で、このアニメが見ていて苦痛なのは、監督に幼女の可愛さの本質が分かっていないことがある。たとえば、エンディングでのミリのポーズや表情がことごとく可愛くない。それは、ミリにグラビア写真風のポーズを取らせているからである。そこには、幼女の無邪気さのかけらも無い。
まあ、最初から「スパイ×ファミリー」のパチモンとして作るという電通的企画だから、脚本の柿原優子も災難ではある。彼女は、かの名作「瀬戸の花嫁」の脚本家なのだから、抜群の才能であるのは間違いないのである。しかし、アニメは所詮「監督のもの」であるわけだ。
(以下引用)
2.リボルバーの装弾は非常に面倒で、実戦要求に符合しない
3.リボルバーの威力は小さすぎ、実戦の需要を満たせない
4.リボルバーの外形は自動拳銃のように携帯や使用が便利ではない
5.リボルバーのトリガープルは重く、発射時に正確な照準を狂わせやすい
6.リボルバーの重心はグリップと比較的遠く、射撃時に手に力が要り、射弾が低くなりやすい
7.リボルバーはシリンダーとバレルの間の隙間から火薬ガスが噴出する
8.発射音が小さく、威嚇効果が小さい
9.リボルバーの分解結合は不便である
10.リボルバーは外部に露出する部品が多すぎ、少しの適切でない操作がその性能に影響する可能性がある
11.リボルバーの撃発機構とシリンダーの間の機構動作は複雑であり、潜在的故障率は高い
12.リボルバーにはスライドストップに当たる機構がなく、射に対し適時に改めての装弾を促すことができない
14.リアサイトのノッチの幅が不適合であり、フロントサイトがはっきり見えず、夜間射撃ならなおさら照準は不可能である
15.チャンバーの抗堪力が自動拳銃に及ばず、チャンバー内圧力の急上昇は容易にチャンバーの破裂を引き起こす
16.リボルバーは遅発が起きた際にチャンバーの破裂が必然である
17.リボルバーのチャンバー内圧力は均等でなく、チャンバーの破裂はその潜在的危険である
18.蛇足である「セーフティー」は長所を喪失させる物笑いの種である
19.セーフティをかけた後にシリンダーが型通り回転し、使用者に「不発だ」との誤った判断をさせる
20.トリガーを途中まで引いたら変更できない。さもないと次が空撃ちになる危険がある
21.国産9mm警察用リボルバーの2種類の弾の内外弾道は異なり、ゴム弾は発射後にチャンバーに残渣を残す
22.ゴム弾の戦術技術指標は模糊としており、使用者は使いようがない
リコイルの衝撃を肘を曲げて吸収するクセがある奴はリボルバー向き
オートマチック使う理由がないとかスレが立てられるのかな
精密早撃ちandその状態での連射。実際競技種目になってる射撃法でもある
何言ってんだ?クィックドロウはシングルアクションのトリガー引きっぱなしでハンマー操作だけで連射かつ複数に当てる競技だ
早撃の世界記録もシングルアクションで行い、その速さはのび太より速くしかも抜き撃ちで行う
整備環境やパーツの補充環境が安定してるならオートの方がいいけどそうでないなら実地向きはリボルバー
ただそんなとこまで環境求められた上で尚且つ日々の護身レベルでオート使うかリボルバー使うかなんて誤差という事実
そこまで求められてるような環境の殆どはARやSMGのような大型火器が宛がわれるし拳銃メインなんて事は無いんだから
これどうやってんの
脇に携帯してるオートマチックが路上で突然の喧嘩おっぱじめたとき
オートマチックを構える間にリボルバーは必殺の間合いからの腰撃ちで終わる
これが現実
距離をとるならアサルトライフルやライフルになるわけだし
それは相手がオートマチックだからだ
早打ちガンマンとナイフ使いがお互いの間合いで戦ったら早打ちのほうが早い
だからこそ瞬時の判断を求められるような状況ではグロックが推奨される
抜いてから打つまでの動作は腰撃ちに絶対に勝てない
仮に何ももっていない手で構える動作の真似をしたところで
腰うちにはかなわないだろう
グリップセーフティとかトリガーセーフティのオートマチックで予め弾を装填しておくのと何が違うの?
反骨精神のまろびでる一匹狼がもつ銃はリボルバーで決まり
整備少なくて済むしどうせ一発しか撃てないしで威嚇が目的らしいし
ミリタリーなんて懐古主義じゃなければくそつまんねえ界隈だろうが
別の見方をすれば、現実の事件でも「誰でも犯人とされる可能性はある」ということだ。ある証拠が他の証拠より重要だとか確実だというのは捜査側の主観でしかない可能性は常にある。それが、膨大な冤罪事件が生じる所以だ。
まあ、その前からナンセンスな日常の芝居(たぶん、我々の隣人としての異星人、あるいは狂人と我々普通人の会話の齟齬による笑い)があったのが、最後の狂笑への布石のようなのだが、一切覚えていない。最後に異星人が正体を現すのだが、チャチな着ぐるみと、全身タイツと、ステテコ腹巻などの集団で、それが「タラランタン・タン・タン・タン・タン」のリズムの単調な曲(最初は昔のCM曲の「ウガチャカ・ウガウガ」でもいい)で一斉に原始人的な、あるいはゴリラのような仕草の踊りを始めると、音楽の高まりと共に観ている者が狂人になっていくという感じだ。
どこかの大学生演劇グループに作ってもらいたい芝居である。題は「さあ、キチガイになりなさい」でいいのではないか。もちろん、フレドリック・ブラウンの名作のタイトルの借用だ。観客を本当に狂人にするか、笑い死にさせることができればお手柄だ。
前半は精神病院で患者たちが普通人の世界を皮肉る芝居をやる、という話でもいい。コオロギ食とか、風刺の材料はいくらでもあるだろう。
孝謙上皇との出会い・権力の拡大
この年孝謙上皇は、平城宮の改修などの関係で近江国の「保良宮」と呼ばれる場所に滞在しておられましたが、病気に倒れてしまい、その際に「禅師」として入り込んだ道鏡によって非常に熱心な看病が行われたとされています。
看病のおかげかどうか、孝謙上皇の病気は治り、その「ご恩」に心打たれた孝謙上皇は、それ以降道鏡と様々な意味で関係性を深め、実質的な「寵愛」・「政治的重用」を受けるようになります。
「謎の僧侶」を特別扱いし始めたことに周囲は不信感を抱き、当時の淳仁天皇は事あるごとにそれに対する「箴言(注意)」を行いますが、孝謙上皇は指摘されるとむしろ逆上して怒りを爆発させたようで、続日本紀に「高野天皇、帝と隙あり」と明記されたように、淳仁天皇と孝謙上皇の関係性は一気に悪化していくことになりました。
なお、上皇は批判を受けるほどに一層道鏡へ入れ込むことになったのか、762年には淳仁天皇を差し置いて自らが国家的な決定を担うと主張し、淳仁天皇は祭祀などの儀式を行う形式的な存在でよいとするなど、次第にその「暴走」傾向が顕著になっていきました。
権力基盤の確立・称徳天皇と道鏡の時代
当時の実質的な政治のトップであり、独自の権力基盤を持っていた「藤原仲麻呂」が、道鏡と孝謙上皇の関係が深まることに懸念を感じ、自ら兵を率いてクーデターを起こすことを計画します。
クーデターにあたっては、当初は軍事力を有することから優勢かと思われた仲麻呂ですが、密告などにより孝謙上皇側に先手を打たれ、吉備真備などの官軍が征伐に派遣されたこともあり、本人を含む一族の大半が戦死する完全な失敗という結果に終わりました。
この仲麻呂の乱の終結後は、これまで政治権力を振るってきた仲麻呂陣営が処罰を受け流罪などになった人物も多く、元より上皇と仲が悪かった淳仁天皇も「仲麻呂側」の人物として淡路島に送られて謎の死を遂げるなど、孝謙上皇は自らの反逆者と思われる存在を次々に「消して」いきます。
結果として、孝謙上皇は実質的に再び即位(称徳天皇)する形でトップへと返り咲き、今まで以上に道鏡を寵愛することが出来る環境を手に入れる形にもなりました。
ざっくり言えば、当時の朝廷では政治面での「称徳天皇(孝謙上皇)」と仏教面での「道鏡」の二頭体制の構図が確立された。と言ってもよいでしょう。また、道教の弟である「弓削浄人」も朝廷で地位を上げるなど、「道鏡陣営」とも言える政治基盤も整えられていくことになりました。
なお、この時代には僧侶である道鏡が権力者として君臨し、様々な乱世を経験した称徳天皇も仏教に入れ込んだことから、鎮護国家を願って「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」を製作させたり、寺院の整備をより推進するなど、仏教色・仏教保護の色彩の強い政治が行われました。また、神社についても保護政策が展開されますが、仏を護る「護法善神」という形で「神仏習合」の形態を持つことが一層増えていきました。
「宇佐八幡宮神事件」による失脚
孝謙上皇(称徳天皇)からの寵愛によって時の権力者に上り詰めた道鏡ですが、その権力の失墜・失脚はあっけなく訪れます。
当時の構図としては、独身で皇子などもおらず、その上称徳天皇の意向で皇太子が決定されていない中、天皇が高齢になる中で次の天皇が誰になるのか。という宮中・朝廷の不安と疑念が渦巻く状況でした。
そんな中、769年(神護景雲3年)5月に道鏡の弟であり九州防衛のトップ「太宰帥」であった弓削浄人が、突如大分の宇佐八幡宮(当時は皇室からの信仰が非常に強い神社でした)の「ご神託」として、「道鏡を皇位につければ世の中は平和になる」というメッセージを平城京に送ったこと(一般には偽のご神託であるともされます)で、状況は一変します。
道鏡を寵愛して来た称徳天皇は、その「ご神託」を確認しようということで、和気清麻呂を派遣しますが、持ち帰った答えは「皇位継承は皇族の人間にすべし」といった内容であり、称徳天皇は激怒して清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という醜い名前を付けて流罪とします。
しかしながら、激怒した称徳天皇も結果としては無理に道鏡を皇位に就けようとはせずに、10月にはむやみに皇位を求めてはいけない・自らが後継者を決定するといった詔を発表して、状況を鎮静化しようとします。
天皇は、翌年770年(宝亀元年)に崩御し、どのような経緯で決定されたかは諸説ありますがその「遺言」として白壁王を光仁天皇として即位させることになり、道鏡が皇位に就くという流れは完全に排除されます。
唯一の後ろ盾と言っても良い称徳天皇を失った道鏡は、大きな処罰を受けることはなかったものの、現在の栃木県にあたる下野国の薬師寺別当に実質的な配流(流罪)となり、まもなく772年に亡くなりました。
道鏡の評価について
下世話なものも含む様々な「道鏡伝説」は、奈良時代からそのすべてが伝わっていたというよりは、どうやら後世になって様々な尾ひれがついて無限に拡大していった「人物像」である可能性が高いとも言えますが、「日本三大悪人」になぞらえる解釈や、道鏡を「奇怪な僧侶」としてロシアのラスプーチンになぞらえるインターネット上の解釈も複数見られるなど、現代に至るまで「悪いイメージ」がつきまとう存在であることは否定できません。
一方で、歴史的な解釈としては「本当に道鏡は悪人だったのか?」という疑問が呈されることも近年やや増えており、一部では再評価の兆しや、特に宇佐八幡宮事件などについては学問的に様々な解釈が見られることも確かです。
そもそも、経歴を追っていく中でも、道鏡が何かを自らで大規模に粛清したとか、特定の存在を極端に弾圧したとか、誰かと共謀してまれに見るような凶悪な働きを果たした。といったような歴史に残る「具体的な悪行」は特に伝わっていないことは紛れもない事実です。
そういった観点を考慮し、本記事では様々な「道鏡解説記事」にありがちなセンセーショナルなエピソードなどをなるべく退けて、一般的に伝わる氏の経歴のみを淡々と解説しています。