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下の記事とは別だが、古代においては、「日本版中華思想」というものがあり、それは近畿圏以外は野蛮人の国である、という意識である。その「近畿圏」というのがどのあたりまでかというのも、現在の近畿地方とは恐らく異なるかと思う。たとえば、和歌山半島から岐阜なども近畿圏と意識されていたのではないか。もちろん、近畿圏の周縁部という意識だろう。奈良盆地の都に住む宮廷貴族や皇族は、東や西(特に東)からの敵の襲来をいつも念頭に置いていたと思う。
現在の滋賀県なども近畿の周縁部という意識だっただろうから、天智天皇の大津京遷都は奈良盆地の豪族たちの強い反発を生んだと思う。織田信長の安土桃山城といい、滋賀に本拠地を置いたらロクなことはない、というのは、恐らく琵琶湖周縁は防御に適さない地形だからだろう。

なお、古代史ではやたらと遷都されているが、それを大変な事業だと思うのは「遷都」という言葉から来る錯覚で、古代には「都市」そのものは成立していないと思う。要するに、宮廷(今のアメリカならワシントンDC程度の規模だろう)の場所が移動しただけの話で、「都市」の引っ越し、つまり何万もの人が引っ越ししたわけではないだろう。皇族と、宮廷に地位のある一部豪族が移動しただけだと思う。平城京が出来て初めて本物の都市が生まれたのではないか。
本来的に、宮廷があるから都なのであり、居住民が多いから都というわけではない。明治維新で遷都令が出ていなくても、東京に皇居が移り、政府があればそこが都になるわけだ。都とはもともとは「宮の居所」だろう。
ついでながら、公務員は「みやつこ」つまり、「宮の子(宮に所属し、従う者)」である。この場合の「つ」は所属関係を表わす。「天つ風」の類だ。「子」が従属関係を示すのは儒教から来ていると思う。「家の子郎党」の「子」も同じ。




古代[編集]

飛鳥時代[編集]

奈良盆地を拠点とした大和政権は、7世紀初めには冠位十二階の制定などに見られるように国家としての体制を整備していった。7世紀半ば、大化の改新によって天皇中心の中央集権を進める皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島の百済が滅亡すると、百済復興を目的として、47,000人もの大軍を朝鮮半島に派遣した。しかし663年にと新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島における影響力を失った。その後、唐・新羅の日本列島侵攻が予想されたため、対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、各地に山城が築かれた他、北九州の外交と防衛の拠点である大宰府には水城を設置して敵の侵攻に備えた。天智天皇の死後、皇位継承を巡って、671年に大友皇子大海人皇子の間に壬申の乱が発生した。1ヶ月に渡って近畿圏各地で戦闘が繰り広げられ、古代最大の戦争に発展した。このとき、大海人皇子は東海道東山道の諸国から兵を動員し、大友皇子側は東国と吉備筑紫(九州)に兵力動員を命じている。これらの兵力は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。

律令制と軍団の設立[編集]

古代軍団歩兵の復元。弓を構えている兵士は革製甲を装着している。福島県文化財センター白河館

白村江の戦いの敗北により、国防力の増強が必要となった。豪族の兵であった国造軍に変わり、国家が兵士を徴兵[7]、民政機構から分独立した[8]軍団[9]が組織されることとなった。律令制が本格的に導入されると軍事制度も整備され(軍防令)、中央官制の兵部省が設置され、徴兵を可能にする戸籍の整備が進んだ(正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった)。徴兵された兵士は各地に設置された軍団に配属された。原則としては現地勤務であるが、一部の兵士は宮中警備を担う衛士と九州防衛を担う防人となった。一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、千人を超える例も存在したと考えられている。軍団は3~4郡ごとに設置されており、九州では各国に2~4個軍団(1600~4000人)が置かれていたことが記録に残っている。軍団兵士の数は20万人に達したとの見方もある[10]。但し、軍団の兵士は交代で勤務しており、通常の兵力は定数の数分の一であった。なお蝦夷と対峙する陸奥国には、軍団とは別に鎮守府に属する鎮兵と呼ばれる固有の兵力が常設配備されていた。鎮守府は始め多賀城(現宮城県多賀城市)におかれ、後に胆沢城(現岩手県奥州市)に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥国府がおかれていた。この他にも蝦夷に対する備えとして、軍事・行政機能を有する多数の城柵が築かれた。

軍団兵士は、自弁で弓矢・大刀・小刀等を用意する必要があった[11]。その他の官給の武器としてがあり、弩に関しては体格と腕力に優れた者が隊(50名)ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた[12]。弓馬が得意なものは騎兵とすることとなっていたが[13]、多くは歩兵であったと考えられる[14]。騎兵は、基本的に弓射騎兵であるが[15]、槍を扱う突撃騎兵も存在したと推定される[16]。甲冑としては鉄製のものは少なく、「綿襖甲」・「綿襖冑」[17]や「革製甲」[18]が使用されていた。

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直木孝次郎「壬申の乱」第二章補注に

「『家伝上』によると、大海人皇子は壬申の乱に際し、吉野から東土に向かうとき、嘆じて『若し大臣(鎌足)をして生存せしむれば、吾豈に此の苦しみに至らんや』といったという。」

とある。天智天皇の酒宴において激発して床に槍を刺した大海人皇子を天智が怒って殺させようとしたが鎌足がそれを止めた、という話も合わせて、天智と大海人皇子の間をつないでいたのが鎌足だったと見ていいのではないか。

なお、壬申の乱は、通説(「日本書紀」の記述に基づく。つまり、大友側の圧迫によってやむにやまれず、緊急避難的に実行された、とする。)とは異なり、天智の死(あるいは大友皇子の即位)と同時に実行が決定されたものと思われる。
と言うのは、壬申の乱の際の大海人皇子の行軍過程(2皇子との合流)があまりに上手く行きすぎているからである。情報伝達網の貧弱な古代に、「伊勢(鈴鹿)で合流しよう」と言い送っていたはずの高市皇子が、鈴鹿に向かう途中の大海人一行と、伊勢手前の伊賀(現在の柘植のあたりか)で上手く出逢っているのである。これは、高市皇子には急使を送る以前にあらかじめ「25日に伊賀で待て」と言い送っており、大津皇子には後から送った使者に「25日に鈴鹿で合流だ」と伝えさせたのだろう。だから二人の皇子との合流点が違うことになったのだろう。つまり、天智の行軍行程は最初から綿密に計算されていたわけだ。大津皇子は年少でもあり、秘密を秘匿できるかどうか不安があり、また、上手く大津宮を脱出できるかどうか不確かなので、彼にはぎりぎりまでスケジュールを明かさなかったのではないか。

さらに、「日本書紀」ではさりげなく書いてある「伊賀の(近江朝廷の)駅家を焼く」というのは、そこにいた官吏とその家族を皆殺しにしたのだと思う。駅家は交通の要路の重要ポイントであり、不審な動きがあれば即座に近江朝廷に通報が行くことになっていたと私は想像している。だから、その通報をさせない、というのが「駅家を焼く」意図であり、焼くよりも役人を皆殺しにするのが目的だろう。伊賀は当時、大友皇子に親和性の高い土地だった。
「兵器の散歩」というブログから転載。
文中の「横刀」には別の個所で「たち」と振り仮名がついている。なぜこのような表記をしているのかは不明。学者の間では普通に使われる表記なのだろうか。

私が知りたいのは、青銅の剣の切断力と刺突力だが、それが分からないと古代の戦いの実情が非常に想像しづらいのである。
もうひとつ、兵器ではなく兵士の戦闘能力もよく分からない。壬申の乱当時は兵農分離は無く、農民がそのまま戦に駆り出されたはずなので、兵士としての訓練はほとんど無かったと思う。では、どのような戦い方をした、あるいはさせたのか、想像しにくい。
壬申の乱では、大海人皇子は最初は美濃にある自分の個人的領地の農民を徴兵して戦争に突入したと思うが、その人数もよく分からない。せいぜい数百人程度ではなかったか。やがて友好的豪族の支援を得て、近江朝廷との本格的戦争に入ったのかと思う。
農民の、領主に対する忠誠心というのもよく分からない。戦に駆り出された農民が素直に戦ったのかどうか。逃亡する者をどう防止したのか。そこに、「督戦隊(前線から逃亡する兵士を斬り殺すと威嚇して戦いを強制する部隊)」的なシステムがあったのかどうか、そのあたりは史書にはほとんど出てこないようなので、気になって仕方がない。


(以下引用)


■初めに

 青銅の剣では春秋時代の越王勾践の緻密な彫刻を施した剣が有名だが、青銅製刀剣の全盛期の春秋時代、既に南方の大国楚等では、鉄製の剣が現れている。長さはまだ短く、全長は古代ローマ帝国の軍団兵が使用したグラデイウスよりも短い40cm弱の短寸であった。しかし、数回の折り返し鍛錬がされていて、浸炭処理もされていたようで、武器としては、ある程度の切断能力と強度があったと考えられている。

 戦国時代後期になると鉄製の長剣が楚、韓、燕等の国々で出現し、戦国七雄の一つ北の燕下都では、冶金技術が発達して鍛錬による高炭素の武器も製作され初め、更に強度を増すための焼き入れ加工も行われていた。

 天下を統一した秦が従来型の青銅製武器を主に武装の軍隊で争覇戦に勝利したのに対し、敗れた楚、韓、燕の諸国が最新の鉄製武器製造技術を持っていた矛盾は、幾つかの先端技術だけでは総合力に勝る覇権国家に勝てない、現代でも通じる問題点を提示しているように感じる。

 その他にも楚、韓、燕等の鉄製武器製造の先進国には問題点があった。例えば、燕の下都の鉄工房の技術力は高かったが、材料の供給能力も含めた生産能力は低く、燕の国軍における鉄製武器の装備率は相当に低かった。その為、一般の兵のほとんどは従来型の青銅製武器を装備して秦との戦い望んだと想像される。

 一方の南方の雄者楚でも秦との決戦が近づいた戦国時代末期には、70cm以上の長い直刀が造られ始めているが、この国でも燕と同様に軍隊全体に十分な鉄製武器を供給することは、楚の滅亡時まで遂に達成出来なかった。

■中国の鉄製刀剣普及の時代

 短命であった秦帝国の後を受けた劉邦の前漢の時代が、古代中国における青銅製武器と鉄製武器の世代交代の時代と考えられる。劉邦の時代に青銅製武器が主流だった漢帝国も西域で匈奴と対峙した武帝の頃には、鉄製武器の比率は向上し、前漢末期にはほぼ世代交代が終わり、戈や矛、剣、刀の主要武器が鉄製に切り替わっている。

 鉄製の刀剣も短い短刀から1mと超える長い環首長刀まで各種の長さの物が出揃い、刀剣の鞘や柄の材料も木や竹で製作された物や、布、繊維で補強され柄、赤い漆で装飾された鞘なども出現し始めてくる。

 漢はご存じのように紀元前後で前漢と後漢に分かれるが、前漢の鉄製武器の大発展期を経て、後漢になると色々な鉄の周辺技術が大きく向上している。

 その一つが鉄鉱石を溶かす炉の改良で、水車を用いた小型の溶鉱炉が発明されている。鉄鉱石を原料とした安定な鉄素材の供給は、素材を折返し鍛錬したりする鍛冶の熟練度の向上と共に、鋭利で弾力性に優れた長刀の量産を可能にしている。

 後漢の時代の剣の弾力性と曲がりに対する復元力は極めた高かったと現代中国人は胸を張って主張しているが、刀剣の弾力性や切断性を比較できるほどの健全な刀剣が漢代古墓から出土していると思えないし、もし、健全な刀剣の出土があったとしても、貴重な古代の文化財で、ものを斬ったり、曲げ試験を実施したり出来るとはとうてい考えられない。

 漢代の環首長刀の形状の一例を挙げると元幅は約3cm、重ね約1cmで、断面は平造りで、長さは長いもので1mを超える長剣もあった。柄と刀身は一体構造の為、軍用としての強度は高く、破損に対する耐性もある程度あったと思われる。

 この頃の大陸性や朝鮮半島製の剣や直刀が舶載されて、我が国の権力者に順次、普及していったと考えられる。また、朝鮮半島南部の加羅で生産された鉄の原料を購入して、我が国で加工した刀剣も時代と共に出てきたと考えられる。

■古代型刀剣の完成期:唐代

 三国志の時代を経て、南北朝に少しずつ進化した古代中国からの様式を持つ刀剣は唐代に至って、一応の完成を見たと考えられる。

 戦陣用の環首長刀は漢以降順次改良されていった。漢代の環首長刀の断面形状の二等辺三角形に近い平造りの形状から、切断力と刀身の強度を両立させた切刃造りも現れ、中には切刃部分の幅が広がった切断力を更に向上させた刀身も見られ始めている。

 柄と刀身も漢代のような一体加工では無く別個の分離した形となり、茎も形成され、区や目釘穴も設けられている。また、環首の部分も独立して加工され、装飾性も大きく向上している。文化の爛熟した盛唐期は刀剣の外装も華やかになり、正倉院に伝来する刀装具にもその影響を大きく受けたものが伝存している。

 当時、東アジア最大の帝国唐の刀剣は完成度も高く周辺の朝鮮半島や日本に強い影響を及ぼした。『唐大典』の中の「武庫令」には、表現は異なるが、儀仗用、護身用、横刀、斬馬刀の4種類の刀剣の記載がある。

 横刀の表現も隋から始まり、唐では軍隊の八割が真っ直ぐな横刀を所持して戦った。当に環首直刀が大量に作られ、実戦に用いられた時代であった。一方、新しい形状の萌芽もこの時代から始まっている。西域諸部族が用いた湾刀も中唐から唐末になると直刀と共に混用され始めたのであった。

 唐の隆盛と環首直刀の完成度の高さは、周辺諸国に強い影響を及ぼさずには、置かなかった。唐の環首直刀は貴族達の求める豪華な装飾性と一般兵士に支給する為の実戦的な強度の双方を兼ね備えていたのであった。



「庭を歩いてメモをとる」というブログ(読書メモらしい)から抜粋転載。
最後のあたりを見れば、継体の出自が朝鮮(任那か百済)であることは明白だと思うが、ブログ筆者や記事に引用された書物の筆者は、どうしても天皇は純粋日本人だとしたい思いから、それを見ないようにしているようだ。もともと日本人の中でも弥生人の多くは中国や朝鮮から来たのであり、純粋日本人など、蝦夷(東北北海道地方の土着民族)くらいだろう。現在に至る、中央政府の東北地方軽視政治の理由もそこにあるかと思う。




庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

「実在と系譜が確実な最初の天皇」継体天皇はなぜ天皇になれたのか

(2018年1月16日更新)

第26代継体天皇は多くの歴史上の人物の中でも、かなり興味深い人です。

まず、歴史的に実在と系譜が明らかな最初の天皇と言われていること。つまり、多くの考古学者の間で、現在の皇室の源流とみなされている人物なのです。

また、それまでの天皇とはかなり離れた血筋の人物で、西暦507年の即位後大和国の都に入るのに19年かかっています。つまり即位に賛否両論あったようなのです。

なぜそのような論争があったのか?なぜそのような人物が最終的には天皇になれたのか?

こういった疑問への回答を示しつつ、継体の来歴、さらに人となりまでを描き出しているのがこの本でした。

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継体埋葬時の服の復元(今城塚古代歴史館にてよしてる撮影)


なぜ継体天皇以前の大王(天皇)の血筋(仁徳王統)は滅んだのか

なぜ継体天皇が選ばれたかを知るには、まず継体天皇以前の大王家の状況を知る必要があります。いったい何があったのでしょう。

雄略天皇の王族抹殺

まず第一に、雄略天皇が王族を次々と消していったことが挙げられます。

  • 第21代雄略天皇(5世紀後半在位)は、政治的・軍事的な天性・先見性を備える反面、王の座を得るまでに何人もの兄弟や従弟を容赦なく殺害。 
  • 雄略の近親者殺害に関する逸話としては、2代後の第23代顕宗天皇は父の敵である雄略天皇陵を破壊しようとしたが、兄(後の第24代仁賢天皇)から諫められる・・・という出来事があったほどである。

これだけ派手にやれば、後継者が減るのも当然、という気はします。

一応フォローしておくと、上のメモにもあるように、雄略天皇はただ残虐なだけではなかったようです。「エンカルタ総合大百科2002年」から引用します。

「古事記」「日本書紀」には、治世中は罪のない人を鳥養部(とりかいべ)におとしたり、吉備田狭(きびのたさ)をあざむき妻をうばうなど暴虐記事が多い。しかし葛城・吉備などの臣姓豪族を没落させ、大臣・大連制度の導入で大伴氏や物部氏など身内の連姓豪族の地位をあげることに功績があったともいえる。渡来人の大和への移住をすすめて王家の財政基盤を充実させながら、大王(おおきみ)としての専制権力をかためていった。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2002. (C) 1993-2001 Microsoft Corporation. All rights reserved.

この「王族抹殺」により、王権は一旦衰退します。第21代雄略陵と推定される岡ミサンザイ古墳は全長238メートルもありますが、以降第22代清寧陵115メートル、第24代仁賢陵(推定)が122メートルとほぼ半分の長さとなっています。

武烈天皇の「残虐非道」エピソードの背景

ちなみに、継体天皇の前の第25代武烈天皇は、妊婦の腹を割いたとか人を樋に流しそれを矛で刺して喜んだなどという異常な行動が記録されています。これは、跡を継がせる血統の近い者が途絶えてしまったため、武烈と継体の血筋があまりにも離れてしまうことになったが、その継体に王位を継がせるには前代が異常な人物であったとするしかなかったためだと言われています。

このような武烈の残虐非道ぶりは「日本書紀」にのみ書かれており「古事記」には一切出てきません。そのことからも、武烈のエピソードは真実ではないこと、逆に言うとそこまでして継体を跡継ぎにするしかなかった事情があった、ということが推測できます。

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継体・武烈の血筋の「距離」
ウィキペディア「継体天皇」から抜粋

さて、本書では、なぜ継体かという疑問に対し、明確にこれだという回答を示しているわけではないですが、通読すると浮かび上がってくるキーワードがあります。それは国際性です。

継体の国際性

継体の実績:

  • 百済に対する援軍と領土拡大譲歩を行った(これは失策と考えることもできるが)
  • その見返りに百済から五経博士を派遣してもらった。これは単なる人的交流ではなく、当時の日本になかった重要な統治文化の輸入であった。博士とともに日本にやってきたものは:
    • 「氏」名の成立。記録によると、雄略(第21代)期には名字はなかったが、継体(第26代)〜欽明(第29代)期に成立
    • 和風諡号(天皇の死後に名を贈ること)と殯(葬儀)宮儀礼 等
  • 半島で活躍し帰国した首長に冠などを与え評価
  • 秦氏など渡来人を重用

たしかに、継体はこのような積極的な対外交渉を行っていたようです。ではその素地はどこにあったのでしょうか。

  • 継体の故郷・滋賀県高島は当時国際性の高い土地だった:
    • 渡来人が暮らしていた(オンドルなどが発掘されている)
    • 日本海経由で九州有明沿岸地域と結ばれ海外に開かれていた

継体天皇の父彦主人王は、もともと近江坂田にいましたが、彼の代で琵琶湖対岸の高島に移りました。そこは当時の国際ルートだったというわけです。これが継体の飛躍につながっているのでは、というのが著者の指摘です。

私はこれを読んで納得するとともに、現代において、自分の仕事や子ども達の将来のために国際性の高い場所・職・学校などを求める人々と似た思いがあったのかななんて想像をしてしまいました。




大和朝廷(現皇室)の本格的な成立は、実は継体欽明朝であり、継体は朝鮮(任那)出自の人間だったのではないか、と今のところ私は思っている。継体天皇の時にそれまでの血筋との断絶があったのはほぼ確かだろう。継体が仁徳天皇か誰かの遠い子孫(5代くらい後の子孫)である、というのはアリバイ作りのための虚偽だと思う。文字通り、ここで前皇室(当時は「皇室」ではなく「大王家」)の血統が断絶し、継体天皇によって「体が継がれた」わけである。
継体以降の天皇が任那奪還を至上命題としてきたのは、そこが始祖の地であるからだろう。
なお、「天皇」と呼称するのは継体の次の欽明からで、それまでは「大王」であったらしい。つまり、中国の「皇帝」の向こうを張って「皇」の字を堂々と使い始めたのは、任那喪失が原因だろう。朝鮮に任那が存在しない以上、中国(当時は隋か)を気にする必要はないと「気が大きく」なり、もう一つには、自分の存在を高く誇示することで任那喪失の精神的埋め合わせをしたわけである。





磐井の乱

経緯[編集]

真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。

527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国肥後国)と豊の国(豊前国豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇大伴金村物部麁鹿火巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。

乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。また、『古事記』は、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。

意義[編集]

磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことである。当時、林屋辰三郎藤間生大門脇禎二らは、磐井の乱について、ヤマト王権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したものと位置づけた。

これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎・三品彰英らから出された。ただしそれらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったことと、乱の意義に着目した研究が続けられた結果、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける見方が通説となった。

1970年代半ばになると、継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。

関連項目[編集]

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