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道鏡については、その人間性を語るエピソードがほとんど無いので、関係した事件でしか判断できない。宇佐八幡宮神託事件は、弟の暴走だった可能性もあるのではないか。また、称徳(孝謙)天皇との性関係は、両者とも年齢的に無理だろう。



孝謙上皇との出会い・権力の拡大

道鏡が孝謙上皇との関係を持つようになったのは、761年(天平宝字5年)既に道鏡は60歳・還暦を迎える頃であり、当時としてはかなりの高齢者と言っても差し支えない年齢でした。

この年孝謙上皇は、平城宮の改修などの関係で近江国の「保良宮」と呼ばれる場所に滞在しておられましたが、病気に倒れてしまい、その際に「禅師」として入り込んだ道鏡によって非常に熱心な看病が行われたとされています。

看病のおかげかどうか、孝謙上皇の病気は治り、その「ご恩」に心打たれた孝謙上皇は、それ以降道鏡と様々な意味で関係性を深め、実質的な「寵愛」・「政治的重用」を受けるようになります。

「謎の僧侶」を特別扱いし始めたことに周囲は不信感を抱き、当時の淳仁天皇は事あるごとにそれに対する「箴言(注意)」を行いますが、孝謙上皇は指摘されるとむしろ逆上して怒りを爆発させたようで、続日本紀に「高野天皇、帝と隙あり」と明記されたように、淳仁天皇と孝謙上皇の関係性は一気に悪化していくことになりました。

なお、上皇は批判を受けるほどに一層道鏡へ入れ込むことになったのか、762年には淳仁天皇を差し置いて自らが国家的な決定を担うと主張し、淳仁天皇は祭祀などの儀式を行う形式的な存在でよいとするなど、次第にその「暴走」傾向が顕著になっていきました。

権力基盤の確立・称徳天皇と道鏡の時代

763年(天平宝字7年)には少僧都に任命されるなど、上皇の寵愛の下で少しづつ地位を固めていった道鏡ですが、権力を握る上での大きなターニングポイントとなったのは「藤原仲麻呂の乱」でした。

当時の実質的な政治のトップであり、独自の権力基盤を持っていた「藤原仲麻呂」が、道鏡と孝謙上皇の関係が深まることに懸念を感じ、自ら兵を率いてクーデターを起こすことを計画します。

クーデターにあたっては、当初は軍事力を有することから優勢かと思われた仲麻呂ですが、密告などにより孝謙上皇側に先手を打たれ、吉備真備などの官軍が征伐に派遣されたこともあり、本人を含む一族の大半が戦死する完全な失敗という結果に終わりました。

この仲麻呂の乱の終結後は、これまで政治権力を振るってきた仲麻呂陣営が処罰を受け流罪などになった人物も多く、元より上皇と仲が悪かった淳仁天皇も「仲麻呂側」の人物として淡路島に送られて謎の死を遂げるなど、孝謙上皇は自らの反逆者と思われる存在を次々に「消して」いきます。

結果として、孝謙上皇は実質的に再び即位(称徳天皇)する形でトップへと返り咲き、今まで以上に道鏡を寵愛することが出来る環境を手に入れる形にもなりました。

道鏡は764年(天平宝字8年)には当時の太政大臣である藤原仲麻呂の戦死に伴い自らが「太政大臣禅師」に就任し、一般の僧侶出身としては異例の政治権力を持つことになりました。
また、翌765年には「法王」という独自の肩書きを称徳天皇より与えられ、当時の日本における「仏教界のトップ」としても君臨する形になりました。

ざっくり言えば、当時の朝廷では政治面での「称徳天皇(孝謙上皇)」と仏教面での「道鏡」の二頭体制の構図が確立された。と言ってもよいでしょう。また、道教の弟である「弓削浄人」も朝廷で地位を上げるなど、「道鏡陣営」とも言える政治基盤も整えられていくことになりました。

なお、この時代には僧侶である道鏡が権力者として君臨し、様々な乱世を経験した称徳天皇も仏教に入れ込んだことから、鎮護国家を願って「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」を製作させたり、寺院の整備をより推進するなど、仏教色・仏教保護の色彩の強い政治が行われました。また、神社についても保護政策が展開されますが、仏を護る「護法善神」という形で「神仏習合」の形態を持つことが一層増えていきました。

「宇佐八幡宮神事件」による失脚

孝謙上皇(称徳天皇)からの寵愛によって時の権力者に上り詰めた道鏡ですが、その権力の失墜・失脚はあっけなく訪れます。

当時の構図としては、独身で皇子などもおらず、その上称徳天皇の意向で皇太子が決定されていない中、天皇が高齢になる中で次の天皇が誰になるのか。という宮中・朝廷の不安と疑念が渦巻く状況でした。

そんな中、769年(神護景雲3年)5月に道鏡の弟であり九州防衛のトップ「太宰帥」であった弓削浄人が、突如大分の宇佐八幡宮(当時は皇室からの信仰が非常に強い神社でした)の「ご神託」として、「道鏡を皇位につければ世の中は平和になる」というメッセージを平城京に送ったこと(一般には偽のご神託であるともされます)で、状況は一変します。

道鏡を寵愛して来た称徳天皇は、その「ご神託」を確認しようということで、和気清麻呂を派遣しますが、持ち帰った答えは「皇位継承は皇族の人間にすべし」といった内容であり、称徳天皇は激怒して清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という醜い名前を付けて流罪とします。

しかしながら、激怒した称徳天皇も結果としては無理に道鏡を皇位に就けようとはせずに、10月にはむやみに皇位を求めてはいけない・自らが後継者を決定するといった詔を発表して、状況を鎮静化しようとします。

天皇は、翌年770年(宝亀元年)に崩御し、どのような経緯で決定されたかは諸説ありますがその「遺言」として白壁王を光仁天皇として即位させることになり、道鏡が皇位に就くという流れは完全に排除されます。

唯一の後ろ盾と言っても良い称徳天皇を失った道鏡は、大きな処罰を受けることはなかったものの、現在の栃木県にあたる下野国の薬師寺別当に実質的な配流(流罪)となり、まもなく772年に亡くなりました。

道鏡の評価について

道鏡という人物は、その経歴を見るとこれまで解説してきたような流れに沿うものですが、「ただの僧侶」が突然上皇・天皇の寵愛を受けて出世し権力を握るという謎めいた状況は、「ただならぬ」関係としてありとあらゆる「エピソード」を生みました。

下世話なものも含む様々な「道鏡伝説」は、奈良時代からそのすべてが伝わっていたというよりは、どうやら後世になって様々な尾ひれがついて無限に拡大していった「人物像」である可能性が高いとも言えますが、「日本三大悪人」になぞらえる解釈や、道鏡を「奇怪な僧侶」としてロシアのラスプーチンになぞらえるインターネット上の解釈も複数見られるなど、現代に至るまで「悪いイメージ」がつきまとう存在であることは否定できません。

一方で、歴史的な解釈としては「本当に道鏡は悪人だったのか?」という疑問が呈されることも近年やや増えており、一部では再評価の兆しや、特に宇佐八幡宮事件などについては学問的に様々な解釈が見られることも確かです。

道鏡を取り巻く環境には、多くの皇族や藤原氏の一族、また神社勢力や様々な仏教界の有力者など、ありとあらゆる利害関係者がいたことは想像に難くありません。そういった中では、実際に何が正確であったのかを解釈することは非常に困難です。

そもそも、経歴を追っていく中でも、道鏡が何かを自らで大規模に粛清したとか、特定の存在を極端に弾圧したとか、誰かと共謀してまれに見るような凶悪な働きを果たした。といったような歴史に残る「具体的な悪行」は特に伝わっていないことは紛れもない事実です。

そういった観点を考慮し、本記事では様々な「道鏡解説記事」にありがちなセンセーショナルなエピソードなどをなるべく退けて、一般的に伝わる氏の経歴のみを淡々と解説しています。

まとめ

道鏡は、700年頃に生まれ奈良時代の前半から僧侶としてキャリアを重ねた人物です。氏族としては弓を作る「弓削氏」ともされ、決して身分が高い出自とまでは言えません。

僧侶としては「義淵」の弟子として経験を積み、「良弁」の下でサンスクリット語を学ぶなど一定の教養を身に着け、あるタイミングからは朝廷に出入りして「治療」を行える「禅師」になりました。

禅師である道鏡は、761年に当時の孝謙上皇の看病を行ったことでその「寵愛」を受けるようになり、この後は極端なペースで出世の道を歩み、藤原仲麻呂の乱の後には「太政大臣禅師」として朝廷のトップに突如上り詰めます。また、「法王」として仏教界の頂点にも君臨するなど、再即位した称徳天皇と共に一時代を築き上げました。

しかし、769年には自らを天皇として即位させようとしたともされる「宇佐八幡宮神託事件」が発生し、翌年の称徳天皇の崩御によって完全に失脚し、最期を下野国の薬師寺別当として迎えました。

道鏡については、「悪人」であるという解釈、奇妙な・下世話なエピソードが広く伝わっており、一般的には余り良いイメージが持たれている訳ではありませんが、当時の権力関係の複雑さや、具体的に行った「悪事」が余り歴史に刻まれていないこと、また近年の様々な歴史的解釈の多様性などを考慮すると、その評価や人物像について断定的な事を述べるのは難しい存在でもあります。

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藤原仲麻呂の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代764年)に起きた叛乱。恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)ともいう。孝謙太上天皇道鏡と対立した太師(太政大臣藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件である。

背景[編集]

藤原仲麻呂は、叔母の光明皇后の信任を得て、大納言紫微令中衛大将に任じられるなど次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明子の権威を背景に事実上の最高権力者となった。天平勝宝9年(757年)3月、当時皇太子だった道祖王を廃位に追い込み、4月、ひそかに孝謙に勧めて、息子真従の未亡人粟田諸姉と結婚して仲麻呂の私邸に居住していた大炊王を皇太子に立てることに成功する。天平宝字2年(758年)8月、大炊王(淳仁天皇)が即位すると、大保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられる。天平宝字4年(760年)1月にはついに人臣として史上初の太師(太政大臣)にまで登りつめた。

押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植していったが、同年6月に光明子が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめる。さらに2年後には押勝と孝謙の間のパイプ役になっていた正室の藤原袁比良を失ったことも大きな打撃となった。同時期に孝謙太上天皇が自分の病気を祈禱によって癒した道鏡を信任しはじめたことで、押勝は、淳仁を通じて孝謙に道鏡への寵愛を諫めさせたが、これがかえって孝謙を激怒させた。天平宝字6年(762年)6月、孝謙は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。孝謙の道鏡への信任はしだいに深まり、逆に淳仁と押勝を抑圧するようになった。天平宝字7年(763年)9月には道鏡を少僧都に任じている。

天平宝字8年(764年)6月、授刀衛の責任者である授刀督を兼ねていた仲麻呂の娘婿藤原御楯が急死する。授刀衛は元々皇太子時代の孝謙上皇の護衛を司ってきた部隊であり、御楯の死によって上皇側が影響力を回復して掌握されていくことになり、その後の乱でも上皇軍の主力部隊として活躍することになる。

反乱計画[編集]

焦燥を深めた押勝は軍事力により孝謙と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、押勝は600人の兵を動員することを決めると、大外記高丘比良麻呂に命令の発令を指示した。押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。このとき押勝は太政官印の確保に成功している[1]。9月5日には[2]、仲麻呂は船親王と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。また池田親王はすでに夏頃より兵馬を集結していた。両親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。

ただし、木本好信は孝謙側も授刀衛を掌握して権力掌握の動きを見せたために仲麻呂は「自衛」のために兵の確保を目指した可能性があるとした上で、元々日常の小事の決裁に関しては天皇の内印を求めず太政官印で処理しても良いことになっていた(『続日本紀』養老四年五月癸酉条)ことから、仲麻呂本人には元々反乱や権力奪取を計画する意図はなく、「自衛」のための小規模な兵士の増員も小事の範疇である考えて命令したものが、命令の発令前に公文書の審査を行う立場の比良麻呂はそれを小事の範疇とは考えなかったのではないか、としている[3]

高丘比良麻呂は後難を恐れて、孝謙に動員計画を密告した。平素押勝に信頼されていた陰陽師大津大浦も押勝の叛乱を知り、その旨を密告した[4]。また和気王からも反乱計画が伝えられた[5]

戦乱[編集]

坂上苅田麻呂が訓儒麻呂を射ようとする場面を描いた月岡芳年の作

9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙は少納言山村王を淳仁のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印(御璽駅鈴)を回収させた(一説には淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたという)。これを知った押勝は子息訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させて、鈴印を奪回した。孝謙はただちに授刀少尉坂上苅田麻呂授刀将曹牡鹿嶋足を派遣して、訓儒麻呂を射殺した[6]

押勝はこれに対抗して中衛将監矢田部老を送ったが、彼も授刀舎人紀船守に射殺された[7]

藤原仲麻呂の乱拡大

孝謙は勅して、押勝一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言した。さらに三関の固関を行わせている。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、宇治へ入ると、長年国司を務め、彼の地盤となっていた近江国国衙を目指した。仲麻呂は近江国庁を本拠に東山道北陸道の国々に兵士の動員をかけて反撃をする計画であったと考えられる。孝謙は当時造東大寺司長官であった吉備真備を召して従三位に叙して仲麻呂誅伐を命じ、ただちに追討軍を派兵させた。かつて朝廷の要職を歴任した真備だが、以降は権を握った仲麻呂のために久しく逆境にあった人物で、この年正月に70歳を迎えた老齢でありながら、在唐中に取得した軍学の知識を買われ任じられた。

仲麻呂の行動を予測した真備は、山背守日下部子麻呂衛門少尉佐伯伊多智の率いる官軍を先回りさせて勢多橋を焼いて、東山道への進路を塞いだ。仲麻呂はやむなく子息辛加知が国司になっている越前国に入り再起を図り、琵琶湖の西岸から越前へ北進する。淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は、自派の元皇族中納言氷上塩焼新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立し、自分の息子たちには親王位階である三品を与えた。また、奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。ここに、2つの朝廷が並立したことになる。孝謙側は、仲麻呂を討ち取った者に厚い恩賞を約束するとともに、北陸道諸国には、太政官印のある文書を信用しないように通達している。

官軍の佐伯伊多智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬ると、授刀舎人物部広成らに固めさせた愛発関(近江と越前の国境の関所)にて、仲麻呂軍の先発隊精兵数十人を撃退した。辛加知の死をまだ知らない仲麻呂は、舟で琵琶湖対岸に渡り、愛発関を避けての越前への入国を試みる。だが逆風での難破寸前に渡湖を断念。上陸した塩津から愛発関の突破を再度図る仲麻呂軍だったが、佐伯伊多智にまたしても阻まれて、退却する。

南下して三尾(近江国高島郡・現:滋賀県高島市)まで退いた仲麻呂軍は古城に籠もると、攻め立ててくる討伐軍に対し必死で応戦する。

9月18日、討賊将軍に任ぜられた備前守藤原蔵下麻呂が増援に加わった討伐軍によって、海陸から激しく攻められた仲麻呂軍は、ついに敗れた。湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとする仲麻呂は、軍士石村石楯に斬られ、その一家も皆殺しにされた。また氷上塩焼も同時に殺された。9月11日時点では仲麻呂の軍権と支配力は上皇を圧倒していたが、当初の揉み合いで訓儒麻呂・矢田部老らが不運に落命する。形勢も一変し、わずか1週間で窮死に追い込まれるという歴史的な転落劇となった。権力者の横死としては、嘉吉の乱本能寺の変のように即決の不意打ちとも、鎌倉幕府滅亡のように一定期間の攻防を経てのものとも異なる、唯一異例のものである。

乱後[編集]

仲麻呂の勢力は政界から一掃され、淳仁は廃位され淡路国に流された。代わって孝謙が重祚する(称徳天皇)。以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになった。




海を渡ってきた「鉄」の話

製鉄の先進国だった古代の中国
 世界で初めて鉄が作られたところはまだはっきり分かっていませんが、西アジアのヒッタイト(現在のトルコ周辺)とする見方が有力で、今からおよそ3800~4000年前のことになります。一方、中国で鉄が作られたのは、3400~3100年前ごろと言われ、日本でいえばまだ縄文時代の後期後半に当たります。中国においても、鉄の始まりは、宇宙から落下した隕鉄(鉄隕石)を利用したものでした。このころ、中国では、すでに鋳銅技術が開発され、金属器といえば青銅器が主流で、鉄はとても貴重なものだったのです。
 やがて、中国では、世界に先がけて銑鉄が作られるようになり、この銑鉄を鋳型に流し込んだ鋳造鉄器とよばれる鋳物の鉄製品(多くは鉄斧や鋤先などの農耕具)が作られるようになりました。ところが、この銑鉄は、鋳物を作るには便利ですが、鉄中に炭素を多く含むため、非常に硬い半面、衝撃には脆い性質があり、刃物などの利器には適さないのです。
 しかし、中国では、鉄中の炭素を減じる脱炭技術が開発され、粘りのある鉄、鋼が鋳造鉄器の刃部に利用されるようになりました。日本の弥生時代中期ごろになると、このような鉄で作られた鉄斧の破片などが北部九州を経由して日本に運ばれ、再利用されたのです。石の道具で山野を開拓していた弥生人は、鉄器のもつ切れ味の威力に驚いたことでしょう。ムラに持ち込まれた鉄製品は貴重品だったに違いありません。雲南市木次町の垣ノ内遺跡は弥生時代中期の集落遺跡ですが、ここから見つかった鋳造鉄斧片もこのようなものだったと考えられます。


 日本の製鉄はいつ始まった?
 日本では、弥生時代の前期ごろ、中国の製鉄技術は、朝鮮半島の北部に伝えられていました。そして、3世紀ごろには、朝鮮半島南部で生産された鉄が取引され、日本にも輸入されたのです。それは、日本の弥生時代後期後半から古墳時代初めに当たります。このコーナーで紹介した、平田遺跡出土の鉄素材がちょうどこのころの時期のものになります。
 わが国の鉄関連遺跡で最古級の遺跡に、福岡県の赤井手遺跡があります。弥生時代中期中ごろの遺跡ですが、この遺跡は製鉄を行った遺跡ではなく、鉄素材を加工して鉄器を製作した鍛冶遺跡でした。中国で、隕鉄から鉄が作られて、実に1000年以上後になります。今のところ、この時代の製鉄遺跡は確認されておらず、わが国では、銅鐸などの鋳造技術の後に鍛冶技術が伝わったと思われます。製鉄遺跡としては、島根県邑智郡の今佐屋山遺跡のように6世紀前半の遺跡が確認されていますが、各地の発掘調査などから、5世紀後半には製鉄が始まっていたと考えられています。しかし一方では、弥生時代後期に鍛冶工房が急増することから、製鉄の開始時期は、このころまで遡るのではないかという見方もあります。


 製鉄技術の不思議
 ところで、大陸から、わが国に伝わった製鉄技術ですが、中国や朝鮮半島で行われていた製鉄は、間接製鋼法とよばれ、鉄鉱石を加熱、溶融して溶けた鉄鉱石を撹拌し、銑鉄を生産してから鋼をつくるのが主流でした。しかし、日本では、鉄鉱石や砂鉄を比較的低い温度で加熱し、溶融せずに直接、海綿状になった鉄塊(錬鉄)にする独自な製法(直接製鋼法)が作りだされたのです。これが「たたら製鉄」とよばれる製鉄法の基礎になっていますが、どういう過程を経て「たたら製鉄」法が考え出されたのか、まだ謎となっています。また、古代の鉄生産地の一つである山陽方面(かつての備前、備中、備後など)の多くでは、鉄の原料に鉄鉱石が使われていました。その一方、山陰側では、鉄鉱石に乏しく、島根県の斐伊川、神戸川、伯多川、鳥取県では、日野川の流域などで、砂鉄が使われています。古代の人々は、砂鉄から鉄ができることをどのようにして学んだのか、興味深いものがあります。





5世紀後半以降の地方の首長層とヤマトの王権との関係は、稲荷山鉄剣や江田船山大刀に刻された銘文とその考古学的解釈により、地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、地方首長とヤマト王権を構成する大伴物部阿部などの畿内氏族とが強い結びつきをもつようになったものと想定される[28]。王は「大王」として専制的な権力を保有するようになったとともに、そのいっぽうでは大王と各地の首長層との結びつきはむしろ稀薄化したものと考えられる。また、大王の地位自体がしだいに畿内豪族連合の機関へと変質していく[29]。5世紀末葉から6世紀初頭にかけて、『日本書紀』では短期間のあいだに清寧顕宗仁賢武烈の4人の大王が次々に現れたと記し、このことは、王統自体もはげしく動揺したことを示唆している。また、こののちのヲホド王(継体天皇)即位については、王統の断絶ないし王朝の交替とみなすという説(王朝交替説)がある。

こうした王権の動揺を背景として、この時期、中国王朝との通交も途絶している。ヤマト王権はまた、従来百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済的・政治的基盤を築いてきたが、百済勢力の後退によりヤマト王権の半島での地位も相対的に低下した。このことにより、鉄資源の輸入も減少し、倭国内の農業開発が停滞したため、王権と傘下の豪族達の政治的・経済的求心力が低下したとの見方も示されている。6世紀に入ると、半島では高句麗に圧迫されていた百済と新羅がともに政治体制を整えて勢力を盛り返し、伽耶地方への進出をはかるようになった。

欽明天皇陵と考えられる見瀬丸山古墳

こうしたなか、6世紀初頭に近江から北陸にかけての首長層を背景としたヲホド大王(継体天皇)が現れ、ヤマトにむかえられて王統を統一した。しかし、ヲホドは奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る[注 11]。ヲホド大王治世下の527年には、北九州の有力豪族である筑紫君磐井新羅と連携して、ヤマト王権と軍事衝突するにいたった(磐井の乱)。この乱はすぐに鎮圧されたものの、乱を契機として王権による朝鮮半島南部への進出活動が衰え、大伴金村の朝鮮政策も失敗して、朝鮮半島における日本の勢力は急速に揺らいだ[注 12]。継体天皇の没後、531年から539年にかけては、王権の分裂も考えられ、安閑宣化の王権と欽明の王権が対立したとする説もある(辛亥の変)。いっぽう、ヲホド大王の登場以降、東北地方から九州地方南部におよぶ全域の統合が急速に進み、とくに磐井の乱ののちには各地に屯倉とよばれる直轄地がおかれて、国内的には政治統一が進展したとする見方が有力である。なお、540年には、ヲホド大王を擁立した大伴金村が失脚している。

ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)[編集]

6世紀前半は砂鉄を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になったこともあって、ヤマト王権は対外的には消極的となった。562年、伽耶諸国は百済、新羅両国の支配下にはいり、ヤマト王権は朝鮮半島における勢力の拠点を失った。そのいっぽう、半島からは暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、田荘部民などの獲得をめぐって抗争がつづいた。大伴氏失脚後は、蘇我稲目物部尾輿が崇仏か排仏かをめぐって対立し、大臣蘇我馬子と大連物部守屋の代には、ついに武力闘争に至った(丁未の乱)。

丁未の乱を制した蘇我馬子は、大王に泊瀬部皇子を据えたが(崇峻天皇)、次第に両者は対立し、ついに馬子は大王を殺害した。続いて姪の額田部皇女を即位させて推古天皇とし、厩戸王(聖徳太子)とともに強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階十七条憲法の制定など官僚制を柱とする大王権力の強化・革新を積極的に進めた。

6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、統治と支配をささえるイデオロギーとして重視され、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成されていくこととなる。

「日本」へ[編集]

7世紀半ばに高句麗を攻め始めるとヤマトも中央集権の必要性が高まり、難波宮大化の改新が行われた。壬申の乱にて大王位継承権を勝ち取った天武天皇藤原京の造営を始め、持統天皇の代には飛鳥から遷都した。701年大宝律令が完成し、この頃からヤマト王権は「日本国」を国号の表記として用い(当初は「日本」と書き「やまと」と訓じた)、大王に代わる新しい君主号を、正式に「天皇」と定めた。





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