「読み速」コメントからの一部転載。
この「匿名」氏の意見は的を射ていると思う、問題は、いかにしてキャラを好きにさせるかである。私が「宇宙兄弟」の批判をしていたのも、結局は、主人公兄弟を嫌いだ、ということに尽きる。顔が嫌い、言動が嫌い、なのである。特に兄のムッタ。弟のヒビトは、「なぜそこまで周囲の人間に愛されるのか」が分からないので、そのひいきされぶりが嫌いである。まあ、髪型が嫌いというのが最初の嫌悪感だが。
この「匿名」氏の意見は的を射ていると思う、問題は、いかにしてキャラを好きにさせるかである。私が「宇宙兄弟」の批判をしていたのも、結局は、主人公兄弟を嫌いだ、ということに尽きる。顔が嫌い、言動が嫌い、なのである。特に兄のムッタ。弟のヒビトは、「なぜそこまで周囲の人間に愛されるのか」が分からないので、そのひいきされぶりが嫌いである。まあ、髪型が嫌いというのが最初の嫌悪感だが。
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俺もこれかな
悟空が突然スーパーサイヤ人に覚醒して全然歯が立たなかったフリーザと互角に渡り合えるようになったのも悟空が好きだったから素直に応援できたし
管理人さんが言う「主人公が演説して全国民が納得して自粛した」っていう展開も、主人公が大好きなら「おーすげー!」ってなるけど、主人公があまりいけ好かないやつだったらどんなに屁理屈をこねられても「でも、なんかなぁ……」って納得いかないと思う
論点ずらすようで悪いけど、結局その人物を好きになれるかどうかなのかなって
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森鴎外が坪内逍遥の「没理想論」を批判した文章の中に、創作物の中で否定されるべきものは理想ではなく「成心」だ、という趣旨の部分があるが、現代ではこの「成心」という概念はもはや知られていないと思う。要するに「当て込み」であるが、この「当て込み」も理解されないだろう。創作家が、読者に、意図的に何かの効果を及ぼそう(引き出そう)とすることである。たとえば「勧善懲悪」などが、その分かりやすい例だ。これが、創作物を下品にする。
私が「宇宙兄弟」を批判するのも、この作品がまさに当て込みで作られた作品の代表に思えるからである。電通的作品だ、感動ポルノだ、というのはそういうことだ。
どのような創作家でも当て込みがあるのは仕方がないのだが、問題はその度合いである。
まず、「何かを表現したい」という衝動があって、それを形にするのが創作の本道だろう。つまり、作者自身が、「こういうものを作りたい、描きたい」というのがあって、そこから、それを形にしていく作業が始まるわけだ。ところが、その時に、「こうしたら読者(作品の受容者)や編集者に受けるだろうなあ」という邪念があり、その意識が強いと、その作品は下品になる。これが「成心」であり、「当て込み」だ。
これも「宇宙兄弟」で言えば、ケンジの幼い娘が仕事に行くケンジに「かぺー」と声をかけ、それがどういう意味かムッタが悩む話があるが、この「かぺー」などが、まさに「作り物」という感じである。どこをどうしても、「頑張って」が「かぺー」になることは無いだろう。幼児には半濁音の発音自体が難しいはずで、「て」が「ぺ」になるのは不自然である。つまり、「これ、面白いでしょ」という作者の顔が見え透いて、気持ち悪いのである。これを「成心」「当て込み」と私は言っているのである。この種の事例はこの作品の中に無数にある。NASAの職員や宇宙飛行士の奇矯なキャラは、すべてその種の当て込みである。
ただし、その当て込みがしばしば成功し、ヒット作になるのである。これは馬琴の「八犬伝」がベストセラーになった事例が代表的だろう。で、馬琴自体は、「勧善懲悪」を素晴らしいことだと信じて書いたので、悪意は無い。読者もそれを喜んだ。しかし文学的な見地から見れば、それは作品の水準を下げる行為であったわけである。つまり、下品な作品になったのだ。いや、そういう意味では、「三国志演義」も「水滸伝」も「西遊記」も、すべて「当て込み」で書かれ、大成功した作品である。だが、それが書かれた土台には、作者が「こういう作品を書きたい。こういう作品が、自分にとっては面白い」という創作欲望が「当て込み」や「成心」より先にあったはずだ。(たとえば「オーバーロード」などがその代表だろう。作者が「こういうものが書きたい」という欲望が、その作品の「密度」と「作品世界の完全さ」を作ったわけだ。もちろん、作者の非人間的なほどの「ゲーム志向」は、しばしば不快な表現に至るわけで、受容者がその世界を好きになるかどうかは別物だ。私は、作者は「嫌な奴」だろうなとは思うが、作品の完成度の高さは認めるしかないと思う。)
この「当て込み」が批判されるのは、あくまで純文学的見地からの話だが、大衆文芸(漫画も含む)が、下品になるのもまた「当て込み」のためなのである。純粋に作者が書きたいと思って書いたのか、「読者に受けるため」に書いたのかは、やはり作品に出て来るわけだ。手塚治虫のような大作家でも、純粋に自分が書きたいと思って書いた「火の鳥」などと、他の作品の間にはやはり「品位の差」があるのである。
私が「宇宙兄弟」を批判するのも、この作品がまさに当て込みで作られた作品の代表に思えるからである。電通的作品だ、感動ポルノだ、というのはそういうことだ。
どのような創作家でも当て込みがあるのは仕方がないのだが、問題はその度合いである。
まず、「何かを表現したい」という衝動があって、それを形にするのが創作の本道だろう。つまり、作者自身が、「こういうものを作りたい、描きたい」というのがあって、そこから、それを形にしていく作業が始まるわけだ。ところが、その時に、「こうしたら読者(作品の受容者)や編集者に受けるだろうなあ」という邪念があり、その意識が強いと、その作品は下品になる。これが「成心」であり、「当て込み」だ。
これも「宇宙兄弟」で言えば、ケンジの幼い娘が仕事に行くケンジに「かぺー」と声をかけ、それがどういう意味かムッタが悩む話があるが、この「かぺー」などが、まさに「作り物」という感じである。どこをどうしても、「頑張って」が「かぺー」になることは無いだろう。幼児には半濁音の発音自体が難しいはずで、「て」が「ぺ」になるのは不自然である。つまり、「これ、面白いでしょ」という作者の顔が見え透いて、気持ち悪いのである。これを「成心」「当て込み」と私は言っているのである。この種の事例はこの作品の中に無数にある。NASAの職員や宇宙飛行士の奇矯なキャラは、すべてその種の当て込みである。
ただし、その当て込みがしばしば成功し、ヒット作になるのである。これは馬琴の「八犬伝」がベストセラーになった事例が代表的だろう。で、馬琴自体は、「勧善懲悪」を素晴らしいことだと信じて書いたので、悪意は無い。読者もそれを喜んだ。しかし文学的な見地から見れば、それは作品の水準を下げる行為であったわけである。つまり、下品な作品になったのだ。いや、そういう意味では、「三国志演義」も「水滸伝」も「西遊記」も、すべて「当て込み」で書かれ、大成功した作品である。だが、それが書かれた土台には、作者が「こういう作品を書きたい。こういう作品が、自分にとっては面白い」という創作欲望が「当て込み」や「成心」より先にあったはずだ。(たとえば「オーバーロード」などがその代表だろう。作者が「こういうものが書きたい」という欲望が、その作品の「密度」と「作品世界の完全さ」を作ったわけだ。もちろん、作者の非人間的なほどの「ゲーム志向」は、しばしば不快な表現に至るわけで、受容者がその世界を好きになるかどうかは別物だ。私は、作者は「嫌な奴」だろうなとは思うが、作品の完成度の高さは認めるしかないと思う。)
この「当て込み」が批判されるのは、あくまで純文学的見地からの話だが、大衆文芸(漫画も含む)が、下品になるのもまた「当て込み」のためなのである。純粋に作者が書きたいと思って書いたのか、「読者に受けるため」に書いたのかは、やはり作品に出て来るわけだ。手塚治虫のような大作家でも、純粋に自分が書きたいと思って書いた「火の鳥」などと、他の作品の間にはやはり「品位の差」があるのである。
別ブログに書いた「とある」シリーズの脚本分析だが、かなり的を射ていると私自身思うので、ここにも「脚本メモ」の項目に入れておく。
(以下自己引用)
(以下自己引用)
「とある」シリーズは、ある意味ではアニメ脚本の教材になる作品である。
1:話の大筋では視聴者の予想を裏切る。それは、一部の視聴者には「深い」という印象を与え、一部の視聴者には「深い」ではなく「不快」な印象を与える。そもそも予想を裏切るとは「期待外れ」ということであり、本来は不快なものなのだが、期待を外されることに慣れていない視聴者は、それを「深い」と思うわけである。
2:キャラを個性づけるために「無理やり」キャラ作りをする。たとえば、話す時の口調に変な語尾をつけたり土佐弁(坂本竜馬弁)を使わせる。また、「役名」を変な名前にする。また、奇矯な行動をさせる。等々。「魔法」の主人公の口癖は「(俺は)不幸だ~」だが、見ている者からすると、どこも不幸ではない。女にまといつかれることは不幸か? 学校の成績が悪いことや宿題に追われることは、そんなに不幸か? で、この口癖は、彼のオリジナルではない。かなり古くからあるものの模倣だろう。異能の(才能や運命に恵まれた)主人公を軽い不幸に遭わせることは「お約束」である。
3:女キャラは、ロリか巨乳である。
4:最初は「脇役」として登場したキャラに「暗い過去」を与え、それで話を作る。これも、一部の視聴者には「深い」と思わせる手法である。特に、最初は悪役として登場したキャラが、ある話では正義漢として活躍する「意外な面」を見せたりする。これも「深い」と錯覚させる。話を作る側は、新しく悪役を作るより楽である。で、本当ならこれは「キャラの性格の変質」という禁じ手だが、長編作品では「性格の深化」として許容されたりする。しかし、一部の視聴者は「おいおい」と思うはずである。キャラの性格が変わるなら、見ている間中、すべてのキャラをそういう目で見るしかなくなり、つまり「感情移入」が不可能になるのである。
5:主人公やその近辺の人物の無考えな行動により事件が悪化する。つまり、「起こらなくてもいい事件」が起こるが、事件が終わると、事件(事態悪化)の責任は不問にされる。
まあ、とりあえずこんなところである。
1:話の大筋では視聴者の予想を裏切る。それは、一部の視聴者には「深い」という印象を与え、一部の視聴者には「深い」ではなく「不快」な印象を与える。そもそも予想を裏切るとは「期待外れ」ということであり、本来は不快なものなのだが、期待を外されることに慣れていない視聴者は、それを「深い」と思うわけである。
2:キャラを個性づけるために「無理やり」キャラ作りをする。たとえば、話す時の口調に変な語尾をつけたり土佐弁(坂本竜馬弁)を使わせる。また、「役名」を変な名前にする。また、奇矯な行動をさせる。等々。「魔法」の主人公の口癖は「(俺は)不幸だ~」だが、見ている者からすると、どこも不幸ではない。女にまといつかれることは不幸か? 学校の成績が悪いことや宿題に追われることは、そんなに不幸か? で、この口癖は、彼のオリジナルではない。かなり古くからあるものの模倣だろう。異能の(才能や運命に恵まれた)主人公を軽い不幸に遭わせることは「お約束」である。
3:女キャラは、ロリか巨乳である。
4:最初は「脇役」として登場したキャラに「暗い過去」を与え、それで話を作る。これも、一部の視聴者には「深い」と思わせる手法である。特に、最初は悪役として登場したキャラが、ある話では正義漢として活躍する「意外な面」を見せたりする。これも「深い」と錯覚させる。話を作る側は、新しく悪役を作るより楽である。で、本当ならこれは「キャラの性格の変質」という禁じ手だが、長編作品では「性格の深化」として許容されたりする。しかし、一部の視聴者は「おいおい」と思うはずである。キャラの性格が変わるなら、見ている間中、すべてのキャラをそういう目で見るしかなくなり、つまり「感情移入」が不可能になるのである。
5:主人公やその近辺の人物の無考えな行動により事件が悪化する。つまり、「起こらなくてもいい事件」が起こるが、事件が終わると、事件(事態悪化)の責任は不問にされる。
まあ、とりあえずこんなところである。
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「とある」シリーズを、気が向いた時に見ているのだが、「魔術(魔法か?)」はともかく、「科学」の気持ち悪さは、作品の世界観(と言っても「学園都市」のコンセプトのことだが)そのものにあるか、と思う。つまり、作品全体の底流が、「能力者(つまり超能力者)」の優越感と、「無能力者(普通人)」の劣等感のせめぎ合いなのである。「魔法」のほうは、魔法対科学だから、一応は能力者同士の争いなので、「横の戦い」であって、そういう「上下の戦い」ではない。したがって、優越感と劣等感の気持ちの悪い戦いになっていない。
「科学」の場合、見る者(視聴者)は、「悪の側」となることが多い「無能力者(普通人)」の側だから、その無能力者がコテンパンにやられるのを見ていて気持ちがいいわけがない。私が、「スキルアウト」とかいう不良集団とジャッジメントの戦いで、この高慢なジャッジメントの小娘たちが囚われてレイプされてしまえ、と心の底で思ったのは、当然私も「無能力者」の側だからだ。はたして、放映時に視聴者はこの作品を見ていてそう思わなかったのだろうか。それとも、可愛い中学生だか高校生だかのキャラがあれこれするのを眺めるだけで鼻の下を伸ばしていたのだろうか。まあ、当然後者だろう。作品内で嘲笑されているのは「お前ら」なのだが。
なお、登場する女は基本的に少女であるという「ロリコンアニメ」だから、女性視聴者は見ていてあまり気持ちが良くなかったのではないか。自分が少女の頃にそういう目で見られていたと思うと、不快でたまらなかっただろうと思う。まあ、この作品の「少女」は単なる「記号としての少女」でしかないのだが。どこの世界に白井黒子のようなエロ親父少女がいるか。
「科学」の場合、見る者(視聴者)は、「悪の側」となることが多い「無能力者(普通人)」の側だから、その無能力者がコテンパンにやられるのを見ていて気持ちがいいわけがない。私が、「スキルアウト」とかいう不良集団とジャッジメントの戦いで、この高慢なジャッジメントの小娘たちが囚われてレイプされてしまえ、と心の底で思ったのは、当然私も「無能力者」の側だからだ。はたして、放映時に視聴者はこの作品を見ていてそう思わなかったのだろうか。それとも、可愛い中学生だか高校生だかのキャラがあれこれするのを眺めるだけで鼻の下を伸ばしていたのだろうか。まあ、当然後者だろう。作品内で嘲笑されているのは「お前ら」なのだが。
なお、登場する女は基本的に少女であるという「ロリコンアニメ」だから、女性視聴者は見ていてあまり気持ちが良くなかったのではないか。自分が少女の頃にそういう目で見られていたと思うと、不快でたまらなかっただろうと思う。まあ、この作品の「少女」は単なる「記号としての少女」でしかないのだが。どこの世界に白井黒子のようなエロ親父少女がいるか。
なるべく食わず嫌いをしないで新作アニメを見るようにしているのだが、「彼女が侯爵(公爵?)邸に行った理由」の最初の設定だけは面白い。作り方次第で秀作になりそうだが、脚本も監督もキャラ設定もダメダメである。話自体、異世界転生の面白さがほとんど無い。異世界転生物の中で、「小説世界への転生」というのはおそらく初めてではないか。ゲーム世界への転生は腐るほどあるが。
ただ、小説世界への、しかも脇役への転生というのは素晴らしいアイデアなのだが、問題は、主人公が知っている筋と、転生してからの話の筋を一致させると転生の意味がほとんど無い(主人公は記憶している筋の通りに行動するしかない)し、一致させないと、主人公の行動が小説の筋と矛盾だらけになる。これを解決するには、「信用できない語り手」という、上手い手段がある。つまり、主人公は、小説の語り手の思考(語った内容)を信じて行動するが、実はそれは語り手の主観でしかなく、転生世界の「現実」は、それより面白く有意義なものだった、ということを転生者(主人公)は最後のあたりで知る、というものだ。
ただ、小説世界への、しかも脇役への転生というのは素晴らしいアイデアなのだが、問題は、主人公が知っている筋と、転生してからの話の筋を一致させると転生の意味がほとんど無い(主人公は記憶している筋の通りに行動するしかない)し、一致させないと、主人公の行動が小説の筋と矛盾だらけになる。これを解決するには、「信用できない語り手」という、上手い手段がある。つまり、主人公は、小説の語り手の思考(語った内容)を信じて行動するが、実はそれは語り手の主観でしかなく、転生世界の「現実」は、それより面白く有意義なものだった、ということを転生者(主人公)は最後のあたりで知る、というものだ。
最近ずっと「宇宙兄弟」を見ているのだが、実はこのアニメが嫌いである。ただ、作劇術の研究として見ているだけだ。一時期、かなり一般受けした漫画のアニメ化であり、研究対象にはなる。
しかし、見ていて実に不愉快なのだが、その原因は、読者や視聴者を「舐めた」姿勢にあると思う。もちろん、実に丁寧に作ってはあるのだが、基本姿勢が「お前ら、こういうのに簡単に騙されるんだろwww」という感じなのである。
簡単に言えば、「イージーなサスペンス(宙づり、引っ張り)」の多用だ。どうでもいい事柄を、結果を見せるまで長々と引っ張る。たとえば、ムッタが三次試験に合格するかどうかを示す前に、ケンジのところに電話がかかる場面を見せ、その後、その電話の内容(もちろん、合否結果を伝えること)を見せる前にケンジの現在の職場の退屈さを示す場面(つまり、お前ら、「夢をあきらめた連中」の人生はこんなものだろ)を長々と見せ、さらに、ケンジと奥さんの出会いと結婚までの人生を長々と見せる。もう馬鹿馬鹿しくて見ていられないが、こういう描写を「深い」とか「人生をよく知っている」と思う視聴者や読者が多いのだろう。そして、こういうチャチなサスペンスにドキドキして次回や話の次の段階を待つわけである。もう、アホ臭くて見続けるのにかなり忍耐が要るので、そろそろ視聴をやめるかもしれない。
誤解されないように言っておくが、三次試験の合否は「どうでもいい事柄」ではない。しかし、それだけでなく、この作品は、話が少し進むたびに、ムッタとヒビトの少年時代の出来事などがしつこく出てくるし、新しい人物が出て来るたびにその人物に関するエピソードが語られるのである。これならいくらでも話を長引かせることができる。私はほとんど読んだことがないが、「ワンピース」などもその手法なのではないか。
ついでに言えば、「宇宙兄弟」でのギャグの寒さも私には耐えがたい。
なお、どうでもいいことをしつこく何度も描く(その度に、メインテーマ曲が流れる)ことで、それが重大な、あるいは感動的なことなのだ、と視聴者に思い込ませるという点では、これは「感動ポルノ」の見本である。で、描かれていることを批判的に見たら、感動的でも何でもない。ただの失策や愚行をリカバリーする、あるいは過去の出来事を感動的な出来事だったかのように登場キャラたちが語り合い、演じるだけなのである。
ただ、主人公のムッタを始め、登場人物たちの喜劇的部分を描くことが多いために、基本が感動ポルノであるということが見えにくいわけだ。
しかし、見ていて実に不愉快なのだが、その原因は、読者や視聴者を「舐めた」姿勢にあると思う。もちろん、実に丁寧に作ってはあるのだが、基本姿勢が「お前ら、こういうのに簡単に騙されるんだろwww」という感じなのである。
簡単に言えば、「イージーなサスペンス(宙づり、引っ張り)」の多用だ。どうでもいい事柄を、結果を見せるまで長々と引っ張る。たとえば、ムッタが三次試験に合格するかどうかを示す前に、ケンジのところに電話がかかる場面を見せ、その後、その電話の内容(もちろん、合否結果を伝えること)を見せる前にケンジの現在の職場の退屈さを示す場面(つまり、お前ら、「夢をあきらめた連中」の人生はこんなものだろ)を長々と見せ、さらに、ケンジと奥さんの出会いと結婚までの人生を長々と見せる。もう馬鹿馬鹿しくて見ていられないが、こういう描写を「深い」とか「人生をよく知っている」と思う視聴者や読者が多いのだろう。そして、こういうチャチなサスペンスにドキドキして次回や話の次の段階を待つわけである。もう、アホ臭くて見続けるのにかなり忍耐が要るので、そろそろ視聴をやめるかもしれない。
誤解されないように言っておくが、三次試験の合否は「どうでもいい事柄」ではない。しかし、それだけでなく、この作品は、話が少し進むたびに、ムッタとヒビトの少年時代の出来事などがしつこく出てくるし、新しい人物が出て来るたびにその人物に関するエピソードが語られるのである。これならいくらでも話を長引かせることができる。私はほとんど読んだことがないが、「ワンピース」などもその手法なのではないか。
ついでに言えば、「宇宙兄弟」でのギャグの寒さも私には耐えがたい。
なお、どうでもいいことをしつこく何度も描く(その度に、メインテーマ曲が流れる)ことで、それが重大な、あるいは感動的なことなのだ、と視聴者に思い込ませるという点では、これは「感動ポルノ」の見本である。で、描かれていることを批判的に見たら、感動的でも何でもない。ただの失策や愚行をリカバリーする、あるいは過去の出来事を感動的な出来事だったかのように登場キャラたちが語り合い、演じるだけなのである。
ただ、主人公のムッタを始め、登場人物たちの喜劇的部分を描くことが多いために、基本が感動ポルノであるということが見えにくいわけだ。
プロフィール
HN:
冬山想南
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非公開
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ぶっちゃけご都合展開許せるかどうかってリアリティどうこうより作中のキャラにどれだけ好感を持てて応援したくなるかだと思う
多少のご都合展開はあってもいいから幸せになって欲しい、努力が報われて欲しい、生き残って欲しいとか色々あるけどそういった気持ちがあるからこそご都合展開が受け入れられるんじゃないだろうか
逆に言えばキャラを好きになれなければどれだけリアリティのある展開があろうと気に入らないし、重箱の隅をつついて批判したくなってしまう