忍者ブログ
[24]  [25]  [26]  [27]  [28]  [29]  [30]  [31]  [32]  [33
「泉の波立ち」というサイトからの抜粋転載で、筆者は南堂という、大学の先生(だと思う)だが、毒舌家で独断と偏見に満ちた人間であるが、書く記事はだからこそ面白いものが多い。
下の記事におけるアメリカのドラマ(最近の映画やテレビドラマしか見ていないように思える)への批評には賛成である。ただし、アメリカやイギリスのテレビドラマの脚本は、「表層的な面白さ」という点では、抜群の手腕を持っている。たとえば、「ブレーキングバッド」など、「この大筋から、よくこれだけ周到な脚本を書けるなあ」という感嘆を覚えるし、イギリスの「ブラックミラー」など、ブラックSFとして、これも常人には書けないレベルに達している。
しかし、どちらも、「見て良かった」「いい時間を過ごした」とは思えず、むしろ、「悪い時間の過ごし方をした」と思うのである。べつに内容が暗いからとか結末が不幸だから、というわけではなく、「娯楽のためのドラマ」としてどうなのか、と思うわけだ。そりゃあ、善を描くよりは悪を描くほうが、リアルで刺激的な作品は作りやすいだろう。だが、見る側の生理としてどうなのか、ということだ。まあ、南堂氏が言うように、もともとエゴイストしかいない欧米人種の作るドラマだから、そういう作品だらけになるのは当然かもしれない。人間とケダモノの違いである。

引用記事について:米国のドラマについては賛成。日本のドラマはほとんど見ないので判断できないが、視聴感の良さという点で、たとえば「デスパレートな妻たち」という洋ドラマと「逃げるは恥だが役に立つ」を比べれば、同じコメディでも後者が圧倒的に爽やかであるのは明白だろう。つまり、エゴイストたちの恋愛も犯罪も知的なケダモノたちのふるまいでしかない。ただし、面白さ、という点だけで言えば、「デスパレートな妻たち」の脚本も演出も凄い水準である。「グリー!」なども同様。話は面白いが、人間はエゴイストだけであり、モラルの欠如した、猿に近い連中である。


(以下引用)

 米国のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、あくまで自分の「愛する」という気持ちに基づく。その愛の対象は、「恋人」「妻」「子」などである。恋愛でなければ、家族愛がテーマとなる。よくあるのは、夫が妻や子を愛するというテーマだ。それで、誘拐された妻子を救おうとしたり、殺された妻子の復讐に立ち上がったりする。そこにある愛は、あくまで個人的な愛だ。エゴイスティックな愛と言ってもいい。その愛が意味を持つのは自分だけであって、他の誰も関係しないような、プライベートな愛だ。
 で、その愛の結末は、たいていはカタルシスが起こるようなもの(たとえば悪人の撲滅)である。ただし、それだけだ。「悪人がやっつけられて良かったね」とか、「主人公の愛が成就して良かったね」とか、そんな結末だ。カタルシスは起こるだろうが、別に感動するわけじゃない。「そうかい。よかったね」と思って、それでおしまいだ。

 日本のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、恋人や家族を対象とした愛であるもの(いわゆる恋愛ドラマ)はあまり多くない。あるとしても、グズグズしていたりして、あんまり王道の恋愛ドラマにはならない。視聴者がもどかしくなるような恋愛ドラマの方が多い。
 その一方で、「他者のため」という非エゴイスティックな愛(あるいは優しさ)をテーマとするドラマはとても多い。特に、医療系はそうだ。この春のドラマで言うと、
  ・ 白衣の戦士
  ・ ラジエーション・ハウス

 といった医療ドラマが該当する。これらは、(医師ではなく)看護師や医療技師が、患者のためにすごく奮闘する。
 これでなくとも、医師を主人公とした同様の医療ドラマがある。たとえば、
  ・ コード・ブルー
  ・ 救命病棟24時

 がそうだ。これらでも、医師が、患者のためにすごく奮闘する。
 その奮闘のレベルは、およそ常識離れをしたレベルの奮闘だ。そのおかげで、患者の命が救われる。
 で、それを見た視聴者は、その非エゴイスティックな(滅私的な・自己犠牲的な)奮闘に、感動して、涙をこぼす。

 ──

 そのどちらがいいか、と言えば、人それぞれだろう。どっちにしても、お好みのものを見ればいい。

 ただ、私個人の趣味で言えば、アメリカの映画はあまりにも単純で子供じみていて、面白くない。スピードとサスペンスでは上なのだが、「自分のために行動する」という主人公を見ていると、「何てエゴイスティックな人間なんだ」と思って、呆れる。「正義のための行動」という名目で、銃弾をぶっ放して、銃弾の巻き添えを食う人(たとえば下っ端ボディーガード)が出たりすると、「この主人公はただの殺人狂じゃないか」とさえ感じる。馬鹿馬鹿しくて、ナンセンスに感じる。あまりにも粗暴で無慈悲で非人間的であり、とうてい共感できないし、感動なんてもってのほかである。
 ただし、唯一の例外と言えるのが、クリント・イーストウッド監督の作品だろうか。彼の作品には、「正義のための殺人をすることの虚しさ」というものが感じられることが多い。シルヴェスター・スタローン主演の後年の映画もそんな感じがある。(どちらも、人生前半ではさんざん人殺しのヒーローを演じてきた。それゆえ、人殺しヒーローの虚しさを理解できるようになったのだろう。)……この二人の映画には、リアリティが感じられるが、同時に、虚しさも感じられる。すっきりした読後感みたいなものは得られない。(むしろ重苦しさを感じる。)

 一方で、日本映画は全然逆だ。主人公は、カッコいいヒーローであるどころか、カッコ悪い愚直な馬鹿であることさえある。(たとえば「白衣の戦士」がそうだ。)しかし、愚直なほどにも奮闘して、結局は患者の生命や人生を救う。主人公は奮闘することで、自分は何も得ることはできず、骨折り損のくたびれもうけというところだが、たとえ自分はどれほど(労力の)損をしようとも、相手の患者には莫大な利益をもたらす。たとえば、死ぬはずだった命を救う。(ラジエーション・ハウスの前回放送では、内山理名の演じた患者の命を救う。)
 あるいは、多くの2時間サスペンスでは、親が子を守るために、自己犠牲をして、「私が犯人です」と嘘を言って、殺人犯の汚名を引き受けようとする。これもまた、「我が子のために自分がとんでもない犠牲を引き受ける」という他者愛だ。(自己愛・エゴイズムとは異なる。莫大な自己犠牲をともなう。)逆に、子が親を守るために、「私が犯人です」と嘘をつくこともある。……こういうのは、あまりにもご都合主義な展開ではあるのだが、そこにある自己犠牲の裏に、子や親を愛する本当の愛情が透けて見えるので、視聴者は感動して涙をこぼす。
 結局、日本のドラマには、「エゴイスティックな愛」を越えた「他者への愛」(自己犠牲をともなう愛)があるので、視聴者は感動して、涙をこぼす。……このような感動は、米国のドラマではなかなか見られないものだ。

 典型的なのは、「グッド・ワイフ」という番組だろう。これは米国のドラマを日本で翻案したものだが、キャラクターの設定がまったく違っていた。
 米国のドラマでは、登場人物はみんなエゴイスティックな性格で、自分勝手な行動を取るばかりだ。
 日本のドラマでは、自分勝手な行動を取るにしても、そうせざるを得ないような綿密な設定が細かく用意されているので、自分勝手な行動を取ることがあっても、特に不自然には思えない。基本的には誰もが「自分勝手な人間」ではないのだ。だからこそ、一見わがままに見える登場人物にも、視聴者は「なるほど」と感じて、共感できる。
 ひるがえって、米国のドラマでは、各人にまったく共感できない。「何だこいつ。自分勝手なことばかり言っていやがる。イヤなやつ」と感じるので、共感できないままだ。もちろん、ドラマにのめりこむこともできない。リアリティーを感じることもない。「どいつもこいつも、自分勝手な馬鹿ばかりだな」という感想を持つだけだ。

 なんか、アメリカの愛と、日本の愛を比べると、猿と人間ぐらいの差がある、という感じがしてくる。

( ※ 米国文化を、やたらと道徳や礼節やエチケットが優れている日本文化と比較するのは、もともと無理かもしれないが。)
PR
「クッキー焼いてフリマで売ってろ」発言が炎上した大きな理由は、クッキーとフリマという、女性の好きなものの代表的なものを完全否定し、そこにフェミニズム魂を掻き立てられた層が大きかったためだと思う。実際、郡氏の心底には「女性憎悪・女性嫌悪」があるからこそ、「クッキー」と「フリマ」という言葉が出てきたと私は心理分析する。
と同時に、郡氏は現在の言論状況全体への不満や苛立ちがあり、それがSNS批判となったのではないか。つまり、献本への返事をなぜSNSに上げる必要があるのか、という批判は、SNSに上げる行為よりも、実はSNSという存在への不満や嫌悪が先にあったのだと推定する。
郡氏は、「ユリイカ」の元編集長らしいが、あきらかに現代の言語世界は「ユリイカ」的なものから遠く離れている。SNS上でユリイカ的な言辞を弄したら、「馬鹿じゃねえの」「何言ってるかわかんね」と思われるだけだろう。つまり、彼は1970年代の化石なのである。
なお、私は高卒してすぐかそこらに「ユリイカ」を読んで、まったく理解できなかった。つまり、気取りまくった文学青年のための同人誌のようなものだ。素人読者を最初から拒絶する世界だったのである。今となっては、読まなくて良かったと思う。そのために精神を健全に保てた。未だにその残党が出版界周辺に棲息していたことのほうが驚異である。


  1. さんがリツイート
  1. 2017年2月14日
  1. オルタナ出版史の主題のひとつは、作家の代理人でも版元の使用人でもない「編集」は立つのか、通るのか。必然的に著作権、版権と敵対し、作者を主語とする文学史、出版社を主体とする出版史との階級闘争の様相を呈する。文学の下部構造と出版の無意識に手をつっこんでガタガタ言わせなければならない。
  2. 1件の返信 30件のリツイート 30 いいね
  3. 取り消す
  1. わたしも炎上したい!
  2. 3件のリツイート 4 いいね
  3. 取り消す
    1. 12時間前
    1. 編集者にとって、テクストは「選択又は配列」のための「素材」(「著作権法 第2章第1節第12条〔編集著作物〕」)に過ぎないもんでね。ごめんね。
    2. 1件の返信 1件のリツイート 2 いいね


一連の話題と無関係な写真とコメントがひとつ入っているが、興味深い写真なので保存のため残した。つまりシュワルツェネッガーは大男だというイメージだが、あれは映画の中での撮り方(少し見上げるように撮る、同じ画面での相手役に背の低い俳優を使う、など)によるものだろう、と推定できる。確かにアンドレ・ザ・ジャイアントは巨人だったが、他のプロレスラーとの比較では、下の写真ほどの身長の差は無かった記憶がある。おそらく、向かって左側の男もプロレスラーだと思うが、背の高さではアンドレとほぼ等しい。芸能人は意外と背が低いのである。

さて、本題のほうだが、世の中の人間の半分はIQが50以下(笑)という事実が厳然としてあり、その下の部分の人間は、おそらく漫画すら真に理解する能力が無く、本を読む力はもちろん無い。テレビを見ていても、その「読解力(理解力)」は、送り手が意図したものとかなりかけ離れていると思われる。
つまり、山本氏が思う、「後で仲直りするための喧嘩」の類は、大方の非知的な視聴者にはそれほど先読みされていないわけだから、後で仲直りしたら喜んで、「イイ話ダナア」となるのであり、そういう話を書けないクリエイターは「マイナークリエイター」になるのだと思われる。
要するに、クリエイターは、同じクリエイターレベルの知能を消費者に期待してはいけない、ということだ。優れた創作物が同時代人に正当に批評されることはむしろ例外的だと思うのが正しいと私は思っている。優れた作品は、一部の「知的な消費者や批評者」が正当に批評し、それがやがて大きな力となって一般消費者にもその価値が知られるのがふつうだろう。
それは漫画の神様の手塚治虫ですら例外ではなく、一時期は、子供にあまり人気が無くて評価が下がっていたのだが、だんだんと大人層の評価が上がることで作家生命を維持したのである。つまり、手塚が出てきた時には彼に比肩する漫画家がいなかったが、手塚を模倣した漫画が世にあふれ出すと、子供の目には手塚とそのエピゴーネンの違いが分からず、手塚を特に評価しなくなったわけだ。これは手塚のせいではなく、「批評家としての子供」の側の問題だ。子供には「ウンコだシッコだパンツだ」という漫画のほうが「面白かった」だけにすぎない。


  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 9時間9時間前
  1. 自分はもうスレてるというか「あとで仲直りするための喧嘩とかよせよ」とか思うんですが(そんなこと言ってるからマイナーなのかもですが)、最後に和解するためにいがみあう親子とか、映画でもドラマでも見てると茶番みたいで辛いんですよね。いいから最初から仲良くしててくれw
  1. 昨日TVで『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』やってたのをチラッと観た。怪物がシュワを投げ飛ばした後の身のこなし方がどうもプロレスラーっぽい動きで、調べてみたら中の人はアンドレ・ザ・ジャイアントだった。なるほど。
  1. 続き)そういうこと全然わかんなくて「なんてひどいやつだ許せん!」とか「この作者はこんなことを思ってるのか許せん」とか誤解し怒り始める人いますけど、ふつうの人ってそういうベタな演出見た瞬間にわかる、とかいう感覚ないんですかね。それとも創作を生業にしてる人間の特殊技能なんでしょうか;
    1. ドラマとかであからさまにひどいことを言うひどいキャラとか出てくるじゃないですか。創作者としては「あーわかったわかった、ここから始めといて後でひどい目に遭うとか、自分の愚かさに気づいて大改心するとかのタメのひどさね。またこの手かよ、見飽きたよその演出」とかいうポジションなのに(続く


漫画家のゆうきまさみがデビューしたてのころ、「SFと時代劇はやめておけ」という趣旨のことを編集者に言われたという話で、その補足のツィートである。
漫画家は作る側のプロだが、編集者(出版社の人間)は「売る側のプロ」だから、売れるかどうかについては編集者の考えが妥当性があるだろう。もちろん、時代が変われば売れるものも変わってくる。
なお、「苦労するわりに売れない」の「苦労する」の部分は、時代劇だと時代考証が大変なのと、SFは世界観の構築(ある程度の合理性とリアリティが無いと読者は拒否感情を持つ)が大変だということだろう。完成品に関しては、時代劇はともかく、SFは、読者が理解できない、ということも多いかと思う。少なくとも、一般人の知性でSFが理解できるというのは甘い見方だと思う。だから、小説の世界でもSFという名称を避けるようになったのだろう。
なお、漫画を読まない、あるいは読めない、という人もけっこういるらしい。コマの追い方が分からないのかと思う。私も、アクション漫画だと、どういう状況でこういう姿勢になるのか分からない、ということはよくある。まあ、描き手がヘボなのだろうとは思っている。




  1. 僕も小学館の編集部しか知りませんから、確たることは言えませんが、おそらくどこの編集部でも、新人作家については「売れてもらいたい」と考えているはずなので、そこで「苦労する割には売れない」と認識しているジャンルは勧めないと思うんですよね(^_^;) それが「ダメだよ」になったのかな、と。

  2. ちょっと補足しておくと、もちろん「絶対にダメ!」ということではなかったんですよ。現に当時もSF的な作品や時代劇スタイルの漫画は、見渡せばいくつもありましたから。ただ、どちらも編集部的には、「作り手側が苦労する割には売れない」という認識があったのかなぁと思います。









ネットテレビでアニメ「電脳コイル」を中盤くらいまで見たが、オタクの作ったオタクのためのアニメという感じである。
いや、子供の描き方は上手いもので、「現実性」が無いわけではない。むしろ「子供の悪」というか、子供なればこその無道徳性の描き方はなかなか凄いと思う。話の最初のあたりの「子供世界の権力闘争」など、読んだことはないがゴールディングの「蠅の王」はこんな感じなのではないか、と思うくらい陰惨である。しかも、カネの計算ばかりしているのも現代的だ。子供たちが主人公のアニメということで期待してテレビを見ていた子供たちやその親たちは困惑しただろう。
とにかく、中盤までは見ているこちらが憂鬱になるような話ばかりなのに、時々挟まる「ここは笑うところですよ」というシーンが、かえって気疲れさせる。つまり、NHK教育放送で放映されたこの作品は、実は子供が見ることなどまったく関係なしに、原作脚本監督の磯光男(おそらくオタク)が、そのオタク性丸出しで、作りたいものを作ったのだろう。
そういう目で見ると、この作品に出てくる子供たちの無道徳性はオタク(しばしばIT技術者などがハッカーになるのは、オタクが道徳規範から逸脱しがちだということだと思う。)の投影に見える。道徳的には子供(つまり無道徳)だが、知能はすごくて、IT技術を駆使する子供たち、がこの話の登場人物たち(主人公の優子と、仲間のひとりを除く)なのである。
<<< 前のページ HOME 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.