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私は24年組(大島弓子、萩尾望都、山岸凉子)は3人とも天才だと思うが、その中でも一番好きだったのが、「綿の国星」でメジャーになる前の大島弓子だった。彼女の作品をアニメ化するのが夢で、自分ではできなくても誰かがアニメ化してほしいと思ったのだが、「綿の国星」がアニメ化された時は、当時はやりの甘ったるいピアニスト(リチャード・クレイダーマンだったか)の曲が使われる、というだけで、その作品のレベルが想像でき、結局見なかった。それでなくとも、大人がアニメ映画を見るには勇気が要った時代だったのである。しかも、少女漫画原作のアニメ映画だと、館内で男は私だけという地獄になる可能性もあった。
要するに、「男には大島弓子は分からない」は、一部の女性の妄想にすぎない。たしか歌人の穂村弘も大島弓子の漫画の科白をすべて暗記しているくらい彼女の漫画が好きなはずである。
なお、私は「仮面ライダー」も「ウルトラマン」も小学生の見るものだとしか思っておらず、それらが出た時には既に高校大学生だったので、ほとんど見ていない。今見ても、何が面白いのかさっぱりわからない。(ただし、「青いホノオ」で庵野秀明がウルトラマンマニアぶりを見せるのは面白いと思った。)ついでに言えば、怪獣映画は「初代ゴジラ」と「初代キングコング」以外は見る価値が無いと思っている。いくら特撮技術が発達しても、映画としての完成度は別なのである。(「指輪物語」の監督がリメイクした「キングコング」は素晴らしい特撮技術だったが、話のテンポが悪く、冗長だった。あれは、あの半分の時間で見せるべきである。)


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〈男には大島弓子は分からない〉の男版を発見しました。

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例によって書きながら考えていくつもりだが、「悲劇の本質は主観と客観の相剋だ」というテーゼを思い付いたので、それについての考察である。
たとえば、「ロミオとジュリエット」というのは、主人公の恋人たちが、お互いの家の敵対関係という客観関係を無視して、恋愛という主観を突き進めた結果の悲劇であると見做せる。
ほとんどの悲劇は、主人公の感情という主観が、周囲の客観的情勢とぶつかっている。そこに、周囲の人物の主観とのぶつかりあいも生じる。つまり、「主観対主観の相剋」という面もあるわけだが、だいたいにおいて強烈な感情を持っているのは主人公側であり、主人公が仏教的な諦念を信条としていたら、悲劇的な物語はまったく生まれないだろう。たとえば、自然災害では大量の人間が死ぬが、それ自体が物語性を持っているわけではない。その前の、幸福な生活の断絶が悲劇なのである。幸福とは感情、つまり主観によって生じるものだ。それが自然という客観の前に滅びるのが悲劇なのであり、大量死そのものは、人間が蟻の巣穴に水を流し込むのと変わりは無い。

私が物語を書くのが苦手なのは、人間の感情というもの自体があまりに主観的すぎて共感できないからかもしれない。人物を人形として扱って物語を書く、推理小説などは、それはそれで「文学的感興」には欠けるわけで、やはり芸術というのは、才能豊かな作家が作った世界を観客として楽しむのが私には合っているのだろう。別に人物が喜怒哀楽の行動をしなくても、たとえば梶井基次郎の作品のように、「感覚や超感覚を刺激する」作品もあるわけで、芸術というのは、やはり凄い世界だと思う。

今気づいたが、「客観」を引っくり返せば「観客」になるのが面白い。観客は出来事を第三者の客観的立場から見ることで、事態の喜劇性や悲劇性を「気持ちよく」楽しむわけである。
この種の「常識(正論や定理)の嘘」というのは案外多いのかもしれない。
もちろん、「一点透視」が嘘というのではないが、頭で考えた「もっともらしい理屈」を金科玉条にしてしまった感がある。人間の目は魚眼的というか、二つあるのだから、そのそれぞれの視点による消失点があり、その二つの消失点は一致しないのが、実は「本当の見え方」なのだろう。

で、この「常識(正論や定理)の嘘」は、絵画以外でもたくさんありそうだ。



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一点透視は理屈としては辻褄は合うけど、人間の目は魚眼的なので、一点透視は人間の見た景色とは異なります。
一点透視ではよそよそしくて、心理的なリアリティから遠去かるんですよね。
この二つの消失点を持つ"絵の嘘"は、人の目で見た魚眼的な見栄えに近づき臨場感を得られます。

これは、若い人は早いうちに知っていたほうがいいことだが、「好きなこととできること(他人より上手にできること)は別」であり、そして商売になるのは後者なのである。その両者が揃えば一番だが、たいていは違う。
私は怠けるのや遊ぶのが好きだが、それではカネにはならないwww また、芸術は好きだが創造的才能が無い。だからサラリーマンを長い間やっていた。それで正解だったと思う。顔は大ハンサムだが、演技の能力や当意即妙の会話の能力が無いので俳優にもタレントにもならなかった。これも正解だっただろう。カネは欲しいが有名人になってプライバシーを無くすのが嫌いだったので、なるべく平凡な(無名人の)人生を送ろうと思ったが、これもたぶん正解。世のなかのことは、見かけと内実は違うのである。何かを得た人は別の何かを失っているものだ。
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  1. 2時間前
  1. 全然関係ないけどマツコさんの番組で「チャーハン作るの苦痛だから注文できるだけしないでくれ」って書かれているのにチャーハンが大人気っていうラーメン屋を紹介してたな。山口県だったかな。
  2. 1件の返信 20件のリツイート 59 いいね
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  1. 平田先生なら私はいいですw「よくぞ描いてくださいました」しかないですw 感謝合掌。
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    1. 1時間前
    1. こんな仕事別に好きじゃないけど食うためにやってる、っていうのは記憶違いでなければ時代劇マンガの大巨匠・平田 弘史先生も昔インタビューで言っておられたような気がします。結局それを言っても人が「あの人ならいいや」って思える境地に行った人が言ったかどうかの問題なのかもしれませんw
    2. 1件の返信 15件のリツイート 20 いいね



私は俵万智という人は、何となく人格が下品(女性性を「売り物」にした感じのためだろうか)な感じがしてあまり好きではないが、下の言葉は、「今は昔」の現代語訳の定番への疑問として正しいと思う。つまり、子供や読者に語り掛ける言葉として「(あなたがこの話を聞いている・読んでいる)今は、(話の中の時である)昔なのだと思って聞きなさいよ」というのが「今は昔」の意味だろう。まさに「今=昔」なのである。






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「今は昔」って「今となっては昔のことだが」と訳すのが定番だけど、もっとダイレクトで不思議な呪文のように思う。「今=昔」ととなえると、イコールがトンネルになって、昔の現場にいる感じ。(息子の古文の宿題を横目で見つつ)






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