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映画(あるいは小説の)「飢餓海峡」と「砂の器」そして小説の「レ・ミゼラブル」に共通するのは何かと言えば、この三つとも「運命悲劇」と言えることだろうか。つまり、個人の努力ではどうしようもなく悲劇に巻き込まれていく人間(主人公)の姿に観客や読者は「他人事」ではない戦慄を感じ、それが劇のドラマチックさを増幅するわけだ。単なる人間対人間の闘争だと、闘いはむしろ爽快感さえ抱かせるだろう。しかし、運命との闘いは最初から敗北が決まっており、だからこそその戦う主人公の姿は「破滅の美」があるわけだ。
この滅びの美は主人公が優れた存在であるほど強烈になる。

こんなことを考えたのは、最初、三船敏郎も若山富三郎も自分が作って主人公を演じたかった作品が「西遊記」の孫悟空だということについて考えるうちに、この二人とも「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャンをやらせても似合いそうだな、と思い、では、ジャヴェール刑事は誰が適役か、と考え、三船の相手ならやはり仲代達矢か、と考え、いや、三国連太郎でもいいな、と思い、いや、三国連太郎ならむしろ一番ジャン・ヴァルジャンに適役ではないか、と考えて、そこから「飢餓海峡」の犬飼太吉を連想し、そこから運命悲劇の主人公としての「砂の器」の和賀英良を連想し、そこで「運命悲劇」というものを意識したわけである。

ついでに言えば、昔の人気テレビ番組で「逃亡者」というのがあったが、あの作品が、逃げるジャン・ヴァルジャンと、追うジャヴェール刑事の姿を下敷きにしていたという説があり、それは信頼できると思う。つまり、古典的作品を映画化なりテレビドラマ化なりする方法は、「原作そのまま」だけではなく、「プロット」だけ借りて、時代も状況も変えてもいいということだ。黒澤明の「乱」はシェークスピアの「リア王」を日本の時代劇に翻案したものだということは誰でも知っているだろう。
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寝ている時に思いついたアイデアだが、小説で、タイトルを「セクハラ先生」というものだ。
そのタイトル自体が引っ掛けで、主人公は非モテで内気な若い教師である。学校の新校長が、学内のセクハラ問題が多いことからセクハラ問題担当教師を任命し、それに適当に指名された主人公が周囲から「セクハラ先生」と呼ばれることになるという悲喜劇である。自分はセクハラをしてもいないのにセクハラ先生と呼ばれるのは不運だが、実はそれがきっかけでいろいろな女性教師や女生徒から相談を受けることになり、馬鹿にされながらも案外好感を持たれ、女性と無縁だった人生の転機となる、という話である。漫画原作として面白いのではないか。
先ほど思いついただけの思想なのだが、ヒロイズムというのはヒロインが存在して初めて成立するものではないだろうか。
たとえば、「未来少年コナン」で、コナンがラナに出会うことが無かったなら、彼は南の孤島で抜群の身体能力を持って生き抜き、生涯を終えるだろうが、それはヒーローだろうか。単に、面白い野蛮人で終わるのではないか。コナンがラナのためにすべてを捧げ、行動するからこそ彼はヒーローなのではないか、というわけだ。
これはべつにフェミニストに媚びているわけではない。ラナのようなヒロインは何億人にひとりしか存在しないからだ。
まあ、要するに、ゲーテの「永遠に女性なるもの、我らを牽きて往かしむ」というのは、物事を斜めに見たがる猪口才な人間が思うより深淵な真理を道破しているのではないかということだ。
これは、案外的を射ているかもしれない。
なんでコナンのような設定ガバガバのお子様探偵物が女性に受けるのか、と不思議だったのだが、案外、人が死んだ殺されたという話自体が女性は好きなのかもしれない。推理小説を書く女性作家が多い理由も案外それだろうか。男はどうせ戦争で殺し合いをするが、女性が人を殺すのはだいたい犯罪の場合で、わりとリアル感を伴った身近な気持ちでスリルを味わえるのだろう。つまり、遊園地で絶叫乗り物に乗るのと同じで、性的に興奮するのではないか。犯罪は金銭問題や恋愛問題など、生活におけるスッタモンダが反映されるが、戦争だと無造作に大量の死が頭上から落ちてくるだけだから、味気ないわけだ。
なお、戦場において日常の恨みを晴らす、という話がチェスタトンにあるが、そういう、「戦争の中の日常と犯罪」という話は案外少ない。そういう主題で書いてみたい気持ちはあるが、面倒な作業になりそうである。
戦場での上官による犯罪を主人公の犯罪だと誤解され、終戦後にその被害者の近親によって復讐されるという「不条理劇」のサスペンス小説を中学生向けの学習雑誌付録で昔読んで、それが強い印象に残っているが、作者の名前は憶えていない。


(以下引用)


24名無しのアニゲーさん :2020/09/21(月) 21:14:33 ID:- ▼このコメントに返信
コナンは子供じゃなく女受け
ホモとか関係なく、女は人が殺されて動機がドロドロなの好きだからな
相棒とか科捜研の女とかが好きなのも主婦だし




私は昔から、小説や漫画などの与える快感は主人公の「上昇感覚」だという説を持っている。たとえば「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャンは、最下層の身分で泥棒の罪で監獄に半生の間入れられ、無一文で世間に放り出される。これ以上はない、最底辺の境遇だ。それが、ミリエル司教との出会いをきっかけに厚生し、工場経営者、市長として尊敬される身分になる。そしてコゼットを養女として育てることで親としての幸福も得る。そういう上昇感覚が読者にも共感されるわけだ。そして後半ではその身分と境遇を捨てることで、社会的には再び底辺の生活になるが、自分を犠牲にしてコゼットの恋人を救ったことで、いわば「天上的レベル」で至高の位置に上るわけである。
つまり、前半は物質的・世俗的上昇であり、後半は宗教的・精神的上昇の物語である。だから、読んでいて読者にこの上ない幸福感や快感を与えるのである。
で、「最初から高い立場にいる人間」が権力をふるう話は面白いか、と言えば、やはりそこには上昇感覚は無い。
そこを勘違いしているのが多くの「なろう小説」であり、特に「異世界転生物」だろう。主人公が最初からあらゆる才能に恵まれた「なろう主人公」や、異世界転生で超人的能力を身に付けた主人公の話を読んで、面白いのは最初の間だけだろう。そこにはもはや上昇感覚は無いからだ。
なぜこんな話をしたかと言うと、昨日一昨日と半村良の遺作「獄門首」を読んで、やはり上手い作者だし、面白いのだが、その面白さが「読む快感」とは少し違うなあ、と感じたからである。つまり、私の言う「上昇感覚」の方向性が違うという感じだ。主人公はゴマの蠅の子供で幼くして両親を失くし、寺の小僧みたいな身分で育てられる。ところがこの主人公はあらゆる才能に恵まれ、何をやっても成功するのである。つまり、「なろう主人公」だ。では、その主人公の成功がそのまま読者の快感となるかというと、それが少し違う。それは、主人公が世俗的なモラルを持っていないからではないか、というのが私の推定である。
「超人」というのは、モラルに縛られるという弱さすら持たないからこそ超人なのだ、ということは分かる。しかし、ではそのような超人が好き勝手をやる話を読んで面白いか、快感があるか、と言えば、それは「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」を読めば明白である。読者は主人公の破壊的行動に面白さを感じながらも、そのモラルの無さに眉を顰めるはずだ。なぜなら、読者である我々は、その「超人」に蹂躙される弱者であり平凡人であるのは明白だからだ。
確かに、弱点を持たない超人というのは多くの人の夢であり理想だろう。誰でもそういう立場になりたいと思う。しかし、全知全能の神になって面白いか、と言えば、面白くもなんともないのは自明だろう。面白半分で世界を創造し、気まぐれに世界を破壊して、何が面白いのか。いつでもどこでも好き勝手に美女を犯して何が面白いのか。
モラルというのは「禁止の体系」である、という指摘がある。まさにその通りであり、モラルに従うというのは束縛されることだ。では、それは無意味かと言うと、世界からあらゆるモラルが消えた状態を想像したらいい。それは野獣の世界そのものだろう。あらゆる悪が許される世界なのである。
なろう主人公というのは、自分だけがモラルを超越し、他の人間はモラルに従うから別の話だ、という反論も可能だろう。では、幼児を相手にゲームなりスポーツをして、勝って面白いか。
勝利が面白いのは、勝つ相手が「悪」だからであり、強敵だからだ、ということを私は指摘しておきたい。つまり、必然的に主人公は善の立場であり、モラルに即した話でないと、実は面白くない、快感は無い、ということだ。
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