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「任那日本府」というものが存在していたかどうか、というヤフー質問箱の回答のひとつだが、他の日本国粋主義的なコメントにくらべ、かなり冷静で客観的な回答だと思う。私も、だいたいこんな感じだったのだろうと思っている。
任那という国があり、そこから日本に渡った人たちも多かったので、その故郷との行き来も多かったのではないか。しかし、「日本府」などは存在しなかっただろう。まして、その地が日本の植民地だったというのは当時の日本政府の誇大表現だと思う。せいぜいが朝鮮半島に用があって行った官吏用の宿舎がある程度だったのではないか。しかし、それでも任那滅亡で「親倭的な土地」が失われたのは日本政府には痛かったのだと思う。





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    jun********さん

    2008/3/2115:33:55

    『任那日本府』についてのかつての定説は現在では動揺しており、新たな進展を求めつつ現在も論争中です。

    旧説では、『任那日本府』は近代の『朝鮮総督府』とオーバーラップして理解され、大和朝廷の植民地たる任那地方を支配する出先機関であると説かれてきた。しかし現在では、そのような『任那日本府』は虚像として否定されたと言える。

    そもそも『任那日本府』が謎と言われる根底には、それを記す日本側史書と朝鮮史書の間の著しい食い違いがある。
    例えば『任那日本府』という言葉からして『日本書紀』にしか採録されていない。朝鮮古代史の基本文献である『三国史記』『三国遺事』には任那日本府という言葉が存在しないだけでなく、大和朝廷が朝鮮南部に長期に渡って政治的影響を与えたとする『日本書紀』の記述を裏付ける証拠はむろんのこと、その痕跡を見つけ出すこともかなり困難である。にも関わらず、かつての皇国史観では、『韓史、虚妄なり』と朝鮮史書を一蹴してきた事実がある。

    当然のことながら、朝鮮史書を重視する韓国・北朝鮮の研究では日本列島の政治的影響が朝鮮半島に及んだとする学説は一顧だにされないのが実状である。

    初めに韓国・北朝鮮の代表的学説を述べる。『分国論』という学説によると、日本書紀に記された任那とは、日本列島に存在した任那系渡来人による殖民国すなわち任那本国の分国であり、任那日本府はそれを統括するために大和朝廷が設けた機関だとする。又、任那は巨済島を指すとの見解もある。このように、韓国・北朝鮮では任那日本府を朝鮮半島を舞台とした歴史とは切り離して考えようとする。

    一方、最近の日本における研究では、【植民地支配の出先機関】とする旧説こそ斥けられるものの、当時の日本列島の政治的勢力が朝鮮半島南部の政治動向に何らかの関与をしたとの視点はなお継承されており、朝鮮における研究とは今なお大きな相違点がある。

    では、日本における研究での任那日本府とは如何なるものか?本来、任那とは現在の韓国釜山市付近を本拠とした国の名称である。朝鮮史料では任那加羅・任那加良或いは金官国と呼び、又は単に伽倻ということもあったが、任那と略称する使用例はない。一方、日本書紀は、この国を任那・金官・南加羅などと呼ぶ。ところが厄介なことに日本書紀が記す任那とは必ずしも任那本国を指すとは限らず、他に①加羅(伽耶・伽倻)地域全体の地理的名称、②加羅地域に存在した小国群の総称、③任那日本府などを意味する場合がある。

    任那日本府についての記載があるのは、欽明天皇の時代である530~540年代を中心にして6世紀前半全体に渡る。例外として5世紀中頃、雄略天皇の時代に『日本府行軍元帥』なる用例があるが、史料として信頼できないので無視してよい。

    日本府という表記は6世紀当時のものではなく、後代、倭から日本へと国号が改められた後に加筆修正されたと思われ、本来は、倭府とでも書いてあったのだろう。
    現在最古の『日本書紀』の注釈書である『釈日本記』は、任那日本府を任那之倭宰と注釈している。つまり、日本府とは、倭宰(ヤマトノミコトモチ)の意味というのが、平安・鎌倉時代の解釈だったのである。(『ミコトモチ』とは『御言持』の意であり、天皇の使者を指す)

    この釈日本記の注釈を勘案しつつ、『日本書紀』を注意深く読めば、『在安羅諸倭臣』とあるのが注目される。つまり、日本府の実体とは、倭の使者そのもの或いはその集団であって、なんらかの権力機構・機関を想像するのは妥当とは言えないのである。

    ところで、これらの諸倭臣が530年頃から安羅(慶尚道威安)に駐在したとの確証はあるが、任那加羅を含め安羅以外にいた証拠はない。従って厳密には、『任那日本府』と呼ぶのは正確ではない。

    要するに、任那日本府の実像は、安羅に駐在する『諸倭臣』が大和朝廷と連絡をとりつつ、任那諸国の代表と外交上の問題を協議し、時には百済王とも連絡している、ということなのである。

    ところが、『日本書紀』には、『任那官家』『弥移居』(ミヤケ)などと記す例もあり、任那諸国があたかも大和朝廷が国内に設置した屯倉(ミヤケ)と同一であるかのように思わせたのである。これらは、日本書紀編纂時の朝鮮観の産物である。

    PR
    斉明天皇の死後、皇太子中大兄皇子が即位せず皇太子のまま政務を執った(称制した)ことは知られているが、その理由を究明した人は少ない。しかし、西嶋定生の「日本歴史の国際環境」(東京大学出版会)にその理由が明快に書かれている。それは、白村江の戦いの惨敗で唐を恐れた中大兄皇子が、「天皇」という名を用いることを唐に対して憚ったからだ、という、言われてみれば当然の話である。
    「天皇」の名は「皇帝」と同じであり、「世界(天下)の支配者」の意味であるから、中国の皇帝と日本の天皇が両立できるはずはない。しかし、軍事力的に日本は唐に対抗できるはずがないから、唐との決戦が不可避になるまでは天皇即位を隠忍自重しようと中大兄皇子は考えた、というわけだ。これは国粋主義者には我慢がならない話だろうが、政治的リアリストとしては当然の、理性的な判断だろう。
    新羅の国王など、7世紀後半の唐の朝鮮出兵(唐新羅戦争)に対し、ほぼ全勝しながら、唐に詫びの使者を送り、唐との全面戦争を避け、その結果、朝鮮の支配権を確立したのである。これが、リアルかつ賢明な政治というものだ。
    なお、白村江の戦いの後、唐は2年に一度くらいの割で倭国に使者を送ってきたが、それはおそらく唐の冊封体制の中に入ることを求めたものかと思う。だが、唐としても、朝鮮出兵でかなりな消耗を強いられた経験から、日本と全面戦争をすることは避けたかったのだろう。これが壬申の乱の間もその後も倭国が唐に侵攻されなかった理由だと思う。

    なお、大海人皇子が実は中大兄皇子より年長で、同母兄である、という証拠として、「中大兄皇子」はなぜそういう名前になったのか、ということを考えた。もちろん、私の想像だ。
    古文では「中」は「真ん中」だけでなく「二番目」の意味がある。つまり、中大兄皇子が長兄なら「中」とは言わないはずだ。つまり、異父兄ではあるが、兄である人、つまり大海人皇子がいたから斉明女皇の「二番目の皇子」と呼ばれた、というわけだ。「大」は美称である。「二番目だが皇位継承権の点では上である」ことを「大」の字が示したものだ、という説はどうだろうか。
    史が本名で、不比等(比等せず:比べるものもない凄い奴)の名は自分で勝手に作った当て字だという「中二病不比等」というネタを考えたが、残念ながら不比等は壬申の乱の時13歳くらいで、政争には参加していないようなので、「剣と鏡」には使えそうもない。しかし、日本古代史の影の主人公として鎌足と不比等父子を「剣と鏡」の骨組みとする考えは変わらない。ただし、天武天皇朝鮮人血統説のほうが面白いので、そちらを主軸にするかもしれない。
    鎌足の死の場面をプロローグとし、不比等の登場をエピローグにする、という手もある。



    藤原不比等

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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    藤原不比等
    Fujiwara-Fuhito.jpg
    藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)
    時代 飛鳥時代 - 奈良時代初期
    生誕 斉明天皇5年(659年
    死没 養老4年8月3日720年9月9日
    別名
    諡号 文忠公、淡海公
    官位 正二位右大臣、贈正一位太政大臣
    主君 天武天皇持統天皇文武天皇元明天皇元正天皇
    氏族 藤原氏
    父母 父:藤原鎌足、母:与志古娘
    兄弟 定恵不比等氷上娘五百重娘耳面刀自、斗売娘
    蘇我娼子、五百重娘、賀茂比売、県犬養三千代
    武智麻呂房前宇合麻呂宮子長娥子光明子多比能
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    藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿藤原鎌足の次男。文献によっては(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇落胤と書かれる。諡号文忠公、国公は淡海公

    概要[編集]

    藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる[1]

    天智天皇の皇胤説[編集]

    前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。

    平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。

    歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる[2]

    なお同様の伝承は平清盛にも存在し、『平家物語』にも白河法皇の落胤という説があるとして、巻第六「祇園女御」に祇園女御が生んだ子が男子ならば平忠盛に授け、女子ならば自分が引き取るという、全く同様の逸話が述べられている。

    また続けて、先例として天智天皇と鎌足の話が述べられているが、ここでは天皇の子とされているのは不比等ではなく定恵である(『多武峯略記』には、定恵は孝徳天皇の落胤とする説を載せている)。

    不比等という名前についても、壬申の乱の後、天智天皇系の皇子ということで田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ[3])の家にしばらくかくまわれていた[4]ことと関連する説がある。

    もっとも、藤原(中臣)鎌足は大化の改新以来、日本の外交責任者の地位にあり、当時外交使節として活躍していたのが僧侶と史(フミヒト:書記官)及び彼らが持っていた漢文や儒教・仏教の知識であったことから、自分の長男(定恵)を僧侶として、次男(不比等)を史として育てて、将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図が存在していたとして、皇胤説に否定的な見方もある[5]。また、後年の『大宝律令』の編纂には不比等だけでなく、田辺史(氏)に属する2名が関わっていたことが知られているが、これが不比等の推挙であると同時に田辺大隅ら田辺史の一族が法律知識を有して不比等の知識を授けた可能性を示している[6]

    略歴[編集]

    11歳の時、父・鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。

    天武朝の後期に入ると、不比等は従兄弟の中臣大嶋[7]とともに草壁皇子に仕えたとみられている。東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀で、後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられている[8]

    『日本書紀』に不比等の名前が出るのは持統天皇3年(689年)2月26日(己酉)に判事に任命されたのが初出で持統天皇所生である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。また、こうした経歴から不比等が飛鳥浄御原令の編纂に参加していたとする説もある[6]

    文武天皇元年(697年)には持統天皇の譲位により即位した草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場する。また、阿閉皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となり[9]、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立している。

    文武天皇と宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となった。

    不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。養老律令を実施したのは孫の仲麻呂の時である。

    不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。

    村主の「村」は朝鮮語で「すき」と発音されるとか言う。大友村主という姓も帰化人にはあるらしいが、もともとは「大友村長」の意味だったのが姓に転化したのではないか。
    なお、井沢元彦の「逆説の日本史」の中に、天智天皇と天武天皇は同父の兄弟ではなく、父系で言えばまったく別系統の家系だという説があり、天武以降数代(8代くらいか)にわたって天皇家の「本筋」である天智系が天武系に簒奪され(ただし母系は天智系)、桓武天皇の前の天皇で再び天智系に戻った、という説が書かれていて、興味深い。つまり、壬申の乱は本来は天皇になる資格の無い大海人皇子による「天皇家」への反乱だったということで、その背後には新羅勢力の暗躍があった、としている。
    大海人皇子の父親(斉明女皇の最初の夫)がたぶん新羅からの渡来人だったのではないか。そのために大海人皇子には皇位継承資格が無かったわけだ。つまり、本当は天武のほうが天智より年齢が上だったわけである。これは「日本書紀」などからは天武の年齢が不明であることも証拠になる。ついでに言えば、天武には宴席で興奮して槍を床に突きさすなど、「火病」めいた発作的行動が時々見られるようだ。
    なお、「日本書紀」は天武家による「粉飾の歴史」であり、天智天武持統に関する記述の一部は信頼すべきでない、と井沢は言っているが、その意見に私も同意する。

    なお、藤原不比等は長男を僧にしただけでなく、聖武天皇と光明皇后の異常な仏教崇拝を後押しした気配があり、本来は「神道」の役職(神祇官)である中臣氏の行動としては異常だが、これは神道の内部の最高の地位にある人間(家)だからこそ神道の虚偽性を知り尽くしていたためだろう。つまり神道も仏教も中臣(藤原)一族には政治権力の道具でしかなかったということである。言い換えれば、バルザックの作中の政治家ド・マルセーのように、「神も悪魔も男も女も信じない」のが中臣鎌足と藤原不比等だったと思われる。鎌足の愛読書は古代のマキャベリズムの書「六韜」だったらしい。




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    val********さん

    2010/1/307:37:22

    白村江の「はくすき」とは当時の地名の白村を百済語発音を日本側が聞き取ったよるものだということです。
    ちなみに村主(古代朝鮮語で村長の意)は渡来系の諸氏が称したものなどから少なくとも関係はしていると思われます。



    司馬遼太郎の随筆「遠藤周作氏『鉄の首枷』について」の中に、小西行長の異常な計画への言及がある。
    たぶん史実だと思うのだが、秀吉の朝鮮出兵の時、この戦争の失敗を予期していたと思われる小西行長は明朝廷に家来の内藤ジョアンを送り、日本を明の属国とし、秀吉を封じて日本国王とさせようとしたというのである。もちろん、秀吉のあずかり知らぬことで、行長の独断だろうが、その「講和内容」に、さらに驚くべきことが書かれていて、秀吉に次ぐ「大都督」として五人を封じてほしいとしていると言う。その五人の筆頭が小西行長、以下、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家となっているらしい。つまり、関ヶ原の戦いの西軍の中心メンバーだ。
    仮に、この申し出が明に受け入れられていた場合、大大名を含め、諸大名はこの五人の下の立場になるわけで、もしかしたらこの申し出の内容を漏れ聞いた諸大名が、小西石田以下のメンバーへの憎悪と危機感を抱いたのが、関ヶ原の戦いの真の原因だったのかもしれない。
    通常言われているように、朝鮮出兵時の「後方にいて、自分たちは指図口や干渉や上から目線の戦闘評価をするだけの文官グループへの憎悪」だけでは、豊臣恩顧の諸大名がほとんど東軍に付いた理由は説明できないわけで、この「小西行長の陰謀」こそが、関ヶ原の戦いの真相だったのではないか。(司馬遼太郎もそれに近いニュアンスを述べているが、そこまで明言はしていない。)

    秀吉の朝鮮征伐、さらには明の征服という誇大妄想的計画の失敗を早くから見抜いていた「官僚グループ」が、明への服属をあらかじめ申し送り、朝鮮出兵失敗後の自分たちの地位を確保しようとしたのは官僚の習性としてよく理解できる。つまり、第二次大戦後の官僚たちのアメリカへの服属と同じである。
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