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私が基本的に推理小説をあまり好まないのは、「登場人物が、単にストーリーを進ませるための道具である」のが理由だと思う。(SF小説もそれに近い。)もちろん、キャラ作りに力を入れている、たとえば森博嗣のような作家(彼の場合は青年時代に漫画を描いていたからだろう。)もいるが、それはそれで、話の筋とキャラ作りが無理に接合した感じである。推理小説は短編に限る、というのはそのためだ。
推理小説のキャラで、生きているのはシャーロック・ホームズだけではないか。まあ、ルパンもそうかもしれない。つまり、「冒険小説」的推理小説の場合は必然的にキャラと話が密接性を持ってくる、ということだろう。





最近、具体例で『お話しと設定を、台詞で並べるだけ』と『登場人物の個性が、直面した状況で行う行動と発言が物語になる』間の、埋められない落差に気付き始めた人が増えて重畳。
自分も小中生頃には、過去の創作物の表層をなぞった前者側に居たのだが、それは単なる創作ごっこ。
抜け出せて良かった。




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複数の漫画家のツィッターで話題になっていたので、その元になったと思しきブログを転載しておく。「物語の『トンネル』」ということの意味はそれらのツィートでは明記されていなかったが、だいたいこのようなものだろう、と理解できる書き方になっていて、下のブログを見た結果、その予想は正しかったようだ。つまり、結末に至るまでに主人公の身の上に起こる、さまざまな不幸や災厄などだ。これはドラマ作りの鉄則に近いもので、そういうものが無くても面白いドラマは作れる、ということを多くの人に意識させたのが、あずまきよひこの「あずまんが大王」であり、それに続く「よつばと!」だろう。まあ、不幸や災厄はあるが、それが軽く笑い飛ばせるようなものである、というのが大方のコメディである。
下の筆者が言っている、「物語の『トンネル』を通りたくない人は意外と多いのかもしれない」という推測は当たっていると思う。そもそも、そういう人々は物語が好きではないということだろう。フィクションにおいても、自分の自我が揺らぐことを、現実と同様の不快感を感じる、ということで、それはある意味では非常に繊細で正常な精神だとも言える。


(以下引用)



物語の「トンネル」を通りたくない人は意外と多いのかもしれない

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『王様ランキング』というWeb漫画が、待望の単行本となって発売された。半年ほど前だろうか、友人から「これ面白いぞ!」とLINEで勧められ、ちょっと読んでみたらこれがもうグイグイ読ませる読ませる。なんとも味わい深い、独特の温度がある漫画なんですよ。紙で読めるのが嬉しいです。

 

王様ランキング 1 (ビームコミックス)

王様ランキング 1 (ビームコミックス)

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せっかくなので、そんな『王様ランキング』を、漫画をあまり積極的には読まない嫁さんに勧めてみた。「これ、面白いよ。よかったら読んでみたら?」。絵柄が絵本チックで、コマ割りも大きいので、比較的「読みやすい」んじゃないかと思ったのだ。Twitter等では幾度となく書いてきたが、嫁さんは私と趣味が全く異なり、彼女は漫画や映画をあまり自分からは観ない。専門は韓ドラ。HDDは彼女が録画したBSの韓ドラでパンパンである。

 

そんな嫁さんに、実際に『王様ランキング』を読んでもらったところ、1巻の3割ほどを読んだ頃だろうか、「私これ以上は無理かも」と本を閉じてしまったのだ。

 

当然、こっちは「え?」となる。「あんまり面白くない」ならまだ分かる。それは好みの問題だ。しかし、「無理」とは何だろう。そこを詳しく聞いてみると、彼女の感想はこうだ。「ほんわかした絵柄なのにストーリーが辛い。胃が痛くなる感じがするから、あんまり読みたくないかも」。

 

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『王様ランキング』のストーリーを知らない人に説明すると、主人公は口がきけず耳も聞こえないひ弱な王子で、しかしそんな王子こそが誰よりも純粋かつ健やかな人間であり、彼を中心とした王位継承にまつわる様々な人間の悪意や邪推が話を転がしていく、ざっくりと説明するとそんな物語である。ファンタジー風味の世界観で、王子は、カゲというその名の通り影のような生命体と友達になる。共に悲しい運命を背負った彼らは、様々な困難を共に乗り越えようと奮闘し、そこに「美しいなにか」が見える、そんな群像劇として、遅効性の読み応えがあるのだ。

 

つまりは、嫁さんの言うところの「胃の痛い感じ」は、王位継承にまつわるあれこれなのである。主人公に冷たく当たる王の後妻や(これについては読み進めればフォローが入るのだが)、口がきけない王子をからかう町の人々など、確かに心にザワザワしたものがのし掛かるような展開が序盤にいくつか用意されている。しかし、だからこそ、そんな運命に翻弄されながらもひたむきさを忘れない王子の美しさが光る訳で、その「胃の痛い」展開は、物語にとって必要なものなのだ。

 

しかし、嫁さんはその全体としては必要な「胃の痛さ」こそが辛い、と。なるほど、自分はフィクションにそういう見方をしたことがなかったので、新鮮であった。つまりは、出口が用意されている「トンネル」があっても、「トンネル」そのものが暗いから通りたくない、という話だ。究極、彼女にとって、出口の存在やその先の景色は関係ないのかもしれない。「トンネル」そのものが自分に合わないのだ。

 

私は御多分に洩れず手塚治虫が大好きなのだが、以前嫁さんに『ブラック・ジャック』を勧めたところ、これもまたやんわりと断られてしまった。彼女も過去に何度かパラパラと読んだことがあるそうだが、だからこそ正直あまり読みたくない、と。その時はよく意味が分からなかったのだが、今回の『王様ランキング』の件と合わせて考えると、なるほど理解に届いたのかもしれない。

 

ブラック・ジャック 1

ブラック・ジャック 1

 

 

『ブラック・ジャック』も、確かに「トンネル」型の物語が多い。患者が難病に苦しんだり、酷な運命に翻弄されたり、命を失いかけたり、大切な仲が引き離されたり。そんな窮地に登場する我らが無免許医は、法外な報酬をふっかけながらも、命を想う信念でもって患者を救おうとする。彼のメスが、「トンネル」に出口を示す。そこに、爽快感や満足感、痛快さがあって、だからこそ『ブラック・ジャック』は面白いのだ。もちろん、出口の先の景色が必ずしも美しいとは限らないのが、流石の手塚治虫なのだけど。

 

私は、漫画や映画に限らず、「先の展開が予測できない」ことを好んで楽しむタイプだ。だから、本当に楽しみにしている映画は予告もほとんど見ずに臨むし、何ならネットも断つ。事前に情報を仕入れず、その物語がどう転ぶかに一喜一憂したいと思っている。だから、終わってみれば、「あそこ辺りまでが『トンネル』だったな」、となることが多い。もちろん、「トンネル」への誘導が拙い作品もあれば、最後まで出口が無い場合もある。それはそれで一興だ。

 

しかし嫁さんのようなタイプは、「トンネル」を通るのがそもそも苦手であり、どうせ通るのであればせめて、明るい出口を保証してもらって、事前に安心したいのだろう。だから、例えば一緒に映画を観ていると(私が事前に映画館で観て面白かった作品を一緒に観ることが多い)、彼女はよく「これ大丈夫だよね?」「主人公死なないよね?」「この人たち助かるよね?」と途中で聞いてくるのだ。

 

私にとってみれば、「そこ」が分からないこその、翻弄される心の動きが面白さなのに、彼女は「そこ」を先に知りたがる。今通っている「トンネル」、それだけでも苦手なんだけど、まさか出口が無いとかないよね? 大丈夫だよね? と、おそらくこういうことなのだ。

 

もしかしたら、嫁さんのような人は存外多いのかもしれない。というのも、多少飛躍があるかもしれないが、昨今は「内容見せすぎだろ!」な映画の予告をよく目にする。それほとんどエンディング手前まで推察できちゃうじゃん、とか、もうその展開になったらああいうオチに向かっていきそうなのが明白では、とか。

 

私のような楽しみ方をする人間にはそういう理解になるが、おそらく嫁さんのような人にとっては、こういう予告編こそがありがたいのかもしれない。「この作品に『トンネル』はあるけど、ちゃんと出口を用意してますから」、と、こういう訳だ。出口の存在を前もって確認して、それならばと安心した上で映画館に向かう。予告編で、トンネルの先の安心感を先に提示してしまう。そういう人って、実は結構多いのかもしれないね、と。

 

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ちなみに、嫁さんは韓ドラが好きと言っても、ドロドロ系のものは好んで観ない。それこそ「トンネル」作品だ。彼女が好むのは、ハチャメチャな雰囲気のライトなコメディか、純愛モノである。「トンネル」が少ない(短い)、もしくは、ある程度「トンネル」の先の景色が保証された物語。加えて、先にネットでネタバレを見てから鑑賞を始めたりもしている。私からすればその行為は全くもって理解不能だったのだが、『王様ランキング』に端を発した意見交換を経て、その狙いが分かったような気がする。彼女にとっては、物語のネタよりも、「トンネル」の有無や出口の保証の方が優先度が高いのだろう。安心が欲しいのだ。

 

嫁さんとはつくづく趣味が合わないのだが、だからこそ、結婚して良かったと思っている。こういう、新しい価値観と出会えることが多いのだ。そして嫁さんも、同じようなことを言ってくれる時がある。今はまだ小さい娘が大きくなれば、彼女もまた、私に新しい「気づき」をくれるのかもしれない。

 

私は私で、今日もまた気づけば「トンネル」に迷い込んでいるような、そんな作品と出会いたいものである。




「金融の世界史」という本の紹介記事の一部を転載。
第一次大戦の背後にある国際金融について調べたいのだが、ネットにもあまり無い。やはり、ロスチャイルド家限定で調べたほうが記事は多いのかもしれない。

(以下引用)

資本主義は、海賊キャプテン・ドレイクがチリから海賊行為をして銀を大量に持ち帰ったところから始まる
とかそういう事が延々書いています。

画像の字がすこし小さいので、いくつかに画像を切り分けて何が起こったか書いてみようと思います。書き写すとキリが無いので、簡素に書いてますが、本書ではもっとドラマチックです。

16〜17世紀の金融史

16〜17世紀の金融史 時系列
1571年 財産権の確立(ローマ)
レオパルト海戦を前に、軍人が安心して財産を家に置いて戦いに出られるよう、ローマ法により、個人の財産所有が明確に認められる。
16世紀末 初の株式会社&株式取引所設立(オランダ)
オランダで香辛料貿易のための会社「東インド会社」設立。これまでにも無限責任の団体はあったが、オランダ東インド会社は株主の責任を投資した額のみで住むよう有限責任化した。これにより、一般の人々が多く・小口で株式投資が行えるようになり東インド会社株の取引を中心とする株式会社が設立される。
1637年 チューリップ・バブル崩壊(オランダ)
チューリップ球根の売買が投機目的で加熱。1637年春、球根の受け渡しを目前にして球根価格は暴落。人類初のバブル崩壊。
1672年 英チャールズ二世デフォルト(イギリス)
英蘭戦争勃発により、英国王チャールズ2世が、軍費以外の支払いを停止。英国王チャールズ二世に投資していた富豪が多数破産する。
1688年 国債の発明(イギリス)
名誉革命によりイギリス議会誕生。同時に財源確保の為に、国債を発行。過去にも国への借金はあったが、国王への個人貸付の性質が強く、国王失脚と共に投資家が破産していた。イギリス議会は国王ではなく国が債務を負う国債を発行。そのため、この年を初の国債発行年とする。

18〜19世紀の金融史

18〜19世紀の金融史 時系列
18世紀初頭 初の資産運用記金スコティッシュ・ウィドウズ設立(イギリス)
スコットランド牧師兄弟2名が、牧師の未亡人が安心して暮らせるよう、年金に似た相互扶助団体を設立。国際分散投資により基金を運用する。
1720年 南海バブル崩壊(南海飛沫事件)(イギリス)
イギリスの国策により生まれた貿易会社。特殊な利益計上と国債引き受けが出来る仕組みにより投機化。経営陣の株式売却と共に株価は大暴落した。
1771年 初の保険組合 ロイズ誕生(イギリス)
貿易船の積み荷に対する無限責任に対応する保険として、79人の組合員によってロイズ組合が誕生
1868年 世界初の投資ファンド誕生(イギリス)
イギリス国外、植民地に分散投資する目的の投資信託「Foreign and Colonial Government Trust」がイギリスで設立。資産を第三者が管理する信託保全機能を組み込んだ、今の投資信託と同等の信託機能が生まれる。
1871年 金本位制の制式採用(西欧)
いままで各国で金兌換、銀兌換、兌換不可紙幣などがある中で、スカンジナビア諸国が一致して金本位制に移行した。
1873年 大不況(イギリス)
米南北戦争集結に伴い、成長著しかった欧州諸国の経済成長が停滞・以後20世紀前まで不況が長期化する。
1896年 ダウ工業平均株価&テクニカル投資手法誕生(アメリカ)
チャールズ・ダウがファミリーと設立した「ダウ・ジョーンズ工業平均株価」は米株式市場初の株価指数となった。また、チャールズ・ダウ自信は株価指数の日々の上下の規則性に気づき「テクニカル投資手法」を開発した。

20〜21世紀の金融史

1920年 ドイツでハイパーインフレ発生(ドイツ)
第一次世界大戦の賠償金を支払うために、多額のドイツマルクを発行しマルクが暴落。パンを買いに行くのに手押し車に紙幣を積まなければならないほど、ドイツマルクはインフレした。
1929年 ウォール街大暴落(暗黒の木曜日)-世界恐慌(世界)
第一次世界大戦後 米国が国策により過度に金融市場を緩和し、国民が総投資家となる。しかし実体経済は追いつかず株式市場は崩壊。米国最悪の暴落となり、世界恐慌へとつながった。
1944年 ブレントン・ウッズ協定の締結(世界)
第二次世界大戦後の世界金融を安定させるための会議場において、「金とドルの固定相場兌換」「各国通貨とドルの固定相場」を決定。ドルを通じて世界の通貨は金兌換制に移行した。ブレトン・ウッズ協定ではIMF(国際通貨基金)と後の世界銀行、IRBD(国際復興開発銀行)の設置も決定された。
1946年 新円切り替え・預金封鎖(日本)
第二次世界大戦で焼け野原になった日本の円は暴落。国内でのインフレを防ぐために政府は「全ての円を期日までに銀行に預け、以後新円を引き出し規制にしたがって銀行から引き出すこと。旧円はその日から使えなくなる」とした。同時に保有額から一定の財産税も最大90%徴収した。
1952年 投資ポートフォリオ選択理論発表(アメリカ)
シカゴ大学の大学生が「ポートフォリオ選択理論」論文を発表。これにより資産の分散はリスク最小以外にもリターンの最大化が行える事「効率的ポートフォリオ」の存在が確認された。
1965年 株価ランダムウォーク理論発表(アメリカ)
ユージーン・ファーマにより「株式市場のランダム・ウォーク理論」が発表。「全ての株価はランダムに推移する」として、全世界のファンドマネージャーを震撼させる。
1971年 ニクソン・ショック(世界)
金の国外流出に悩んでいたアメリカが突如「紙幣と金の交換を停止する」と発表。ブレントン・ウッズ体制の「各国通貨はドルとの固定相場によって金兌換が保証されていた」状態が無くなり、一気に世界の通貨が変動相場制へ移行。ドルは大幅に下落。
1971年 初のインデックスファンド設立(アメリカ)
米ウェルス・ファーゴ資産運用部門が年金基金600万ドルを元手に分散投資するファンドとして成ったのが始まり。76年には個人向けとしてヴァンガード社がインデックスファンドを発売開始。
1987年 ブラック・マンデー(アメリカ)
2000年 ドットコム・バブル崩壊(アメリカ)
2008年 リーマン・ショック(アメリカ)

※長くなるため省略します

第一次大戦勃発時を舞台とした小説のネタとして、エンヴェル・パシャについての記事をウィキペディアから転載する。ちなみに、このあたりの時代のトルコ人の名前によく出てくる「パシャ」は名前ではなく「少将」の意味らしい。あるいは名前にもあるのかもしれない。



エンヴェル・パシャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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エンヴェル・パシャ
اسماعيل انور
Ismail Enver.jpg
エンヴェル・パシャ
生年月日 1881年11月22日
出生地 Flag of the Ottoman Empire.svg オスマン帝国
没年月日 (1922-08-04) 1922年8月4日(40歳没)
死没地 Flag of the Bukharan People's Soviet Republic.svg ブハラ共和国 ドゥシャンベ近郊
出身校 イスタンブール士官学校
所属政党 統一と進歩委員会

Flag of the Ottoman Empire.svg オスマン帝国戦争大臣
内閣 サイード・ハリム内閣
在任期間 1914年1月4日 - 1918年10月13日
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イスマイル・エンヴェル・パシャオスマントルコ語: اسماعيل انور‎, トルコ語: İsmail Enver Paşa1881年11月22日 - 1922年8月4日)はオスマン帝国末期の軍人政治家青年トルコ人革命の指導者。1913年以降オスマン帝国の陸軍大臣として兵権を掌握し、1918年まで大宰相メフメト・タラート・パシャと海軍大臣アフメト・ジェマル・パシャとともに三頭政治を行う。しかし、第一次世界大戦後にムスタファ・ケマル・パシャとの政争に敗れ、アナトリアを出奔する。その後はトルキスタンで反ソゲリラに身を投じるも、赤軍の掃討を受けて壮絶な最期を遂げた。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

エンヴェル・パシャの生い立ちには謎が多い。下級官吏の子として生まれたとされるが正確な出生地は明らかでなく、イスタンブール黒海沿岸のアパナマ、地中海沿岸のアダナなどいくつかの説がある。一説によれば母はアルバニア系の死体処理業者の娘であったという。

長じてイスタンブールの陸軍士官学校に入学し、ついで陸軍大学ドイツ語ドイツ軍事理論を学ぶ。

1902年に高級参謀過程を次席で卒業し、翌1903年マケドニア駐留の第三軍団に配属された。

1906年にはマナストゥルオスマン帝国の立憲改革を目指す統一と進歩委員会(統一進歩団)にひそかに加入し、有力幹部の一員となった。

革命の中の青春[編集]

1908年7月3日オスマン帝国憲法の復活を求めてアフメド・ニヤーズィ英語版 (レスネのニヤーズィ Resneli Niyazi の名で知られる)先任大尉がレスネ (現マケドニア共和国のレセン)で起こした反乱に呼応し、サロニカで挙兵。これが青年トルコ人革命のはじまりとなった。

はじめ、エンヴェルは軍団とともに山岳地帯に立てこもるが、イスタンブールから送られてきた討伐隊が革命側に寝返ったため、やむなく7月24日スルタンアブデュルハミト2世は革命部隊の要求を認め、同年12月に憲政復活がなった。彼はイスタンブールに入るとニヤーズィらとともに立憲革命の英雄としてもてはやされ、統一進歩団の中央委員会への加入を認められたが、要職につくことはできず、ベルリン駐在武官としてドイツに赴任するように命じられた。

1909年3月31日、イスタンブールで保守派による反革命暴動が起こった。統一進歩団の指導者らはサロニカの第三軍団長マフムート・シェヴケト・パシャ英語版のもとに集結し、イスタンブール奪回を目指した。エンヴェルはドイツから急ぎ帰国し、ムスタファ・ケマル少佐らとともに鎮圧軍の参謀となってイスタンブールに再入城した。

三頭政治のはじまり[編集]

同年4月27日、アブデュルハミト2世は暴動の責任を問われて退位し、皇弟メフメト・レシャトがメフメト5世として擁立された。しかし、その後も政局の混乱は続いた。

1910年9月28日イタリア・トルコ戦争が勃発した。エンヴェルはベルリンから急ぎ現地に向かい、包囲網を潜ってトリポリタニアにひそかに上陸し、義勇軍を率いて活躍した。彼はその功によって中佐に昇級した。

1912年10月第一次バルカン戦争が勃発し、12月までにバルカン同盟軍はイスタンブール至近に迫った。オスマン政府は急遽イタリアと和平したうえ、12月3日大宰相キャーミル・パシャ英語版の主導でバルカン同盟軍と城下の盟を結んだ。これに反対する統一進歩団員は弾圧され、50人が逮捕された。

1913年1月23日、エンヴェルは青年トルコ人革命以来の盟友メフメト・タラート・パシャアフメト・ジェマル・パシャらとともにクーデター英語版を起こした。エンヴェル自身が小部隊を率いて大宰相府を襲撃し、陸軍大臣ナズィム・パシャ英語版を射殺し、キャーミル・パシャを辞任させ、マフムート・シェヴケト・パシャを新たな大宰相として擁立した。その後再びバルカン同盟との戦端が開かれたが状況挽回はならず、バルカン半島側の要衝エディルネが陥落した。結局オスマン政府は4月1日に再度の和平を締結した。

6月11日、大宰相シェヴケトが何者かによって暗殺された。ジェマル・パシャは反・統一進歩団派を犯人と断定し、反対派を粛清。後任の大宰相には統一進歩団員でムハンマド・アリー家出身のメフメト・サイード・ハリム・パシャ英語版が任じられた。これによって長年の政治的混乱に終止符が打たれ、統一進歩団の指導者であるエンヴェル、ジェマル、タラートによる実質的な「三頭政治英語版」がはじまった。

6月29日、バルカン同盟が領土分配をめぐって決裂し、第二次バルカン戦争がはじまった。オスマン軍はこの戦いに介入し、エンヴェルはエディルネを奪回した。彼はこの功績によって翌年1月に少将パシャ)となり、陸軍大臣総参謀長に就任した。こうしてエンヴェルはオスマン帝国の全軍を掌握し、守旧派将校たちを予備役に編入するなど軍制改革を断行した。またエンヴェルはスルタンの姪、ナジエ内親王と結婚した。

第一次世界大戦[編集]

エンヴェル・パシャ(1918年)

1914年6月28日第一次世界大戦が勃発した。オスマン帝国には双方の陣営から働きかけがなされ、国内でも自国の出方をめぐって激論が交わされたが、結局親独派のエンヴェルが押し切るかたちでドイツ側に参戦することが決定された。11月11日、青年トルコの傀儡であったメフメト5世はジハードを布告し、正式にオスマン帝国の参戦が宣言された。

エンヴェルはかねて中央アジアからバルカンにいたるテュルク系諸民族をオスマン帝国の旗のもとに大統一するという汎テュルク主義の理想を抱いていた。その第一歩として東部アナトリアに進出したロシア軍に対して大攻勢に出てこれを駆逐し、カフカス地方を確保するというサルカムシュ作戦英語版が計画された。

そして、エンヴェル自身が東部戦線に出て陣頭指揮をとるが、補給や装備の杜撰さに加え、ロシア軍の反撃によって莫大な損害をこうむった。さらにロシア軍への協力を罰するためとしてアルメニア人シリアへの強制移住が行われ、死の行進と混乱のなかで一説では200万人にのぼるとされるアルメニア人がトルコ軍によって虐殺されたといわれる。(アルメニア人虐殺

エンヴェルは汎テュルク主義に加えて汎イスラーム主義を唱えてイスラーム世界の団結を呼びかけ、イランや北アフリカで連合軍に対する抵抗を起こさせるなど努力を重ねたが、戦況は次第に不利に向かった。イギリスの工作によってアラブ諸族が反乱を起こし、西部戦線ではブルガリア連合国に降伏した。

これによりドイツとの連絡・補給が絶たれて戦争継続がますます困難になり、一ヶ月後の1918年10月30日、ついにオスマン帝国はムドロス休戦協定を結び連合国へ降伏した。

没落への道[編集]

第一次世界大戦の敗北後、エンヴェルは盟友タラートらとともにイスタンブールを脱出した。彼らは黒海からクリミアを経てひとまずドイツのベルリンに亡命した。ここでエンヴェルはドイツ国防相のゼークトや、ポーランド系のユダヤ人ボリシェヴィキドイツ共産党創設にかかわったカール・ラデックなどと知り合い、ドイツ・ロシア・トルコの三国で反連合国同盟を結んで、カフカスと中央アジアを根拠地に英領インドを攻略するという計画をとなえた。

折から成立間もないソビエト連邦は、中央アジアテュルク系諸民族の支持を得るためにエンヴェルの名声を利用することを策しており、このソ連政府の意を受けたラデックらの説得により、1920年8月14日にエンヴェルはモスクワへ入った。エンヴェルも彼らの力を借りてオスマン帝国を復興することを目論んでいたとされる。

この時期にエンヴェルはさまざまな人物と接触しており、その中にはタタール人の革命運動家であるスルタンガリエフも含まれている。はじめ政敵とはいえ、ソ連政府の支援により祖国解放のために戦っているムスタファ・ケマルアンカラ政府に武器を援助することを試みたが、この計画は混乱のなかでさしたる意味も効果も持たなかったという。

同年9月はじめ、エンヴェルはバクーで開かれた東方諸民族大会に出席し、イスラーム革命団体連合を結成。また、アナトリアに乗り込んで、ムスタファ・ケマルに代わって政権を掌握してトルコを解放することを目論み、叔父ハリル・パシャをアナトリアへ送り込み、自身もグルジアバトゥミで待機に入った。しかし計画はムスタファ・ケマルのギリシア軍に対する赫々たる勝利を前に失敗に終わった。

「エンヴェル・パシャの最後の冒険」[編集]

エンヴェル・パシャ

エンヴェルはアナトリアへ帰ることを諦め、トルキスタンに新たな活躍の舞台を求めた。当時トルキスタンのムスリムによる反ソゲリラバスマチの活動が盛んであったため、ソ連政府はテュルク系諸民族のあいだで名声を保つエンヴェルをトルキスタンの赤軍に送り込むことでバスマチへの支持を切り崩そうと考えていた。

1921年10月、エンヴェルはソ連側の思惑を受けてトルキスタンの中心都市ブハラに入った。彼はこのとき既にソ連から離れ、バスマチのもとに乗り込んで彼らを自らの子飼いとする計画を持っていた。

11月8日、エンヴェルは猟を装って行方をくらまし、バスマチの勢力圏に入った。彼はこれ以後「大トゥラン革命軍司令官」と称し、汎テュルク主義の理想のもとにトルキスタン諸民族の団結と対ソ連闘争を呼びかけた。彼の究極の目的はトルキスタンのテュルク諸族を率いてオスマン帝国を復興することであったが、最初に同盟を呼びかけたバスマチの首領のひとり、山岳部族の族長イブラヒム・ベクによってエンヴェルは軟禁されてしまう。

翌年2月にエンヴェルはようやく釈放された。ソ連政府はエンヴェルと再び手を結ぶ可能性を探っていたが、彼はこれを拒絶し、タジキスタン地方で転戦した。

3月にはドゥシャンベを占領したが、エンヴェルが実際に動員できる兵はわずかであり、セルゲイ・カーメネフ率いる赤軍の攻勢の前に次第に劣勢に追い込まれていった。実情が知れるにつれ、はじめエンヴェルへの協力を申し出たアフガニスタンアマーヌッラー・ハーンなどもエンヴェルを見捨てていった。

エンヴェルは赤軍の掃討作戦によって次第に東方へ追い込まれていき、8月4日フェルガナ盆地東部のアビデルヤ村で休憩中に赤軍の奇襲を受けた。彼はなお付き従っていた30人の部下とともに機関銃を乱射する赤軍に向かって最後の突撃を敢行し、壮烈な戦死を遂げたといわれる。ただし、彼の死の状況をめぐってはほかにもいくつかの異説がある。

半月ほどのち、彼の死は児童文学作家としても有名なイギリスのジャーナリストアーサー・ランサムによって「エンヴェル・パシャの最後の冒険」と題してヨーロッパに伝えられた。

参考資料[編集]

「世界史の窓」というサイトから転載。
第一次世界大戦勃発時を舞台にした話(小説か、アニメや漫画の原作)を書こうかな、と思っているので、そのためのメモ。
実は、露土戦争の結果勝利したロシアがオスマン帝国(オスマントルコ)との間に結んだ「サン・ステファノ条約」に欧州諸国が横やりを入れて、結局このベルリン条約でバルカン半島の大半は欧州列強(あるいはその傀儡国)の物になるのだが、その詳しい事情が下に書いてあることだ。
で、問題は、バルカン半島が小国分立し、さらに欧州列強に支配されたことで民族運動が激化し、それがサラエボ事件に結びついて第一次大戦が起こるのである。
つまり、このベルリン条約が第一次世界大戦を産み、さらに第一次世界大戦が第二次世界大戦を産み、それが第二次大戦後、現在にまで至る様々な民族主義的内乱やテロ事件を産んでいるわけで、それで得をしたのは「戦争で儲けている連中」しかいないわけである。
とすれば、一般的にはビスマルクによる調停とされているこのベルリン条約を背後で操作したのは欧州ユダ金ではないか、と私は推理しているわけだ。
ついでに言うと、世界近代史というのは、「敵役としてのロシアとイスラム」「善玉としての欧米諸国」という観点でしか描かれていない。当然、誰かが背後で操作してそのように「民衆教育」をしてきたわけだろう。で、実は、どこそこの国が領土を拡大したとか、領土的野心で戦争をした、という見方しか歴史書は描かれないが、領土というものにまったくメリットを認めない集団がおり、それは永遠の流浪の民にして、世界をカネで操る存在である。国というものにまったくメリットを認めないから国家間の政治を(どちら側も操って)、戦争さえさせれば儲かるわけだ。これは、ナポレオン戦争の情報操作で大儲けをした初代以来のやり口だろう。



ベルリン条約

1878年、東方問題に関するベルリン会議でビスマルクの調停によって成立した条約。バルカン半島でのロシアの侵出を抑え、イギリス・オーストリアに有利な調停となった。

 1878年のベルリン会議の結果、「東方問題」の最終的な解決として、ドイツ帝国のビスマルクの調停によって成立した条約。これによって露土戦争の結果としてロシアがサン=ステファノ条約で獲得した領土は大幅に削減された。
主な内容は、
ルーマニアセルビアモンテネグロの三国の独立とそれぞれの領土拡張。
ブルガリアは領土を3分の1に縮小され、オスマン帝国を宗主国とする自治国とする。
・ロシアは、コーカサス山脈以南の諸都市をトルコから、ベッサラビアをルーマニアから獲得。
・オーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得。
・イギリスは、オスマン帝国からキプロス島の統治権を認められる。
・フランスのチュニス進出の承認。(いつチュニスを占領してもいいということで、フランスは1881年に実行する。)

ベルリン条約の意義とその後

 露土戦争で頂点に達したロシアの南下政策はいったん抑えられ、オスマン帝国領でのバルカン諸国の独立、イギリスとオーストリアにとって有利な領土調停が成立した。ヨーロッパの勢力バランスの維持を図るビスマルク外交の典型であった。
 しかしこの結果、ドイツとロシアの関係は次第に悪化し、ロシアはフランスに接近する。危険を感じたビスマルクは、1882年に三国同盟でオーストリア、イタリアと手を結び、さらにロシアに働きかけ、1887年に独露再保障条約を締結することとなる。
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冬山想南
性別:
非公開
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