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中臣鎌足が中大兄皇子の面識を得る、有名な、蹴鞠で脱げた沓を捧げる場面での沓がどのようなものかイメージが湧かないので、調べてみたがやはり要領を得ない。
参考程度に、ネットから拾ったものを載せておく。






一、履物の移り変わり


 日本の履物は衣服と同様に2系統の大きな流れがある。
 一つは北方狩猟民族の流れをくむ、(くつ)系の履物。
 もう一つは南方稲作文化圏の流れをくむ、鼻緒系の履物とである。
1a.沓系

 北方からの沓の伝来にも2系統ある。
 一つ目はシベリア、千島列島、北海道を通じて伝来したアイヌ系の沓である(カンジキ、スキー等はここでは触れない)。
 これらは寒さから足を守る為に履かれ、狩りの獲物の革(鹿やトド、鮭など)で作られ、長靴型の物から、足を包む単純な短靴型の物まで在った。

 もう一つは中国からの伝来である。
 平安時代になるまで大和朝廷の服飾は、常に中国の朝廷の追従であったが、履物も同様である。中国の朝廷の風俗が伝来すると共に、この様式が伝わり、貴族とその周辺の者の間で、沓が履かれるようになる。沓の素材は革や毛皮、木、布、草など様々であったが、律令制の中で、素材や色について身分ごとに規定されていく。

(中国では沓が主に使用され、下駄は身分の低い者の履物であった)
1b.鼻緒系

 日本最古の現存する履物は弥生時代の遺跡から出土した田下駄である。

 南方系の履物は鼻緒形式であり、その開放的なデザインに特徴がある。

 田下駄に象徴される様に、南方系の履物は稲作文化と共に伝来した様で、初めは農具として使用されたが、古墳時代になると埋葬品の中から足駄(あしだ。下駄は新しい呼び名)が出てくる様に、通常の履物として使われた様である。
 もっとも下駄自体が普段履きになるのは江戸時代からで、それまでは雨天や水仕事、排便時など、足下が濡れている状況での履物であった。
2.両系統の融合と変化

 これら南北2系統の履物が融合したのが、草鞋(ワラジ)草履(ゾーリ)である。

 東アジア各国では、糸や草で編んだ沓が作られ、それぞれの国の言葉で呼ばれながらも、総じて「草鞋」の字を宛てられていた。
 日本でも「わらぐつ」と呼ばれ、律令制の中で下級役人である衛士(えじ。兵士)の履物として制定された(下図参照)。



 この頃の草鞋(わらぐつ)は短沓型の物で、鼻緒式の物ではない。
 また各国で沓から作られた「草鞋」(国により同字異音)も、形態は様々あれど短沓(スリッパ式・サンダル式)である。
 上記の「衛士の草鞋(わらぐつ)」が一般に広がったにしろ、大陸から「草鞋(わらぐつ)」が徐々に伝わって来たにしろ、藁で編んだ履物が庶民にも履かれる様になる。やがてこの藁で編んだ沓が大衆化する中で、沓は我々が良く知る鼻緒式の「ワラジ」「ゾーリ」へと、日本独自の変化を遂げるのである。
 こうして奈良時代に伝来した「草鞋(わらぐつ)」が変化した「ワラジ」「ゾーリ」は、鎌倉時代初期には一般化した様である。

 「ワラジ」「ゾーリ」は、いわば北方系の履物(沓式)が日本の風土に合わせて南方系(鼻緒式)へと変化した訳だが、草鞋・草履が雪国に伝わると、これとは逆の変化を遂げる。
 雪から足を守るために、「ワラジ」「ゾーリ」を土台に、スリッパ形式、短沓形式、深沓形式へと改良され、南方系から北方系(沓型)の形状へと変化を遂げるのである。


 この様に南北2系統が交差し、風土に従った変化を遂げた物が、日本の履物と言えよう。履物の変化も、その他の日本の文化と同様なのである。



二、軍用の履物


 軍用、即ち武士や武官が着用した履物の移り変わりについて述べたい。

 先に述べたように、官人であれば、素材は様々であるが沓を着用した。これは武官も同様で、沓には「浅沓」「半沓」「長沓」の型式があり、素材と合わせてTPO、身分や官職によって履き分けられた様だが、この場では多く触れない。

 これが時代が下り平安時代になると、乗馬ブーツとでも言うべき革製半沓の半靴(ほうか)が騎乗時に使用される様になり、馬上沓(ばじょうぐつ)・物射沓(ものいぐつ)と呼ばれる物も出てくる。(詳細は別頁)
 これらは騎乗する者の狩装束や旅装に使用され、当然ながら軍陣に於いても着用された様である。後に流鏑馬・笠懸といった儀礼的な場で使用される様に成る。

 中世期には軍用履物として、短靴状の貫(つらぬき)・毛沓(けぐつ)が現れる。これは毛皮などの一枚革を使った浅沓で、古くから履かれていた北方系の履物である。
 平安時代より武士が軍陣で着用する姿が見られる様になるが、公家の騎乗用沓として、また検非違使にも履かれた。

 鎌倉時代頃、足半(あしなか)・草鞋(わらじ)が一般的な履物として流行し始める。
 これは鎌倉時代後期には既に武将にも取り入れられ始め、南北朝・室町時代に至っては貫等よりも着用される割合は多くなり、室町時代末期から安土・桃山時代には貴賤問わず一般化する。草鞋は足に食い込むが足袋(素材は革など)と併用すると具合が良く、また馬に乗っても鐙(あぶみ)との噛み合わせが沓や貫等よりも良かったという。
 絵巻物などを散見すると、身分の高い武士が草鞋を着用する姿は良く見掛ける。しかしながら足半に到っては、下卒の者の着用例は在っても、上士による着用は余り見掛けない。それ故、どうしても軍陣の履物というと草鞋ばかりがイメージされる様であるが、『信長公記』の刀根山合戦の場面で、金松(兼松)又四郎正吉に信長が携帯していた足半を賜るエピソードが出てくる。これによって武将クラスの武士も、足半を使用していた事が分かる。また騎乗する際も、普段履きとしては足半が用いられていた。


貫(左)と馬上沓(右)。『武器二百図』より引用。



三、歩兵の履物


 徒の兵といっても様々な身分があるが、騎乗しない兵士は当然、馬上沓・物射沓は関係の無い代物である。貫・毛沓を履いた徒の武士も見掛けるが、たまたま徒立ちであって、本来は騎乗している様な姿の武士である。騎乗しない時は、身分の高い武士であっても裸足である例が多い。
 沓を履くような身分でない限りにおいて、一般の人間は常に裸足で生活していたのだから、戦場においても同様であろう。
(猟師や百姓が、簡素な貫・毛沓を冬季に履いている例もあるので、一概には言えないが)

 中世に入ると軍陣での履物として、草履や足半と言った鼻緒式の履物が現れる。こういった履物は、先ず徒立ちの兵士達によって平安時代頃から用いられ、鎌倉時代に流行し、それ以降には身分の高い武士も用いる様になった(注1)。

 前項で触れた様に、絵巻物の中では軍陣の履物としては草鞋の着用が描かれる事が多い。これは歩兵(下卒)に関しても言える事で、騎乗する身分の武士ほどでは無いにしろ、足半着用が描かれる事は少ない。しかし足半は草鞋と違って、泥が跳ねず、足裏との間に土砂が挟まる事もなく、滑りにくいという事から、大変重用されていた様である。
 ただ踵が浮くという形状から長い行程には不適切で、旅装としては草鞋が利用された。また足を踏ん張る様な作業の際には草鞋の方が適しているであろう。よって行軍時や土木作業には草鞋を履く等して、履物を使い分けたのだろう。


 とはいえ実は後々も裸足が多かったのではないかと私は思う所がある。
 
 現に昭和期の農耕に携わった人間の話を聞くと昭和期ですら農民は裸足で働いていたのである。山仕事、河原での作業等の時こそ足半を履いたが、ほとんどの農作業の間は裸足であったという。地下足袋が出回る様に成ってからも、なお裸足が多かったという。(注2)
 奉公人や夫役に駆り出された農民達は、行軍中は素足に草鞋も在ろうが、実際の従軍生活の中での作業中や、戦闘中においては裸足が多かったのではないだろうか・・・。



注1:『図録・日本の合戦武具事典』p.238
注2:東京多摩地域の古老(大正生)よりの聞き取り。
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日本の古代を舞台に小説や脚本を書こうという場合に一番の障害が人名である。名前が長い上に、難しい漢字が使われており、いちいち漢字検索しながら書くのも面倒である。
まあ、プロならエディターとか何とかいうソフトでも使い、難しい名前などは事前登録して一発変換できるようにするのだろうが、ワードだとなかなか簡単にはいかない。というより、私自身がワードの使い方を良く知らない。
古代人の名前の面倒くささは、読む人にとっても障害だろう。いちいち振り仮名をつけないと、何度も何度も「これ、どう読んだっけ」ということになる。
天皇名も、我々が知っている天智とか天武というのは、あれは諡号であり、生前にそう呼ばれていたわけではない。また、本名も恐らく「忌み言葉」として、呼ぶのを避けていたと思う。
とりあえず、「剣と鏡」の製作方針としては、人名は実在人物とは違う名前でありながら、誰に相当するかは推定できるようにしたいと思っている。


たとえば、


中大兄皇子=中皇子
大海人皇子=海士皇子

などである。これは名前を簡略にする意図と、「皇室タブー」を避ける意図がある。まあ、天皇に関するネタを書いた時点で皇室タブーに触れることになるのは仕方がないが、今の右翼は皇室よりも安部のほうが大事なようだから、昔のように右翼に命を狙われることもないだろう。

稿を変えて、全体の大筋を考えてみたい。まあ、最初の大構想とそれほど違いはないが、資料なども読んで、細部が少し形になってきたような気もするから、ラフスケッチ的な筋を書いておくわけだ。もちろん、カットしたり増やしたり順序を変えたり、後でいろいろ変更はするはずだ。

いきなり、聖徳太子の時代から始めるか、大化の改新の前後から始めるか、というのが構想上の大問題で、聖徳太子の話は大化の改新の話の中に組み込むのがいいか、とも思っている。つまり、大きなボリュームを聖徳太子の話に使う必要は無い気がする。ただし、蘇我氏の専横というのが大化の改新の大きな原因であり、「天皇(皇室)親政」というのが皇室の念願だったということを描く上で、蘇我氏の傀儡としての聖徳太子の話と山背大兄王の死の話は必要かと思う。

言葉遣いの点では、完全に現代語を使う予定である。英語(カタカナ語)すら入れるかもしれない。古代の衣服を着ていても、古代人の中味(特に政治意識)はほとんど現代人と変わらない、というのがこの作品の潜在的テーマなのである。

できれば、シェークスピアの史劇のような「血と嵐の匂い」を感じさせるものにしたい、というのが望みだが、もちろん自分にそんな能力など無いのは分かっている。ただ、どんなにチャチでも、その先鞭をつけたい、というだけだ。


今思い付いたが、「戯曲的部分」「小説的部分」「随想的部分」「論文的部分」を全部入れて書くのはどうか。これはフィールディングの「トム・ジョーンズ」などにもある書き方で、読者が長い話に退屈しないで済む利点がある。それに、ここまでメモしてきた私の感想などもかなり材料に使えるだろう。もともと私は小説(フィクション類)を読むのも書くのも苦手で、漠然とあれこれ考察するのが好きなだけだから、私の体質にも合っているかもしれない。


とすると、史実とはまったく無関係な現代人2人を登場させ、大化の改新や壬申の乱の真相などについての無責任な論評(居酒屋論議)を合間合間に挟み込む、という手法もいいかもしれない。「大海人皇子=忍者」論などという話も居酒屋話には向いていそうである。つまり、現代人のひとりのモデルは井沢元彦、としてもいい。
実は、私がこの「剣と鏡」脚本メモの中で書いてきた感想は、素人が古代史を「楽しむ」という上では、わりといい内容なのではないか、と自負している。素人が疑問に思うことをそのまま書き、あるいは少しネットで調べたものをコピーしただけだが、学校で習う「死んだ古代史」が、少しは生き返ったのではないか。コピー部分は別として、感想部分(あるいは疑問を提示した部分)は、青少年の読み物として悪くないと思っている。












井沢元彦の「天智暗殺説」によれば、天智は(大津京から)現京都市伏見区醍醐の巨椋池(現在は干拓されて存在しない?)の木幡山まで狩りに来て、そこで暗殺された、とされているが、滋賀の大津から京都の伏見(あるいは宇治)あたりまで狩りに来るか、という疑問を最初私は持った。現在の感覚で、滋賀から京都南部まで行くのは大変だろう、と思ったからだ。しかし、地図で直線距離を測ると、実はその間、20キロから25キロ程度なのである。走っても行ける距離であり、馬ならなおさらだ。その間には特に土地の起伏も無いだろうし。
ちなみに、直木孝次郎「壬申の乱」に、旧日本陸軍の騎兵の標準歩速が書かれていて、次のようになっている。

常歩(なみあし):分速110m
速足(はやあし):分速210m
伸長速足(しんちょうはやあし):分速310m
駈足(かけあし):分速420m
襲歩(しゅうほ):分速800m以上


これらを交互に交えたようである。速足と常歩を交えて分速150m平均とすれば、時速9キロで、3時間弱で大津から木幡まで来られるだろう。なお、古代人は朝が早い(遠出する時は特に)ので、夜明け前に出発したと思う。

井沢元彦は天智暗殺を大海人皇子自身が手を下してやったとしているが、年齢的にさすがにそれは無理だろうと思う。まあ、映像的には面白い場面にはなりそうだ。
あまり資料ばかり読んでいて、最初の考えがどんなだったか忘れそうなので、ここでもう一度最初の構想を載せておく。
最後に書いてある配役(人物イメージ)などは、だいたいこんな感じでいいと思うが、ほかにも重要人物はたくさん出てきそうである。NHK大河ドラマにできるくらいの内容のある歴史的事件なのだが、そんなのを書いていたら、5年くらいかかりそうで、完成まで生きていられる自信がないし、自分にそんな才能があるとも思わない。私はプロデューサー的感性には自信があるが、物そのものを作るのは苦手なのである。
なお、中大兄皇子を源頼朝のイメージとしたが、もう少し陰険陰性の感じがいい。大久保利通とも少し違う。大久保は無私の人だが、中大兄皇子はチェザーレ・ボルジアのイメージだ。そういう、残酷冷酷な感じで、しかも恰好いい俳優というと、若いころの仲代達矢だろうか。中臣鎌足が山崎努。大海人皇子は、豪快で少し粗暴で勘の良さそうな「魅力的な野獣」という感じ。三船敏郎と誰かをミックスした感じか。
なお、四部構想ではなく三部構想がいいかと思う。聖徳太子の時代は二部に分けるほどではない。第二部と第三部を一続きにしたほうが、登場人物の連続性の上からも良さそうだ。



まだ漠然とした想念なので、これを文章化するかどうか分からないが、日本の古代史に関する小説かシナリオを構想してみようかと思っている。

内容としては、推古朝から天智天武朝までのドラマである。推古朝とは要するに聖徳太子の時代だ。もっと詳しく言えば、蘇我氏時代である。蘇我氏と物部氏の仏教受容に関する闘争(戦争)を皮切りに、蘇我氏の傀儡としての聖徳太子の姿、その息子の山背大兄王の父聖徳への反発、推古の後継者争い(田村皇子と山背大兄王の争い)、蘇我蝦夷がなぜ蘇我系統の山背大兄王ではなく田村皇子擁立に乗り気だったのか、また蘇我入鹿(と蝦夷)がなぜ山背大兄王一族を滅亡させたのか、などが前半で、この争いが中大兄皇子に与えた精神的影響を基にして大化の改新(乙巳の朝廷クーデター)が後半の前半(妙な言い方だが、後半開始早々にこの大ドラマが起こるわけだ。)で、大化の改新の影の立役者としての中臣鎌足(大久保利通タイプ)の「政治ゲーム」あるいは王座を巡るゲーム(ゲームオブスローンズ)を描いていく。
中臣氏は神祇官の家であり、仏教と共に勢力拡張をしてきた蘇我氏とは根本的な敵である。つまり、聖徳太子時代の仏教受容争いの遺恨が大化の改新の裏の原因で、表の原因としては、中大兄皇子が有力豪族(蘇我氏)の傀儡的存在でしかない皇室の在り方に疑問を持ち、唐から帰朝した南淵請安や僧旻らの「中国政治情報」を得て、皇室中心の中央集権国家を作る構想を持ったということ。特に皇室を良しとするのではなく、むしろ大化の改新(特に乙巳の乱)とは中大兄皇子による「長いナイフの夜」だった、という構想である。
タイトルとしては「剣と鏡」というのを暫定案として考えている。これは皇室の三種の神器のうちのふたつで、天下を治める者は剣と鏡の心を持たねばならない、ということ。剣は言うまでもなく他人を従わせる武器であり、鏡は自分自身を見る道具、つまり自分の内面を治める(自己コントロールをする)道具だ。
後半の後半は壬申の乱が中心、つまり大海人皇子が兄天智(中大兄皇子)の息子である大友皇子と戦って天皇の座に付き、ここにゲームオブスローンズが完結する、という構想である。

大きく4部構想としたら

第一部 仏教伝来
第二部 聖徳太子の死と山背大兄王の死
第三部 大化の改新
第四部 壬申の乱

という感じで、主人公は第一部第二部は蘇我蝦夷と聖徳太子
第三部第四部は中大兄皇子と中臣鎌足がメインだが、他の登場人物ももちろん重要である。
さらに大きく括れば、第一部第二部は蘇我氏が中心、第三部第四部は中臣氏が中心とも言える。
つまり、政治を陰で動かしてきた力を描きたいのである。壬申の乱の時に中臣鎌足が生きていたかどうか後で調べるが、鎌足がいなかったために壬申の乱が起こった、という感じで描きたい。


主要キャスト(配役は暫定)

蘇我蝦夷:草刈正雄(策士だが抜けたところもあり、魅力的な感じ)
聖徳太子:平岳大(又は、もう少し小柄で大人しい感じの俳優。)
推古天皇:鈴木京香(威厳のある年増美女)
山背大兄王:佐藤健(気が強く、思慮に欠ける若者)
田村皇子:岡田将生(意志が弱く、お人よし)
蘇我入鹿:長瀬智也(粗暴、乱暴、強引無礼)
中大兄皇子:堺雅人(温厚な顔に似合わず案外悪人。頭がいい。源頼朝のイメージ)
中臣鎌足:(陰謀家)
大海人皇子:岡田准一(若くて豪快でやや思慮に欠ける感じ)
額田王:山本美月(少しアホっぽい方が意外性があっていい)
皇極(斉明)帝:夏木マリ(もう少し若く、なるべく狂気を感じさせる女優がいい)
余豊璋:安田顕(百済からの人質の王子。斉明帝の恋人で、斉明の異常な百済救援の真の動機。ハンサムだがあまり頭は良くなく、思慮に欠ける。斉明との関係で中年の俳優がいい)

南淵請安: (大化の改新の知的指導者)




「大海人皇子(天武天皇)による天智天皇暗殺」説(井沢元彦「逆説の日本史」)をどう考えるか、どう扱うかというのは「剣と鏡」の中心部に関わる問題だが、これにイエスとした方が論理的な整合性は取りやすいようだ。
というのは、国際情勢との関連があるからだ。

671年6月:栗隈王(後に壬申の乱で天武に協力)の太宰府長官任命
同年11月:唐使郭務悰来日(日本と唐との同盟締結のためか)
同年12月3日:天智天皇死去(公式には病死。井沢は暗殺説)

この頃、新羅は唐との戦い(主に百済の遺臣を利用)の最中で、唐と日本が同盟を結べば国家存亡の危機になるので、その同盟を阻止するために、親新羅派の大海人皇子が皇位に就くことは非常に好都合であった。天智朝廷は百済からの亡命者が多く、反新羅が主流だったと考えられる。
なお、天智は狩りの途中で殺害され、遺体が見つからない(前掲書による)ため暗殺かどうかあやふやだったことが、大友皇子側の大海人皇子への対応が遅れた理由だったかと思う。
なお、天智天皇が即位した年に、新羅のスパイである坊主が草薙剣を盗んで逃走し、捕らえられた(?)事件があったことからも、新羅が天智天皇の「反新羅・親百済」姿勢に危機感と反感を持っていたのは確かだろう。

私としては、中大兄皇子と大海人皇子は、ライバルであると同時にお互いの才能や力量を認め合った間柄だとしたいので、最後に天智暗殺の話が来るとなるとあまりに殺伐としてしまうのが難点である。

昨日の記事のカッコ内の補足が、いい加減な書き方をしたために変になったのだが、今、はっきりと「訂正」とした。ついでに書くと、「日本」の呼称が670年の新羅への遣使から始まったとすると、日本朝廷の「中華思想」(もちろん、日本を「中国」つまり中心の国とする中華思想だ。)の高まりを新羅は明確に把握しただろうから、天智朝廷への危機感も増しただろう。当然、親新羅の大海人皇子へのアプローチも強化されたと思う。壬申の乱の原因の半分くらいは、こうした国際情勢と関係があるのではないか。



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