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松本清張は「古代史私注」の「プレ大化改新」の中で次のように言っており、私もそれにほぼ賛成する。特に「真骨」思想は日本の天皇家の「万世一系」思想の土台であり、天皇家やその周辺豪族貴族が朝鮮からの渡来人であることの証明だろう。


「大豪族は部族の兵力をもち、部族員たる小作人の生産を搾取する一種の独立国だったが、それが分解して中・小豪族ばかりになると、互いに連合するか、大勢力のもとに依存するかで、地位の安全を保つしかない。これは中央集権的な組織に編成されやすい。私は、それを蘇我稲目・馬子が行ったと思っている。いうなれば、大化改新の官僚組織は、蘇我氏が準備し、孝徳・天智朝が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼしてそれを横取りしたのだと推定している。蘇我氏が自己中心的にすすめていた官僚体制を天皇家が奪取したのが『大化改新』だったのだと考える(蘇我氏が『大王』だったという一部の説は成立しない。『大王』になれるのは新羅の真骨と同じく、その血族でなければ他に承認されなかった。大王家に比すべき勢力と、大王の資格を混同してはならない。」
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日露戦争への寄り道も興味が尽きたので、「剣と鏡」に戻る。
小林恵子の「二つの顔の大王」に、皇極女帝(宝王女)が舒明と結婚する前に高向王と結婚し一児を得ている、その高向王とは高向玄理ではないか、という説を出している。さらに、高向玄理は韓国人だっただろうとしているが、これは大いに蓋然性がありそうである。つまり、「高」姓である。
もしそうだとすると、高向玄理は思いがけない重要人物だ、ということになる。あるいは大海人皇子か中大兄皇子の父親ということになるかもしれない。大化の改新の時に暗殺現場を見た何とか皇子が「韓人が入鹿を殺した」と言ったというのも、中大兄皇子あるいは(暗殺実行者の)大海人皇子が韓人であるのは周知のことだったから、となるわけだ。
ちなみに、下記記事の「隋へ留学する」は、高向玄理(ら)が韓国人で中国の文明に詳しいからこそ選ばれたと見ることができる。
留学からの帰国後5年目で大化の改新が起こったというのも暗示的である。
またたとえば大海人皇子もその留学に同行していた、というのも考えられる。皇極が高向王との間に産んだ漢王子が大海人皇子であり、最初は(父親の出自のために)皇位継承資格が低かったから、父親と危険な海外旅行に同行する決意をするのも容易だった、というわけだ。
かなり話が錯綜してきたので、いずれ年表や相関図を作ってみたい。


高向玄理

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高向 玄理(たかむこ の くろまろ、生年不詳 - 白雉5年(654年))は、飛鳥時代の学者。名は黒麻呂とも記される。高向古足の子[1]は漢人のち史。冠位大錦上

出自[編集]

高向氏(高向村主・高向史)は応神朝に阿知王とともに渡来した七姓漢人の一つ段姓夫(または尖か)公の後裔で[2]文帝の末裔を称する渡来系氏族[3]。一説では東漢氏の一族とする[4]。高向の名称は河内国錦部郡高向村(現在の河内長野市高向(たこう))の地名に由来する[5]

経歴[編集]

遣隋使小野妹子に同行する留学生として聖徳太子が選んだと伝えられており、推古天皇16年(608年)に南淵請安らとともにへ留学する[6]。なお、留学中の推古天皇26年(618年)には、が滅亡しが建国されている。舒明天皇12年(640年)に30年以上にわたる留学を終えて、南淵請安百済新羅朝貢使とともに新羅経由で帰国し、冠位1級を与えられた[7]

大化元年(645年)の大化の改新後、とともに新政府の国博士に任じられる[8]。大化2年(646年遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ[9]、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった(この時の玄理の冠位は小徳[10]。大化5年(649年)に八省百官を定めた[11]白雉5年(654年遣唐使押使としてに赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死した[12]

豊田有恒(一般的にはSF作家として知られているだろう。)が壬申の乱を描いた「大友の皇子東下り」を読んだのだが、壬申の乱について私が興味深く思っていた様々な「謎」がうまく(合理的に)説明されていて、「歴史考察小論」としては非常に面白かった。特に朝鮮との関係の説明は学者(小林恵子ほか数人を除く、「正統派」の学者)の書いた「壬申の乱」論にもほとんど出てこない、有益なものだ。
小説としてはさほど面白いとは思わない。と言うか、興味を感じない部分(エロシーンやアクションシーン)はほとんど読み飛ばしたので、小説としての評価は私にはできない。まあ、ちらりと読んだだけだと、読む価値は無さそうに見えた。
「歴史考察小論」としては、かなり優れたものだと思うので、なまじ小説にしたから誰からも相手にされない作品になったのではないか。同じ小説家として、井沢元彦だけが豊田有恒の考察に言及した程度だろう。
だが、あれほど興味深い「壬申の乱」が、小説になるとこの程度にしかならない、ということが分かったのは収穫と言えば収穫である。壬申の乱の面白さは、謎の解明にあるわけだ。ならば、その謎の解明過程をこそ描くべきであり、小説部分はまったく余計ということになる。
つまり、私が壬申の乱を小説仕立てにしようが、脚本仕立てにしようが、歴史マニア以外はまったく興味を惹くこともなく、また歴史マニアであれば、そのフィクション部分には批判的な目しか向けないだろう、と予測できるわけだ。
これが、壬申の乱がこれまでほとんどフィクション界と無縁だった理由だろう。もちろん、「天皇家タブー」に触れるというのも大きい。

なお、同作品中の指摘として、「高市の皇子、大津の皇子が近江京を脱出できたのは、(大海人皇子の娘で大友皇子の妻である)十市の皇女が手引きしたからだ」というのは、言われてみればその可能性は非常に高い、と思った。また、壬申の乱の間中、十市の皇女が近江朝廷側の情報を常に大海人皇子に流していたとしたら、この乱が大海人皇子側の一方的な戦いになった理由も分かる。

作品の欠点としては、大海人皇子は忍者だったという説を根幹にして、作品全体がまるで山田風太郎か漫画の忍者物みたいになっていることだ。もちろん、大海人皇子が遁甲を学んだというのは日本書紀にも明記されているが、その遁甲を完全に「忍術」としているのはどうかと思う。
しかし、大海人皇子が中大兄皇子の影の存在として様々な暗殺に携わってきた、という説は面白い。べつに忍者だろうが無かろうが、暗殺を彼が行ってきた、というのは「剣と鏡」の大筋として使えるだろう。もちろん、大海人皇子の方が年長で、高向王(皇極女帝の先夫)の子供、という説を豊田も採っている。


(追記)下のウィキペディアの説明にあるように、遁甲は占術・呪術であり、忍術ではない、というのが一般的理解であり、私もそれに与する。


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奇門遁甲(きもんとんこう)は、中国の占術。「式占」の一種である。「六壬式」「太乙式」と合わせて「三式[1]の一つであり、遁甲式(とんこうしき)とも呼ばれる。奇門遁甲の創始伝説によると黄帝蚩尤と戦っていた時に天帝から授けられたとされる。奇門遁甲を解説した詩賦である煙波釣叟賦では呂尚前漢張良によって作盤方法の整理が行われたとされる。三国時代諸葛亮なども用いたとされるが、これは稗史小説の域を出ない。紀昀の『閲微草堂筆記』によれば、奇門遁甲の真伝は単なる占術ではなく呪術の要素も含んでいたようである。















大化の改新(乙巳の変)の謎のひとつに、入鹿暗殺の場に居合わせた古人大兄皇子(だったか?)が、怯えて家に帰った後、「韓人(からひと)が入鹿殿を殺した」と言ったとかいう話がある。これは、三韓の貢とか何とかいう儀式の場で暗殺されたので、その使者に暗殺者が化けていたという説を私も採るが、「書紀」には、中大兄皇子が斬り付けたという記述もあるので、謎とされているわけだ。
「二つの顔の大王」では、中大兄皇子が韓国人(百済人)だ(詳しくは、百済の皇子)ということが周知の事実だったから、この「韓人」はまさに中大兄皇子を指すのだ、としている。
ちなみに、大海人皇子は高句麗人、ということのようだ。


「剣と鏡」については、メモは続けるつもりで、考察も続けるが、パソコンやネットが信頼できないので、ネットで書くかどうかは決めかねている。
とにかく、ウィンドウズ10(現パソコン)になってからワードの使い勝手がひどく悪くなっているのである。書き始めてだいぶたってから、いきなりネット接続が不可能になったりしたら最悪である。

まあ、そのメモを使った作品にするとしたら、メモを書くこと自体創作の一部ではある。

小林恵子の「二つの顔の大王」には多くの示唆的な言葉があるが、古代史を考える上での特に重要な視点として、次の言葉を引用しておく。(冒頭のカッコ内と赤字化は私の補足と強調)


「(4世紀から7世紀の)当時は、倭国を含めた三国の王達は、基本的にどこの国の王であることにも固執せず、我こそは東アジアの覇者たらんと、しのぎを削ったのがこの時代であった。そしてそのありようも高句麗・百済・新羅・加羅を四つの国とは考えないで、国という観念を一度捨てて、各地方の地名と考えたほうが真実に近いのではないだろうか。もちろん、それは倭国も含めての話であるが、国境が確立して千年以上の歳月が経つと、たとえ観念では分かっていても、感覚的に理解しにくいのは当然かもしれない。


小林氏は朝鮮の王が倭国に来てそのまま倭国の王(たとえば継体天皇など)となったという大胆な説を出しているが、これはヨーロッパ王家の歴史を見るとおかしな話ではない。ヨーロッパ王家はふだんは喧嘩(戦争)ばかりしているが、王家同志は姻戚関係で絡み合っており、つまりは大掛かりな兄弟げんかや親子喧嘩、親戚間の喧嘩を、国自体がやっているようなものなのである。イギリスとフランスは喧嘩ばかりしているが、イギリスの新国王をフランス王家から迎えるというようなおかしなことをやったりするのだ。また、国王の二カ国兼任という例もある。
古代の戦争は中世ヨーロッパ以上に「親族同士の喧嘩」であった可能性は高いと思う。そして、「本家の跡継ぎ候補」の大半が死んだら、番頭に店を継がせるのではなく、遠い親戚を引っ張ってきて跡継ぎにする、というのが王家の行動パターンなのだろう。だから、継体天皇のような不思議な天皇継嗣が起こるわけだ。そしてそれは臣下たちも当然視したわけだ。
だからこそ、それに反した(つまり、番頭による御家乗っ取りをした)王莽などがアジア史の中で唯一「簒奪者」の悪名を残したのではないか。
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