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私の創作に関する基本思想として、創作は才能ではなくメソッドの問題だというのがある。ただし、これは根拠はまったく無い。要するに、プロの創作家としての仕事をしていくうちに、自分のメソッド(それは普遍化できると思う)を掴み、それを使ってプロの創作家としての生命を維持するのがほとんどの創作家だろう、と思っているわけだ。
つまり、極端な話、手塚治虫のメソッドを手に入れれば第二の手塚治虫になれるし、モーツアルトのメソッドを手に入れれば第二のモーツアルトになれるというのが、私の考えだ。もちろん、創作への意欲、創作を心から、全身全霊で愛しているかどうかというのがそれ以前に存在し、それが無ければ手塚治虫やモーツアルトになることは不可能だ。

で、これから創作のメソッドというのを考察したいのだが、その考察対象は、アニメや漫画の原作である。なぜなら、これらは明らかにメソッド(創作パターン)によって作られたものが大半だからである。
たとえば、「サクラ大戦」を例に取れば、

1:主人公(ヒロイン)の紹介
2:主人公を取り巻く異常な状況と、敵の襲来など
3:主人公の悪戦苦闘と「仲間」(ライバル、憎まれ役含む)の紹介
4:主人公が「仲間たち」に受け入れられる
5:敵方の強大さ、残酷さの紹介(スリルの盛り上げ)
6:主人公方の状況の変化(隊長の変更、ヒーローの紹介)
7:主人公たちのトレーニング(経験値アップ、戦士養成)
8:仲間たちの過去、性格や個性の深い紹介

といったところが前半の内容だが、これは多くの「戦隊もの」の類型的ストーリーであることは分かるだろう。
もちろん、こうした類型で描かれた物語には新味は無いからコアな鑑賞者は感心しないが、可愛いキャラが戦ったりキャッキャウフフしているのを見ているだけで楽しいという層はそれで十分にとりこめるのである。それが「商業的創作」におけるメソッドの価値だ。




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「町山智弘アメリカ日記」から転載。
「アレックスの凶悪さを徹底的に描かなかった場合、彼から意志の自由を奪った政府がより凶悪な存在であることに観客は『あまりに容易に』同意するだろう」つまり、善人の意志の自由を奪う政府は凶悪だ、と観客は考えるが、その対象がアレックスのような掛け値なしの悪党だと、「この政府は正しいのではないか」と悩むことになる、その逡巡こそが自由意志の問題を考える上で大事だ、ということだろう。
なお、厳密には、「何かを考える」のが「意思」で、「何かを目指すこと」が「意志」かと思うが、それを明確に使い分けている人はいないと思う。
アレックスの場合には思考能力は残っているから「意思」はあるが、ある種の物事(悪と見なされること)を考えるとひどい苦痛に見舞われることになる。つまり、「意志」が疎外されるわけだ。こうした状態が「時計仕掛けのオレンジ」にたとえられるわけである。





2014-06-03 「時計じかけのオレンジ」と自由意志Add Startetu-oDoraneko1986Doraneko1986

f:id:TomoMachi:20140607014214p:image:w360:left

1971年、『サタデー・レビュー』掲載のスタンリー・キューブリックのインタビュー

ペネロープ・ヒューストン アンソニー・バージェスの原作(『時計じかけのオレンジ』)は1962年に出版された時に読みました?

キューブリック 最初に読んだのは2年半前だ。テリー・サザーンからもらったんだ。『2001年宇宙の旅』の撮影中に。私はあまり時間がなくて、本棚の山ほどある読まなきゃならない本の中に突っ込みっぱなしだった。ある晩、私は本棚の前を通って、そのペイパーバックが根気よく本棚に残ってるのを見て、手に取った。そのままいっきに読み終わってしまった。第一章を読んだだけで、素晴らしい映画になるのは明らかだった。

f:id:TomoMachi:20140607015026j:image:w360

ミッシェル・シマンによるスタンリー・キューブリックのインタビュー

http://www.visual-memory.co.uk/amk/doc/interview.aco.html

ミッシェル・シマン 『時計じかけのオレンジ』については沢山の違う解釈がなされてきましたが、監督ご自身はあの映画をどうご覧になりますか?

キューブリック この映画の中心にあるのは自由意志についての問いに他ならない。善悪を自分で選ぶことができなければ人間性は失われてしまうのでは? タイトルが示すように時計じかけのオレンジになってしまうのでは?

Michel Ciment: Since so many different interpretations have been offered about A Clockwork Orange, how do you see your own film?

Stanley Kubrick: The central idea of the film has to do with the question of free-will. Do we lose our humanity if we are deprived of the choice between good and evil? Do we become, as the title suggests, A Clockwork Orange?

アレックスの社会に対する暴力的が決して赦されないものに見えることは大切だ。だからこそ、彼が国家によって害のないゾンビにされた時、観客は善悪の相対性について意味深い結論に達することができる。もし、アレックスが乱暴で非情な悪党に見えなければ、彼から善悪を選ぶ自由を奪った国家権力はより凶悪だということに観客は簡単に同意するだろう。しかし、たとえどんなに赦しがたく邪悪な犯罪者でも植物のようにしてしまうのはやはり間違っていると明確しなければならない。そうでなければ、昔のハリウッド製のリンチ反対西部劇と同じ論理の罠に落ちてしまう。その手の映画では、無実の者がリンチされることで、テーマを無意味にしている。無実の者をリンチすることに賛同する人がいるはずがない。しかし、たとえ有罪の者、ひどい犯罪を犯した者であってもリンチすべきでないという意見に彼らは賛成するだろうか? 

It is absolutely essential that Alex is seen to be guilty of a terrible violence against society, so that when he is eventually transformed by the State into a harmless zombie you can reach a meaningful conclusion about the relative rights and wrongs. If we did not see Alex first as a brutal and merciless thug it would be too easy to agree that the State is involved in a worse evil in depriving him of his freedom to choose between good and evil. It must be clear that it is wrong to turn even unforgivably vicious criminals into vegetables, otherwise the story would fall into the same logical trap as did the old, anti-lynching Hollywood westerns which always nullified their theme by lynching an innocent person. Of course no one will disagree that you shouldn't lynch an innocent person -- but will they agree that it's just as bad to lynch a guilty person, perhaps even someone guilty of a horrible crime?




この編集者が、それまで漫画家志望者に有効な「キャラを立てる方法」を提示できなかったくせに、「キャラを立てろ」と言ってきたなら、かなり無能な編集者だろう。「ひとつの逸話は百の設定に勝る」も、特に根拠のある言葉ではなく、当人の主観であり、その方が「編集者として楽」というだけのことではないか。
なお、「キャラを立てろ」はおそらく小池一夫が最初に言いだしたことだと思う。劇画村塾で漫画家志望者にそうアドバイスをしていたようだ。だが、小池自身が提示した「キャラの立て方」はかなり癖が強く、下品な印象であり、私は好きではなかった。確かに、「強烈なもの」は印象が強いが、下品になる、というのは何事にも言えることである。
漫画においてキャラを立てようと思うのなら、何よりも独自の絵の個性があることだろう。たとえば諸星大二郎は、その絵だけで諸星大二郎の作品だと分かる。そうすれば、人物のキャラ立ちなど問題ではなくなるのである。ファンは諸星の世界に浸りたいだけなのだから。ちなみに、私は諸星のファンではない。キャラ立ちというか、絵の個性から言えば、日野日出志(字はこうだったか)なども強烈な個性だが、私はこちらも好きではない。
藤子不二夫の絵など、穏やかそのものだが、誰が見ても藤子不二雄作品だと分かる絵である。
絵の個性というのは、いわば「作者自身がキャラ立ちしている」ということだ。ファンは漫画家としてのその個性を愛するのである。(その個性が現実の作者の個性であるかどうかは関係は無い。もちろん、内奥ーー思想や性癖や気質ーーが近いからこそ作品からにじみ出るのである。)




さんがリツイート

①キャラを立てようという話をすると、決まってツンデレだとか、悲惨な過去のトラウマがあるとか、特殊能力とかの設定を並べ立ててくる問題。どうしたもんかと思っていたのですが、なんとなく解決策が見えてきました。

「設定ではなく逸話を出せ。一つの逸話は百の設定に勝る」

です。




私は芸術の基本を「フレーム効果」と呼んでいる。
つまり、作者が世界の一部を「切り取って提示する」ことで、観る者や読む者が、「こういうものが存在するんだ」と気づき、その美や魅力を「発見する」のを写真や絵の「フレーム(額縁)」にたとえたわけだ。
何でもない風景でも人物でも映画や絵などに描かれると、意味を持つわけである。それが単なる「クローズアップ」効果と違うのは、特に拡大しなくても、枠があるというだけで映画や絵は特別なものになるからだ。
で、枠があるということの意味は、逆方向から言えば、「枠の外のものがすべて消えている」ということでもある。枠内以外は心理的には「見えない」のだから、見る者は嫌が応でも枠内を注視することになる。
ここで、白黒映画と天然色(カラー)映画を比較したら、明らかにフレーム効果の高いのは白黒映画である。カラー映画は、枠内の情報が多すぎて、「見せたいもの」の焦点がぼやけるのである。
下のツィートの英文は私には分からないし、この映画もおそらく見たことはないと思うが、この数カットだけでも、明らかな「フレーム効果」の高さが分かるだろう。カラー映画だとこうはならないはずである。
それは水墨画の効果にも言えることである。
映画界はカラー撮影が当たり前になりすぎて、その欠点が「画面内の情報が多すぎる」ことだと誰も気づかなくなっている。だから絵画的な長所を持つ「芸術的な映画」が消えたのである。

なお、テレビ画面で観る映画は、どんなに大画面でも室内の風景の一部でしかないからフレーム効果が最低になる。つまり、映画館の暗闇の中で観る映画とは魅力が桁違いに低くなる。
テレビというのは友人や家族とお喋りをしながら、馬鹿にしたり批評したりしながら「上から目線」で見る(見られる)ものという悲劇性を生来的に持っているのである。その一方で、馬鹿にしか理解できない内容のものしか放映しないことによって人類を阿呆化する洗脳性を持っている。



In a web of open-ended dreams
Maya Deren & Alexander Hammid's experimental film:
'Meshes of the Afternoon' (1943)




ゾルゲ市蔵という人は、何者なのかさっぱり分からないが、漫画家のツィッターでよくリツィートされる人だ。だが、言っていることの半分くらいは「そうかなあ」と首をひねりたくなるものだ。
下にあるFGOのイラストを美しいと思うのは個人の主観であり、私は(これも私の主観だが)まったく美しいと思わない。
概して、登場人物の多いアニメのタイトルイラストなどでよく見られる、「全員集合」イラストだが、この手のものはまったく美しい感じはしない。というのは、人間が集合体のただの構成要素に堕してしまい、個々のキャラの美しさはまったく消えてしまうからだ。下の絵も「青や水色の多い、ごちゃごちゃした絵だな」という印象しか無い。青や水色のような「爽快感」を伴う色だからまだいいが、これがアステカやマヤの壁画などだと、朱色や茶色や黒が多くなり、爽快感も無いからただの不気味な絵になる。



さんがリツイート

世代的に離れた立ち場からFGOを見た時の掴みどころのなさは、アステカやマヤの神話を見た時に似ている。同じ人間の作った憧れの対象だから、概要は理解できる。だが近寄って細部に迫ると、個人の狭い共感の範囲を超えてしまって奇妙だとしか見えなくなってしまう。だが美しいことに間違いはないのだ。



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