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その手の「汚いもの」を誇張的に描く作品というのは、描いてる本人は何が楽しくて描いているのだろうか。もちろん、その手の「暗いリアリズム」を、「人間の真実を描いている」素晴らしい芸術だ、と思い込んでいる文学青年や文芸批評家というのが昔は多かったわけだが、今でも各ジャンルにその手の人間はいるようだ。逆に、白樺派的な理想主義や人道主義やロマンチシズムは「甘い」とされて軽蔑されたりする。幸い、その手の「人間の真実を描いた」作品は、大衆的人気を得ることはない。




わかる。映画でも漫画でもときどき、人間のいやな面、暗黒面みたいなのを描いて、これが人間だ見ろ!みたいな感じで「人間を描いた」つもりになってるケースあるけど「そんなこたあみんな知ってるんだよ」感しかないことが多い。おっさんの底にエロじじいがとか子どもでも知ってる。>RT



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尾崎豊の歌は一度も聞いたことが無いのだが、「盗んだバイクで走り出す」と「夜中に校舎のガラス窓を割って回る」とか何とかいうフレーズだけでも、こういう神経の人間は大嫌いだ、と思っている。そのバイクの持ち主との関係や、学校との関係が歌詞の中で説明されているとは思えないが、短い歌詞でそこまで説明しているならともかく、これらのフレーズだけだと、社会や家族や友人や学校など、自分を取り巻く状況へのモヤモヤした不満がその行動の原因としか思えず、最低最悪の人間だと思う。つまり、幼児的な「八つ当たり」行為であり、若さには、そういう「理由なき反抗」が許されている、という甘えが気に入らない。
バイクを盗まれた人間は、それを買うのにどれだけ苦労し、そのバイクをどれだけ愛していたか、学校を作るのに税金(私立なら、生徒の学費)がいくら投入され、それを払うのに人々の汗がどれだけ流されたかということへの想像力が欠如した、「自分の感情は誇大視し、大事にするが、他人への思いやりが無い」という、幼児的自己中心世界の生き物だ、としか思えないのである。

この件は昔から、ずっと心の中でモヤモヤしていたので、下のツィートを機会に形にして吐き出してみた。


尾崎はヤンキーのカリスマではありません





私は中日という球団のフロント、あるいは経営幹部が嫌いなので、今回の「お前」騒動はどうでもいいのだが、個人的感覚では、「お前」呼ばわりされたら、相手を殴りたいほど腹が立つと思う。自分が男だったとして、女性から「お前は」と言われたらどう思うか。逆に、常々恋人から「お前」呼ばわりされている女性はそれをどう思っているのか。
簡単な例を挙げれば、小学生から、大人であるあなたが「お前なあ」と言われたら、どう思うか。私なら、その小学生を引っ掴んで、傍の池の中に投げ込むだろう。
では、ファンなら選手を「お前」呼ばわりしていいのか。むしろ、選手は敬愛の対象なのではないのか。
私は、その応援歌の「お前」が選手への愛情表現だ、ということは信じない。今の時代で、「お前」が目下への呼称であることは誰もが本当は知っているはずである。

いや、まあ、「中日ドラゴンズ!」が「ちくちく言葉」である、ということを選手たちが当然だと思っているのなら、「お前」呼ばわりもすでに平気なのかもしれないがwww




no title
「泉の波立ち」から転載。
ブログ筆者の南堂氏の人格や考え方には共感できないこともあるが、下の記事に関しては賛成である。こうした再犯者の犯罪は単なる加算ではなく、二度目以降は「利子付き」の重刑に処すべきだと思う。
犯罪者の再犯率は3~4割と下の記事にはあるが、いろいろなニュースを見聞きした印象だともっと高い気がする。つまり、再犯してもニュースや事件として表に出ない場合がはるかに多いのではないか。



2019年06月19日

◆ 凶悪犯の早期釈放

 女子中学生2名を殺害した凶悪犯が、20年の懲役のあとで早期釈放されたら、以後、わいせつ犯罪を繰り返した。──ここには、おかしな点が見られる。

 ※ 最後に 【 追記 】 を加筆しました。内容を訂正しています。


 ──

 報道は下記。
 長崎市で昨年6月、小学生の女児(当時7歳)にわいせつな行為をし、けがをさせたなどとして、強制わいせつ致傷罪などに問われた無職寺本隆志被告(66)の控訴審判決が18日、福岡高裁であった。野島秀夫裁判長は、懲役7年(求刑・懲役8年)とした1審・長崎地裁の裁判員裁判判決を支持し、被告側の控訴を棄却した。
( → 女子中学生2人殺害し出所後わいせつ、刑期終えわいせつ致傷…2審も懲役7年判決 : 読売新聞

 判決によると、昨年6月、長崎市で下校中の女児を襲い、腰や尻に軽傷を負わせた。昨年5、6月には別の女児2人の運動靴や下着などを盗んだ。
 被告は92年、東京都と長崎市で女子中学生2人を殺害。起訴されて公判中にもう一つの事件を告白したため別々に審理され、東京の事件で懲役17年、長崎の事件で同15年の判決を受けた。
( → 女児わいせつで懲役7年 福岡高裁、92年中学生2人殺害  :日本経済新聞

 「女子中学生2人を殺害」にもかかわらず、懲役 20年で出所している。
  → 女子中学生2人を殺害、出所後4ヶ月で女児への強制わいせつ事件で逮捕された寺本隆志の犯歴

 これによると、次のことがわかる。
 「女子中学生2名を殺害したが、それぞれ別件なので、別件で訴追された。懲役17年と15年で、計32年の懲役。いずれの殺人についても、本人が極刑(死刑)を望んだのに、最高裁が棄却した。その後、刑期満了を待たずに、20年の短期で早期釈放された。たぶん仮釈放。それが 2012年。その翌年の 2013年 10月に、わいせつ犯罪を起こす。逮捕されたあと、懲役4年となる。2018年には釈放されるが、その5カ月後には、わいせつ犯罪をして逮捕される」

 これを見て、明らかにおかしいことがいくつもある。
  ・ 女子中学生2名を殺害したのに、死刑にならない。
  ・ 懲役 32年の処分が下ったのに、20年で早期釈放される。
  ・ 早期釈放(仮釈放)の後に犯罪をしても、収監されない。
   つまり、仮釈放が取り消しにならない。


 このうち、最後の点が最もおかしい。
 死刑( or 無期懲役)にならないというのも、20年で早期釈放になるというのも、納得しがたいとはいえ、ありえないというほどではない。
 しかし、再犯で仮釈放が取り消しにならないというのは、どう考えてもおかしい。仮釈放の期間中に大きな罪を犯せば、仮釈放が取り消しになるのが原則だからだ。 
 このことは、弁護士も述べている。
 仮釈放中に再犯に及べば,仮釈放は取り消されます。
( → 仮釈放中に再犯したら、残りの刑期は加算されますか? - 弁護士ドットコム

 ──

 ところが、である。さらに詳しく調べると、意外なことがわかった。上記の原則は、ろくに守られていないのだ。つまり、仮釈放は「取り消しになる」のではなくて、「取り消しになることもある」という程度であるにすぎない。
 仮釈放が取り消される可能性があります。
( → 仮釈放とは?仮釈放の流れから実態・注意点・目的まで|あなたの弁護士

 再犯行為で実刑判決を受け、かつ仮釈放も取り消されたという場合は、言い渡された刑期と仮釈放とされた期間が合算されて収監されることになります。
( → 鳥取島根岡山広島山口徳島香川愛媛高知 九州・沖縄 福岡佐賀長崎熊本大分宮崎鹿児島沖縄 まとめ
 
 仮釈放が取り消しになるには、「取り消しにする」という新たな判決が必要となる。では、そのような判決は、実際には下されれているのか? 
 法務省によると、2006年からの5年間で約7万7千人の受刑者が仮釈放された。このうち再犯を理由に仮釈放を取り消されたのは56人。
(2011-12-22 朝日新聞 朝刊 1社会)
( → 仮釈放(かりしゃくほう)とは - コトバンク

 唖然とする。約7万7千人の仮釈放のうち、再犯で取り消されたのは 56人だけだ。
 一方で、出所者の再犯率は3~4割ぐらいあって、特に性的犯罪者の再犯率は高い。
  → 平成27年版 犯罪白書
 再犯を理由に仮釈放の取り消しがあってしかるべき事例は1~3万人ぐらいはいるだろう。なのに、実際に仮釈放の取り消しがあったのは、56人だけだ。
 これでは、「仮釈放の取り消し」という原則が有名無実化している。

 そして、こういう馬鹿げた運用がなされているがゆえに、冒頭の裁判のような事件(出所者による、わいせつ犯罪の繰り返し)ということが起こるのだ。
 本来ならば、出所後になした最初の再犯( 2013年)の時点で、仮釈放を取り消して、32年の懲役を満期まで受刑させるべきだったのだが。そうであれば、32年後の 2024年までは収監されていたはずだ。さらに、わいせつ犯罪の再犯の4年分を追加して、2028年までは収監されていたはずだ。
 ところが現実には、2018年に釈放された。そしてすぐに、再々犯みたいな形で、わいせつ犯罪をまたも起こした。
 
 こういうのは、現在の法の運用(収監の処置)に、問題があることを意味する。
 悪党を逮捕することばかり考えないで、悪党を収監することも考えた方がいいだろう。



 [ 付記 ]
 「長期の収監にはコストがかかって無駄だ」
 という意見もある。それには、次の対処が可能だ。
 「性犯罪者には、去勢を条件として、早期釈放する」

 今回の犯罪者も、去勢しておけば、わいせつ犯罪を繰り返すこともなかったはずだ。これなら、国民も本人も、ともにハッピーになれたはずだ。

 去勢については、過去記事でも言及した。
  → ストーカーは犯罪か病気か?: Open ブログ
  → 性犯罪者とオタク: Open ブログ

 ※ ただし去勢は、強制ではなく、任意である。
   「去勢を受ければ早期釈放となります。どうする?」
   と尋ねて、選択は本人に委ねる。
 


 【 追記 】
 次の指摘がコメント欄に来た。
リンク先に書いてありますが「当時は有期懲役の上限が20年だった」から20年で出所になったのであって
「たぶん仮釈放」という推測が間違っているのではないでしょうか

 これは、下記記事による。
 当時は有期懲役の上限が20年だったため、2012年には出所できたのでした。
 もし、一件目の殺人の判決が出る前に自白されていれば、もしくは、最初から殺人事件として捜査されていれば二つの事件が併合審理となり、死刑か無期懲役になる可能性があったのですが、
( → 女子中学生2人を殺害、出所後4ヶ月で女児への強制わいせつ事件で逮捕された寺本隆志の犯歴

 なるほど。「仮釈放」という本文中の推測は妥当ではなくて、正しくは「早期釈放」されたわけだ。(この場合には、再犯をしても収監されることはない。その意味で、本文の趣旨は妥当ではない。)

 しかし、である。その通りだとすれば、別の問題が生じる。
 2件目の事件の判決では、
 「懲役 15年を言い渡しても、懲役 17年が懲役 20年になるだけで、実質的には2件目では懲役3年になる」
 とわかっていたはずだ。ならば、2件目の時点で、無期懲役または死刑を言い渡しても良かった。

 それにしても、「別件で複数の懲役刑を言い渡されても、それぞれが加算されないで、懲役 20年という上限に収まる」というのは、わけがわからない話だ。……これ、ちょっと制度欠陥っぽい。
 
 ※ 現状では、有期刑の上限は 20年から 30年に伸びているが、同じ問題は残る。たとえば、女子中学生を 10人殺しても、別件で起訴されれば、懲役 30年で済んでしまう。一方、まとめて起訴されれば、死刑となるだろう。つまり、検察の手続き次第で、罰の軽重が変わってしまう。同じ犯罪であっても、だ。

 ※ じゃあどうすればいいか……と言えば、特に難しいことをする必要はなくて、単純に加算してしまえばいい。たとえば、懲役 30年を 10件なら、合計して懲役 300年とすればいい。これは、無意味な数字に思えそうだが、実質的には無期懲役と同じになる。その後、刑務所の運用で、仮釈放の期間を早めに取れば、懲役 50年ぐらいにまで減じられることもあるだろう。ここは、刑務所の仮釈放の運用で決めればいいだけだ。(つまり、制度上は、単純加算だけでいい。)

ここに書かれたイエスの教え(の解釈)に賛同するかどうかは別として、聖書の言葉の解釈としては非常に納得のいくものではないかと思う。
私は無神論者であり、この、悪に満ちた世界が神によって創造されたなら、そのような神を信じることや敬うことは不可能だと思っているが、「それでも私は神を、そしてイエスを信じる」という人を否定はしないし、或る種の高い精神性を持つ人々ではあるのだろうな、と思う。


(以下引用)


メッセージ

2010年4月18日富里教会
「心の貧しい人は幸いなり」
                      (マタイ5:1〜12)

1. 心の貧しい人々

若い頃は、この教えが良く解りませんでした。普通、幸いな人というのは貧しい人ではなく、富んでいる人のことではないかと思いました。ましてや、心が貧しいということはどういうことだろうかと、不思議に思いました。また、クリスチャンだったら、心がカラカラに渇いて、がつがつしているような人よりも、むしろ、心豊かにゆったりと何事にも余裕を持って生活している人の方が、クリスチャンとしてふさわしいのではないだろうかとも思いました。ですから、これは「心の豊かな人は幸いである」の間違いではないかとも思ったほどです。

確かに英語の聖書を見てみますと、「Blessed are the poor in spirit」となっています。この「ザ・プア=the poor」という言葉は、貧しい人々と言う意味ですが、原語のギリシャ語で見てみますと、もっとひどい言葉です。「プトーコイ」という言葉ですが、乞食のような人、貧乏、倒壊、死骸と言う意味もあります。これは「極貧の非常に貧しい生活をしている者」という意味で、更に「物質的に貧しいだけでなく、世間からも圧迫され失望し、神の助けを必要とし、これにより頼むしか生きて行けない人々」、と書いてありました。これが、心の貧しい者と言う本当の意味なのです。

ですから経済的には困っていても、心だけは清く正しくと言うようなものでもないようです。経済的にも肉体的にも精神的にもどうしようもなく、もう死を待つしかないほどに打ちのめされ、絶望して死にかかっている人ということです。そういう人々が幸いである、とイエス様は教えられました。

また、「心」と訳している言葉ですが、原語のギリシャ語では「プニューマ」(=英語Spirit)となっています。つまりもともとは、心ではなく霊という意味です。人間の一番奥深いところにある「霊」の部分において絶望している、貧しくなっていると言う意味です。聖書では人間は「体」と「心」と「霊」の三層構造から出来ているといわれています。ですから、その一番奥の深いところにある霊の部分において貧しい人、霊が欠乏して、死んでしまっている者は幸いであると言うのです。

そのように、自分は何か欠けていて、本当に生きているという実感が持てずにいる人。人生を空しいものだと考えている人、生きるとは一体どういうことなんだろうかと、心の中に飢え渇くような思いを持っているものは幸いだと言っているのです。天国はそういう人のためにありますと、イエス様は説きました。

2. 幸いな人

原語では、この教えの一番最初に「幸いなるかな!」と言う言葉が来ています。そして、その後に、「心の貧しき者よ、天国は汝のものなり!」という言葉になっています。ですから、イエス様は静かにこの教えを垂れたのではなく、大きな声で、感極まったようにして、「ああ、幸いなるかな心貧しき者よ!」と宣言しているわけです。この世界で幸福な者はお前以外にいない、心貧しくして、自分の心の中に何も持たずに、ただただ神の力だけを頼りにしている者は、ということです。

聖書の幸福感は世の様々な宗教が追い求める人間の幸福感とは全く相容れないものがあるのではないでしょうか。「心の貧しい者が幸いだ?悲しむ人々が幸いだ?」と最初の二つの教えを聞く限りにおいて、大部分の人々が、拒否反応を起すのではないでしょうか。そして私たちも、もし、この世的な幸福を求めて、キリスト教を信じてもそれは本当の信仰ではないと思います。

本来、人間の霊は、神様から息を吹きかけられて神様と交わることのできる存在でした。それが、あのエデンの園において神の御言葉に背くことによって、神様との交わりが断たれました。それ以来、人間の霊は神のもとを離れて、流離うようになったのです。ですから、人間は、本来自分が出てきたお方、すなわち神様のもとに帰らない限り、人はさ迷い、不安定で、心には常に恐れを持って生活しているのです。そして、何か外見的なことで、他の人より秀でることによって幸福感を感じるという、比較と競争世界の中に置かれてしまいました。他人より優れていれば、幸福になり、他人より劣っていれば不幸になるという悲しい存在になってしまったのです。

信仰の面でもそういうことがあります。一生懸命努力して何かを手に入れることが宗教的に良い事だと考えることがありました。私はそういう時にいつも思い出すのが、あの一人の富める青年のお話です。宗教的にも社会的にも何の落ち度もない完全な金持ちの青年が、イエス様のところに来て、「先生、永遠の命を得るためにはどんな良いことをすればいいでしょうか」と言いました。そこで、イエス様が、「もし完全になりたいのなら、行って、持ち物を売り払い、貧しい者に施しなさい」と言いました。そうしましたら、その青年は突然、顔を曇らせ、悲しみながら主のもとを去ってゆきました。なぜならば、その青年はたくさんの財産を持っていたからでした。(マタイ19:16〜22)

このお話では、青年の悲しむ姿が私の脳裏に浮かんできました。「かわいそうに、自分の財産を手放せなかったんだ」と思いました。「天国から締め出されてしまったんだな」と、瞬間思いました。でも、その時に、この山上の垂訓の二番目の教え、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という教えを思い出しました。そうだ、イエス様は、本当はこの青年を愛しておられて、この青年が、自分の貧しさ、すなわち、財産を手放すことが出来なかったという、自分の弱さ、限界、汚さ、傲慢さ、自分の罪に、気づくのをイエス様は待っておられたのだなあと思いました。悲しんで、ガックリと肩を落として帰って行った青年は、きっと後で、自分の霊的な不完全さ、貧しさ、欠点というものに気が付いて、イエス様のもとに帰って来るに違いないと思いました。

多くの人々は、物質主義に駆り立てられて生きています。何かを獲得することこそ、現代人の望みであり目標です。飽くことを知らないこの人間の持ち物への衝動は、人より多く所有することで、幸せになり、人の賞賛を得ることで、幸福感を味わいます。この青年は地位も財産もありました。あとは人々の賞賛でした。良い行いをしたといって人々に認めてもらうことでした。でも、イエス様に言われて初めて、自分の心の中を覗き込んだのです。そこには、財産への固執、うぬぼれ、見せかけの道徳といった自分のどす黒い罪が見えたのです。そして、彼は自分の心の現実に気がついて、自分の境遇を生まれて初めて悲しんだのでした。

ようやく、自分の心の貧しさにも気づいたのです。そして悲しみました。本当の幸福、それは、天国に入ることですが、具体的には、自分の汚れを知り、自分の欠点を知り、また自分の霊的な不足を認め、イエス様の完全な御支配の中に入ることです。天国というのは、罪を赦して下さるイエス様の愛の支配にはいることです。そして、神様の目的に従う生き方に方向転換をすること、それが、最高に幸せな人生ではないでしょうか。

3. 天国はその人たちのものである。

最後に、天の国というのは、ギリシャ語では「バシレイヤー・ツー・ウーラノーン」と言います。直訳しますと、「天の権威」という意味です。天国のことを日本語でも別名「神の国」と言いますが、これも原語では「神の権威」と言う意味です。つまり、国といいますのは、どこかの領域を指すのではなく、神様の権威が及ぶ領域と言うことです。換言しますと、私たちが神様の権威に従う時、そこに神の権威が影響を及ぼす領域が存在するということです。これが天国です。神の権威に服従する領域ということです。

そして私たちが、心から自分の霊的な貧しさに気がつき、神様の助けを祈り求め、まず私たち一人一人が神様のご意志に忠実に従うところに、人生の幸せがあります。そして、そこにすでに、天の国が実現しているのです。そのためにも、まず私たちが自分の霊的な乏しさ、神様からかけ離れていること、自分のうちには何も誇るものがなく、霊的にはまるで、道で野垂れ死にしそうになって倒れている哀れなものであると言う事に気がつくことです。

そういう人こそ、自分の力ではなく、ただただ神の憐れみと助けにすがらなければならない人間です。そういう人こそ幸いな人間だと主は宣言されました。そういう人そこ、神の支配、神の権威のもとに依りすがらなければ生きて行くことはできません。それが「天国はその人たちのものです」という主の言葉の真意ではないかと思うわけです。そこにはもはや、自分というものはありません。また、あの人という他人を恨む気持ちもありません。ただ主の愛の中に生かされていることを感謝する生活です。主の権威のもとに従うことの喜びしかないのです。

つまり、聖書で言っている天国と言いますのは、どこか、雲の上か天上かにある世界というよりは、むしろ、神様の支配、神の力の及ぶ範囲のことをいいます。それは自らを空しくして、霊的に乏しく、欠けた者として、へりくだって、素直に主の御言葉に耳を傾けるところから始まる世界ではないかと思います。                                         (岡田 久)



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