』の発想と一部のコンセプトを利用して作った作品である。一部の作中人物の変更には悪意も少々あるが、それ以外にはべつに原作をからかうような意図はないからパロディではなく、ただの二次創作である。
作中のさまざまな部分で原作に負う部分は多いが、原作では重視されているSF的部分はほとんどカットされ、魔術もその内容を変えてある。また、「新しい世界の創造」という点も、『グイン・サーガ』で達成されているので、それも重視していない。ただ一つ、「未知の場所から来た、獣の頭を持った主人公」というコンセプトと、一部登場人物の類似性だけが、原作と重なる部分である。原作では一つ一つの物産の名称まで特有の名前を与えているが、筆者はそんな面倒なことはしない。蜜柑は蜜柑でいいし、リンゴはリンゴでいい。馬も牛も猫もネズミも同様だ。いちいちトルク(鼠)、ガーガー(鴉)などと書く必要性は私には無い。「新世界の創造神」になる野望は無いからだ。
作品の設定は、この地球の中世初期、まあ西暦900年頃と思ってもらいたい。ただし、実際の歴史とはまったく無関係の騎士物語系統の異世界ファンタジーである。したがって、地名も国名も架空のものである。人物名などは英語系統の名前やらフランス語系統の名前、スペイン語系統の名前などが入り混じって、かなりいい加減だが、度量衡は現実を連想させる名称にしてある。たとえば10ピロと言えば、距離の10キロメートル、重さの10キログラムである。もちろん、中世にはメートル法は存在しないが、現代の人間に想像しやすくするための便宜である。金の単位も架空のもので、黄金100グラムが1マニ、その100分の1が1ミニで、1マニが庶民の1週間くらいの生活費になると思えばよい。作者自身がその設定を忘れなければの話だが。
言葉については、いくつかの国が出てはくるが、すべて共通の言葉が用いられ、ただその訛りや語彙の一部で時には人物の素性が分かるという程度である。人種の区別も無い。せいぜいが、北方の民族は金髪が多く、南方の民族は黒髪が多いという程度である。
作中人物の名前もいい加減で、宝石名を使ったため、サファイア姫などと『リボンの騎士』みたいな名前も出てくる。だが、それは後からソフィという名になるので、気にしないように。
第一章 覚醒
目覚めた時は真昼だった。頭上に高く太陽が輝き、彼をじりじりと焼いている。喉が渇く。体中に汗がにじむのが分かる。
彼は眼をすぼめて、太陽の光から眼を守った。自分の体がなぜこの地面に横たわっているのかわからない。しかし、体に異常は無さそうだ。
彼はゆっくりと体を起こしてみた。どこにも痛みは無い。ただ、喉の渇きは耐えがたい。
彼の横たわっていたのは柔らかく短い草の生えた地面である。
なぜ自分はここに寝ていたのだろう、と考えて、次の瞬間、「自分は誰だ」という問いが突然に心に生じ、彼は恐慌に陥った。
まったく自分についての記憶が無い。だが、言葉そのものの記憶が無いわけではない。空、地面、草、そして風、日光などといった言葉は、彼があたりを見回すにつれて次々に心に生まれる。季節……今はおそらく春の終わりか初夏だろう。暑いが、真夏の暑さではない。
だが、それにしても喉が渇いた。
彼は水を探す決心をして立ち上がった。それで、自分の背が高いことが分かった。かつての自分についての記憶は無いのに、自分の身長が他の「人間」にくらべて高いというかすかな記憶が蘇ったのである。
彼は裸だった。下帯さえもはいていない。激しい羞恥心が心に生まれたが、あきらめて歩き出す。自分の足や体を上から眺めた限りでは、彼は相当にたくましい体格の男であるようだ。しかも、すべてが見事な筋肉に包まれて、どこにも無駄な肉はない。股間を見て、彼はまた羞恥心を感じた。
裸であることを恥ずかしいと思うような文化の中に自分はいたのだという考えが生じる。
少し傾斜した地面を下に下にと降りていくと、小さな木の茂みと小川のせせらぎがあった。
彼はほっと安心して、その川に身をかがめ、両手で水をすくって飲んだ。
何という美味さだろう。喉を下りて行く清涼な水の爽快感。たちまちに癒えて行く喉の渇き。体全体に回復してくる気力と生命感。
彼は木陰を渡るそよ風に体を吹かれながら、生き返ったような感動を味わっていた。
もう喉の渇きは止まっていたが、水の美味さをもう一度味わうために彼は両手で水をすくった。その時、心に何かの違和感が起こった。先ほど、水を飲んだ時、なぜあんなに飲みづらかったのか。両手にすくった水に顔を近づける。その時、彼の眼は、自分の眼の下に突起した物がその水を覆い隠したのに気づいた。
(何だ、これは)
それが自分の顔の一部であることに気づいたのは、次の瞬間である。
彼はすくった水を捨てて、自分の顔をまさぐった。毛に覆われた皮膚。突起した口蓋部。
(何だ、これは!)
彼の心は悲鳴をあげた。
(これは人間の顔ではない。犬? それともほかの何かか?)
彼はあわてて水の淀みを探し、静かな水面に自分の顔を映した。
そこにあるのは、人間の顔ではなく、虎の顔だった。
彼は今度は声に出して恐怖の叫びをあげた。
第二章 逃走
フォックスと彼女は呼ばれていた。ある国での狐を意味する言葉だ。その国でもこの国でも、狐は狡猾な生き物だということにされている。
しかし、彼女はその自分の仇名が嫌いではなかった。それは彼女の剣士としての才能への称賛でもあったからだ。試合で彼女に敗れた相手は、相手が女だから油断したと一様に言った。そう言わない剣士も、彼女の試合ぶりは狡猾であり、男らしく堂々とした戦いではないと言った。そう言われても、彼女は平気である。女である自分が体格も体重もまるで違う相手に勝つには、相手の予測を外して勝つしかない。それが狡猾というなら、日常の剣の修行など、戦場での役には立たないだろう。
フォックスは今、危機にあった。
彼女が仕えていた国の国王が暗殺され、王妃の命令でその娘と息子を、姻戚関係のある別の国に送り届けるという使命を受けたのである。
その娘、つまり王女は10歳、息子、つまり王子は8歳の足手まといな年ごろだ。
王宮に敵兵が押し寄せる直前にフォックスは王女サファイアと王子ダイヤを連れて王宮を脱出した。
王宮を離れて数時間後、夕焼けの空を背景にして王宮に火と煙が上るのが見えた。王妃が自刃し、王宮に火をつけたのである。フォックスはある丘の上から、涙を眼ににじませながらそれを見たが、すぐに踵を返して王女と王子の所に戻り、声をかけた。
「これからあなたたちの叔母であるタイラス国の王妃のもとへ向かいます。これからしばらくは、あなたたちは、サントネージュ国の王女王子であることを他人に知られてはいけません。サファイア様はソフィ、ダイヤ様はダンです。いいですか」
恐怖を押し殺しながら、二人の子供は気丈にうなずいた。
それが二日前のことだった。幼い子供連れだから、どんなに急いでもそう早くは歩けない。王宮からはやっと20ピロほども離れただろうか。
日もかなり斜めに傾いてきている。
ある野原まで来た時、背後から近づく騎馬軍勢の足音が聞こえた。
あたりには林や森は無い。
フォックスは絶望を感じながら、子供たちの手を引いて近くの小さな茂みへ飛び込んだ。
何か柔らかいものを踏みつけたような気がしたが、気に留めている場合ではない。
「うっ……」
うめき声がした。自分の踏みつけたものが人間の体であることにフォックスは気づいた。
「あっ、済みません」
と言いながら相手を見てフォックスは「きゃっ!」と悲鳴をあげた。自分もこんな女らしい悲鳴をあげることができるんだ、と頭の隅で考えながら、彼女は相手を見つめた。
それは、虎の頭をした大男だった。
むっくりと体を起こして、彼女を見ている。
その黄色い眼ははっきりと虎の眼であり、その頭が仮面などではないことが彼女には分った。
「どうか、騒がないでください。悪い連中に追われて、姿を隠したところなのです」
相手の異様な姿に怯えながらも、フォックスはそう言った。今は、この相手の正体よりも、恐るべき追手から逃れることを考えるべきだ。