(以下引用)
エーテル (aether, ether, luminiferous aether)[1] とは、光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質を言う。ロバート・フックによって命名された。
特殊相対性理論と光量子仮説の登場などにより、エーテルは廃れた物理学理論だとされている[2]。
光の本性に関する研究の歴史[編集]
- 18世紀までの光の本性の研究
空間に何らかの物質が充満しているという考えは古くからあったものの、近代物理学においては17世紀のルネ・デカルトに始まる。
デカルトは、すべての空間には連続でいくらでも細かく分割できる微細物質がつまっており、あらゆる物理現象はその中に生じる渦運動として説明できると考えた(渦動説)[3]。カルテジアン(cartésien,デカルト主義者)と呼ばれる学派はそのようなデカルトの考えに基づく学派で、17世紀から18世紀にかけてのフランスで学界の主流を占めた[4]。
デカルトによれば、光とはその宇宙に満ちている微細物質中の縦波のような圧力である。ロバート・フックはこの考え方を受け継ぎ、デカルトの宇宙に満ちている微細物質をエーテル(aether, ether)と呼び、光とはエーテルの中を伝わる振動であるとした[5]。また、フックの考察と光の速さの有限性の結果[6]に刺激を受けたホイヘンス[7]は、素元波の概念とホイヘンスの原理を導入することで光の波動説の基礎を作り上げた[8]。
当初、実験物理学者として望遠鏡の製作が評価されていたアイザック・ニュートンは、当時の望遠鏡の欠陥であるレンズの色収差の問題を解決するため光学の研究を行っており、1672年に『光と色の新理論』(New theory about light and colours)という論文の中でその結果を報告した。しかしながら、その中で展開された色の理論が、当時主流のデカルトやフックの立場に反するものであったことから、以降、フックとニュートンの間に長い論争が交わされることとなった。
フックは光の波動説をとっており、ニュートンは1704年『光学』(Opticks)という著書の中で光を微粒子の放射と仮定していた[9]ように、強く主張してはいなかったものの光の粒子説をとっていた[10]ため、この論争は光の波動説と光の粒子説の近代における最初の対立とみなされることが多い。
以降、ニュートンの権威も手伝って18世紀においては、光の粒子説が受け入れられ、レオンハルト・オイラーを除いては光の本性について議論されなくなった[11]。