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私がフィクションが書けないのは、キャラ作りにまったく興味が無いためかと思う。壬申の乱とか第一次世界大戦前の状況とか、事件としての面白さ、波乱万丈ぶりが面白いのであって、そこに架空の人物を当てはめて面白くなりそうな気がしない。




キャラを作れずに、登場人物をお話しに沿って動かして、その口から状況や段取りを台詞でしゃべらせるってのが、典型的な「描いたつもり」の創作の勘違い例。

キャラを作るってのは、ブレない行動原理を据える事だが、出来ない奴は台詞で自身の設定を並べさせて満足。
寡黙な奴は、どう描くんだよ……

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長編漫画というのは基本的に、みなこのような作り方をしているのではないか。いわゆる「伏線」というのも、先に進めるネタを探すために前の部分を読み返し、見つけたものと現在の部分をつなげただけのことだろう。つまり、最初から「伏線」として埋め込んだわけではない。
なお、終わり方も、主人公が死ぬか、何かを手に入れたところで終わればいいだけである。その何かとは、たとえば「自分にとって一番大事なのが何か分かる」という、「青い鳥」的な哲学的悟りでもいい。





読み切り以外で最初からエンディングまできっちり考えたお話なんて作ったことはございません。気分次第であっちこっちフラフラしながらいつの間にか終わる連載ばっかです




来期(4月以降?)のアニメ制作の本数が激減しているらしいが、世界文学の古典的作品(20世紀に書かれたのも含む)を、状況やキャラだけ代えて作ればいいのではないか。たとえば、メルヴィルの「白鯨」を宇宙ものにするとか、デュマの「三銃士」を未来ものにするとか。あるいは短編を長編にするとか、長編の脇役を主役にするとか、やりようはいくらでもあるように思うが、プロはそういうことをすべてやった上で、「ネタが無い」と言っているのだろうか。
たとえば、庵野の「シン・ゴジラ」も旧ゴジラを「自分好み」に変えただけで、まったくゼロから作ったわけではない。
ネットフリックスの「トロツキー」など、それを原典(叩き台)にしてトロツキーとロシア革命の関わりの部分をアニメ化しただけでも物凄い作品になるはずである。
あるいは、テレビゲームのアニメ化でも、「幻想水滸伝」などはまだされていないだろう。FFTにしても、ストーリー部分だけならアニメにしても面白いし、そういう作品はたくさんあると思う。
原作キャラの男と女を入れ替えるとか、大人を子供にするとか、改変の仕方もいろいろあると思う。だが、一番は「場所と時代を変える」ことだと思う。
「水滸伝」にしても、政治腐敗という点では現代の日本の状況とまったく変わらないのである。あるいは、「三国志」は、時代と場所を変えれば第一次世界大戦の欧州にもなり、舞台を宇宙にすれば「銀河英雄伝説」になる。
「私を野球に連れていって」(シナトラとジーン・ケリー)を半分見たが、シチュエーションだけは面白い。(歌と踊りは非常に退屈)
そのシチュエーションだけを使って、野球漫画の原作にできそうである。
つまり、野球の好きな女の子が、金持ちの父親(祖父)が所有していた球団を遺産で相続して球団改革に乗り出し、選手たちとのトラブルなど紆余曲折の後、成功するという話。
私が基本的に推理小説をあまり好まないのは、「登場人物が、単にストーリーを進ませるための道具である」のが理由だと思う。(SF小説もそれに近い。)もちろん、キャラ作りに力を入れている、たとえば森博嗣のような作家(彼の場合は青年時代に漫画を描いていたからだろう。)もいるが、それはそれで、話の筋とキャラ作りが無理に接合した感じである。推理小説は短編に限る、というのはそのためだ。
推理小説のキャラで、生きているのはシャーロック・ホームズだけではないか。まあ、ルパンもそうかもしれない。つまり、「冒険小説」的推理小説の場合は必然的にキャラと話が密接性を持ってくる、ということだろう。





最近、具体例で『お話しと設定を、台詞で並べるだけ』と『登場人物の個性が、直面した状況で行う行動と発言が物語になる』間の、埋められない落差に気付き始めた人が増えて重畳。
自分も小中生頃には、過去の創作物の表層をなぞった前者側に居たのだが、それは単なる創作ごっこ。
抜け出せて良かった。




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