加藤剛さんが亡くなった。私にとっては大岡越前でも和賀でもなく平将門。心優しい故に朝廷に抗うことになる反逆者は怨霊どこらか伝説の英雄。ラストなんか涙涙。これぞ、加藤剛の俳優としての全てが分かる『All about Go』。「風と雲と虹と」。小六の私はこれで剛さんが好きになりました。RIP
大化の改新(乙巳の変)の謎のひとつに、入鹿暗殺の場に居合わせた古人大兄皇子(だったか?)が、怯えて家に帰った後、「韓人(からひと)が入鹿殿を殺した」と言ったとかいう話がある。これは、三韓の貢とか何とかいう儀式の場で暗殺されたので、その使者に暗殺者が化けていたという説を私も採るが、「書紀」には、中大兄皇子が斬り付けたという記述もあるので、謎とされているわけだ。
「二つの顔の大王」では、中大兄皇子が韓国人(百済人)だ(詳しくは、百済の皇子)ということが周知の事実だったから、この「韓人」はまさに中大兄皇子を指すのだ、としている。
ちなみに、大海人皇子は高句麗人、ということのようだ。
「剣と鏡」については、メモは続けるつもりで、考察も続けるが、パソコンやネットが信頼できないので、ネットで書くかどうかは決めかねている。
とにかく、ウィンドウズ10(現パソコン)になってからワードの使い勝手がひどく悪くなっているのである。書き始めてだいぶたってから、いきなりネット接続が不可能になったりしたら最悪である。
まあ、そのメモを使った作品にするとしたら、メモを書くこと自体創作の一部ではある。
「(4世紀から7世紀の)当時は、倭国を含めた三国の王達は、基本的にどこの国の王であることにも固執せず、我こそは東アジアの覇者たらんと、しのぎを削ったのがこの時代であった。そしてそのありようも高句麗・百済・新羅・加羅を四つの国とは考えないで、国という観念を一度捨てて、各地方の地名と考えたほうが真実に近いのではないだろうか。もちろん、それは倭国も含めての話であるが、国境が確立して千年以上の歳月が経つと、たとえ観念では分かっていても、感覚的に理解しにくいのは当然かもしれない。」
小林氏は朝鮮の王が倭国に来てそのまま倭国の王(たとえば継体天皇など)となったという大胆な説を出しているが、これはヨーロッパ王家の歴史を見るとおかしな話ではない。ヨーロッパ王家はふだんは喧嘩(戦争)ばかりしているが、王家同志は姻戚関係で絡み合っており、つまりは大掛かりな兄弟げんかや親子喧嘩、親戚間の喧嘩を、国自体がやっているようなものなのである。イギリスとフランスは喧嘩ばかりしているが、イギリスの新国王をフランス王家から迎えるというようなおかしなことをやったりするのだ。また、国王の二カ国兼任という例もある。
古代の戦争は中世ヨーロッパ以上に「親族同士の喧嘩」であった可能性は高いと思う。そして、「本家の跡継ぎ候補」の大半が死んだら、番頭に店を継がせるのではなく、遠い親戚を引っ張ってきて跡継ぎにする、というのが王家の行動パターンなのだろう。だから、継体天皇のような不思議な天皇継嗣が起こるわけだ。そしてそれは臣下たちも当然視したわけだ。
だからこそ、それに反した(つまり、番頭による御家乗っ取りをした)王莽などがアジア史の中で唯一「簒奪者」の悪名を残したのではないか。
自分のまったく知らない世界で、新しい人生を始めるのだから、これは異世界転生である。
では、それがワクワク感よりも不安だらけであるのはなぜかと言えば、主人公である自分がまったくチートではないことを自分自身がよく知っているからだろう。過去の世界ではある程度満足のいく生活を送ってきた人間でも、新しい世界で自分がどういうポジションになるのかは分からない。そういう不安が大きいわけだ。まあ、人それぞれのハートの強さの問題になるのだが。
で、そういう入学や就職が一種の異世界転生である、という観点で小説ないしアニメ脚本を書く、というのもひとつのアイデアである。これは「リライフ」というアニメを見て思い付いたことだ。
ただ、あのアニメとは違って、薬による人生やり直しでなく単なる入学や就職も異世界転生だ、という点が私の案だ。
したがって、そこには怪物も出れば、美少女妖精も出る。それはもちろん、主人公の脳内ではそう見える、ということである。
要するに、入学や就職、転職を、異世界に転生した「ワクワク感」で描けないか、ということだ。
まあ、高校が舞台なら、単なる「高校デビュー」の話になるような気がするのだが、脳内世界と現実世界との対比的描写で書いたらどうか、と思っているわけだ。
なお、「剣と鏡」は、話全体の大きな柱となるアイデア、あるいは自分がそれを書き続ける原動力としての「物語エンジン」が見つからないので、棚上げ状態である。そもそも、誰を主人公にしたいのかも分からない。中大兄皇子なのか中臣鎌足なのか大海人皇子なのか。群像劇として描くにしても、なかなか人物が生きた姿で思い描けない。
なお、平幹二郎を中大兄皇子か中臣鎌足のイメージキャラにしようと思っているが、主要な二人のどちらにしてもいいということ自体、人物像がまだまだ不明瞭だということだ。
西暦 | 干支 | 代 | 名前 |
---|---|---|---|
394年 | 甲午 | 十五代 | 応神 |
427年 | 丁卯 | 十六代 | 仁徳 |
432年 | 壬申 | 十七代 | 履中 |
437年 | 丁丑 | 十八代 | 反正 |
454年 | 甲午 | 十九代 | 允恭 |
489年 | 己巳 | 二十一代 | 雄略 |
527年 | 丁未 | 二十六代 | 継体 |
『古事記』の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。(数年程度の誤差は存在する。)しかし一ヶ所、『宋書』の記述と明らかに矛盾する箇所がある。それは『宋書』倭国伝の次の記述である。
「讃死弟珍立遣使貢献」
讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(『宋書』倭国伝)
すなわち珍を讃の弟とする記述である。
『古事記』が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。讃を仁徳、珍を反正とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。反正は履中の弟である。この一点を除けば、『古事記』の天皇没年干支から倭の五王が推測できるとも考えられる。
一方『日本書紀』の記述からは天皇の没年干支は次のように計算される。
西暦 | 干支 | 代 | 名前 | 説明 |
---|---|---|---|---|
405年 | 乙巳 | 十七代 | 履中 | 仁徳天皇の第一皇子 |
410年 | 庚戌 | 十八代 | 反正 | 仁徳天皇の第三皇子 |
453年 | 癸巳 | 十九代 | 允恭 | 仁徳天皇の第四皇子 |
456年 | 丙申 | 二十代 | 安康 | 允恭天皇の第二皇子 |
479年 | 己未 | 二十一代 | 雄略 | 允恭天皇の第五皇子 |
『日本書紀』の年次では、413年から479年の間の天皇は允恭・安康・雄略の3名であるが、、反正との年代は宋への行程を考えると候補として十分にあり得る。またこの反正天皇との崩御の時期だけが古事記が正しいとすれば、413年の讃は反正になり矛盾しない。ただ438年の珍、443年の済という二人の遣使に対し、『日本書紀』のこの期間に該当する天皇は允恭1人であるので珍と済が同一人物でなければならない。
だが古事記説では矛盾していた箇所も讃を反正、珍を允恭とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と合致する。
ただ一般的には「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇と考えるのが通説である。
しかし、そもそも『古事記』、『日本書紀』とも倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない。こうしたことを根拠に九州王朝説が主張され、一時期は史学雑誌等の学術誌でも取り上げられることがあったが、現在では記紀の史料批判により継体天皇以前の編年は到底正しいとは言えず、このころの王家内部では文字による記録が常時取られていたとは考えがたいことから、記紀に伝えられた干支や系譜を元に倭の五王を推定するという試み自体をあまり意味がないとする意見もある。
倭国の実態や、倭王とヤマト王権の関係自体も、現時点の学会等で明確化されているとは言い難い。