一点透視は理屈としては辻褄は合うけど、人間の目は魚眼的なので、一点透視は人間の見た景色とは異なります。
一点透視ではよそよそしくて、心理的なリアリティから遠去かるんですよね。
この二つの消失点を持つ"絵の嘘"は、人の目で見た魚眼的な見栄えに近づき臨場感を得られます。
この種の「常識(正論や定理)の嘘」というのは案外多いのかもしれない。
もちろん、「一点透視」が嘘というのではないが、頭で考えた「もっともらしい理屈」を金科玉条にしてしまった感がある。人間の目は魚眼的というか、二つあるのだから、そのそれぞれの視点による消失点があり、その二つの消失点は一致しないのが、実は「本当の見え方」なのだろう。
で、この「常識(正論や定理)の嘘」は、絵画以外でもたくさんありそうだ。
もちろん、「一点透視」が嘘というのではないが、頭で考えた「もっともらしい理屈」を金科玉条にしてしまった感がある。人間の目は魚眼的というか、二つあるのだから、そのそれぞれの視点による消失点があり、その二つの消失点は一致しないのが、実は「本当の見え方」なのだろう。
で、この「常識(正論や定理)の嘘」は、絵画以外でもたくさんありそうだ。
近藤ようこさんがリツイート
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これは、若い人は早いうちに知っていたほうがいいことだが、「好きなこととできること(他人より上手にできること)は別」であり、そして商売になるのは後者なのである。その両者が揃えば一番だが、たいていは違う。
私は怠けるのや遊ぶのが好きだが、それではカネにはならないwww また、芸術は好きだが創造的才能が無い。だからサラリーマンを長い間やっていた。それで正解だったと思う。顔は大ハンサムだが、演技の能力や当意即妙の会話の能力が無いので俳優にもタレントにもならなかった。これも正解だっただろう。カネは欲しいが有名人になってプライバシーを無くすのが嫌いだったので、なるべく平凡な(無名人の)人生を送ろうと思ったが、これもたぶん正解。世のなかのことは、見かけと内実は違うのである。何かを得た人は別の何かを失っているものだ。
私は怠けるのや遊ぶのが好きだが、それではカネにはならないwww また、芸術は好きだが創造的才能が無い。だからサラリーマンを長い間やっていた。それで正解だったと思う。顔は大ハンサムだが、演技の能力や当意即妙の会話の能力が無いので俳優にもタレントにもならなかった。これも正解だっただろう。カネは欲しいが有名人になってプライバシーを無くすのが嫌いだったので、なるべく平凡な(無名人の)人生を送ろうと思ったが、これもたぶん正解。世のなかのことは、見かけと内実は違うのである。何かを得た人は別の何かを失っているものだ。
- 山本貴嗣さんがリツイート
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全然関係ないけどマツコさんの番組で「チャーハン作るの苦痛だから注文できるだけしないでくれ」って書かれているのにチャーハンが大人気っていうラーメン屋を紹介してたな。山口県だったかな。
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平田先生なら私はいいですw「よくぞ描いてくださいました」しかないですw 感謝合掌。
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こんな仕事別に好きじゃないけど食うためにやってる、っていうのは記憶違いでなければ時代劇マンガの大巨匠・平田 弘史先生も昔インタビューで言っておられたような気がします。結局それを言っても人が「あの人ならいいや」って思える境地に行った人が言ったかどうかの問題なのかもしれませんw
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私は俵万智という人は、何となく人格が下品(女性性を「売り物」にした感じのためだろうか)な感じがしてあまり好きではないが、下の言葉は、「今は昔」の現代語訳の定番への疑問として正しいと思う。つまり、子供や読者に語り掛ける言葉として「(あなたがこの話を聞いている・読んでいる)今は、(話の中の時である)昔なのだと思って聞きなさいよ」というのが「今は昔」の意味だろう。まさに「今=昔」なのである。
山本貴嗣さんがリツイート
「今は昔」って「今となっては昔のことだが」と訳すのが定番だけど、もっとダイレクトで不思議な呪文のように思う。「今=昔」ととなえると、イコールがトンネルになって、昔の現場にいる感じ。(息子の古文の宿題を横目で見つつ)
「泉の波立ち」というサイトからの抜粋転載で、筆者は南堂という、大学の先生(だと思う)だが、毒舌家で独断と偏見に満ちた人間であるが、書く記事はだからこそ面白いものが多い。
下の記事におけるアメリカのドラマ(最近の映画やテレビドラマしか見ていないように思える)への批評には賛成である。ただし、アメリカやイギリスのテレビドラマの脚本は、「表層的な面白さ」という点では、抜群の手腕を持っている。たとえば、「ブレーキングバッド」など、「この大筋から、よくこれだけ周到な脚本を書けるなあ」という感嘆を覚えるし、イギリスの「ブラックミラー」など、ブラックSFとして、これも常人には書けないレベルに達している。
しかし、どちらも、「見て良かった」「いい時間を過ごした」とは思えず、むしろ、「悪い時間の過ごし方をした」と思うのである。べつに内容が暗いからとか結末が不幸だから、というわけではなく、「娯楽のためのドラマ」としてどうなのか、と思うわけだ。そりゃあ、善を描くよりは悪を描くほうが、リアルで刺激的な作品は作りやすいだろう。だが、見る側の生理としてどうなのか、ということだ。まあ、南堂氏が言うように、もともとエゴイストしかいない欧米人種の作るドラマだから、そういう作品だらけになるのは当然かもしれない。人間とケダモノの違いである。
引用記事について:米国のドラマについては賛成。日本のドラマはほとんど見ないので判断できないが、視聴感の良さという点で、たとえば「デスパレートな妻たち」という洋ドラマと「逃げるは恥だが役に立つ」を比べれば、同じコメディでも後者が圧倒的に爽やかであるのは明白だろう。つまり、エゴイストたちの恋愛も犯罪も知的なケダモノたちのふるまいでしかない。ただし、面白さ、という点だけで言えば、「デスパレートな妻たち」の脚本も演出も凄い水準である。「グリー!」なども同様。話は面白いが、人間はエゴイストだけであり、モラルの欠如した、猿に近い連中である。
(以下引用)
米国のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、あくまで自分の「愛する」という気持ちに基づく。その愛の対象は、「恋人」「妻」「子」などである。恋愛でなければ、家族愛がテーマとなる。よくあるのは、夫が妻や子を愛するというテーマだ。それで、誘拐された妻子を救おうとしたり、殺された妻子の復讐に立ち上がったりする。そこにある愛は、あくまで個人的な愛だ。エゴイスティックな愛と言ってもいい。その愛が意味を持つのは自分だけであって、他の誰も関係しないような、プライベートな愛だ。
で、その愛の結末は、たいていはカタルシスが起こるようなもの(たとえば悪人の撲滅)である。ただし、それだけだ。「悪人がやっつけられて良かったね」とか、「主人公の愛が成就して良かったね」とか、そんな結末だ。カタルシスは起こるだろうが、別に感動するわけじゃない。「そうかい。よかったね」と思って、それでおしまいだ。
日本のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、恋人や家族を対象とした愛であるもの(いわゆる恋愛ドラマ)はあまり多くない。あるとしても、グズグズしていたりして、あんまり王道の恋愛ドラマにはならない。視聴者がもどかしくなるような恋愛ドラマの方が多い。
その一方で、「他者のため」という非エゴイスティックな愛(あるいは優しさ)をテーマとするドラマはとても多い。特に、医療系はそうだ。この春のドラマで言うと、
・ 白衣の戦士
・ ラジエーション・ハウス
といった医療ドラマが該当する。これらは、(医師ではなく)看護師や医療技師が、患者のためにすごく奮闘する。
これでなくとも、医師を主人公とした同様の医療ドラマがある。たとえば、
・ コード・ブルー
・ 救命病棟24時
がそうだ。これらでも、医師が、患者のためにすごく奮闘する。
その奮闘のレベルは、およそ常識離れをしたレベルの奮闘だ。そのおかげで、患者の命が救われる。
で、それを見た視聴者は、その非エゴイスティックな(滅私的な・自己犠牲的な)奮闘に、感動して、涙をこぼす。
──
そのどちらがいいか、と言えば、人それぞれだろう。どっちにしても、お好みのものを見ればいい。
ただ、私個人の趣味で言えば、アメリカの映画はあまりにも単純で子供じみていて、面白くない。スピードとサスペンスでは上なのだが、「自分のために行動する」という主人公を見ていると、「何てエゴイスティックな人間なんだ」と思って、呆れる。「正義のための行動」という名目で、銃弾をぶっ放して、銃弾の巻き添えを食う人(たとえば下っ端ボディーガード)が出たりすると、「この主人公はただの殺人狂じゃないか」とさえ感じる。馬鹿馬鹿しくて、ナンセンスに感じる。あまりにも粗暴で無慈悲で非人間的であり、とうてい共感できないし、感動なんてもってのほかである。
ただし、唯一の例外と言えるのが、クリント・イーストウッド監督の作品だろうか。彼の作品には、「正義のための殺人をすることの虚しさ」というものが感じられることが多い。シルヴェスター・スタローン主演の後年の映画もそんな感じがある。(どちらも、人生前半ではさんざん人殺しのヒーローを演じてきた。それゆえ、人殺しヒーローの虚しさを理解できるようになったのだろう。)……この二人の映画には、リアリティが感じられるが、同時に、虚しさも感じられる。すっきりした読後感みたいなものは得られない。(むしろ重苦しさを感じる。)
一方で、日本映画は全然逆だ。主人公は、カッコいいヒーローであるどころか、カッコ悪い愚直な馬鹿であることさえある。(たとえば「白衣の戦士」がそうだ。)しかし、愚直なほどにも奮闘して、結局は患者の生命や人生を救う。主人公は奮闘することで、自分は何も得ることはできず、骨折り損のくたびれもうけというところだが、たとえ自分はどれほど(労力の)損をしようとも、相手の患者には莫大な利益をもたらす。たとえば、死ぬはずだった命を救う。(ラジエーション・ハウスの前回放送では、内山理名の演じた患者の命を救う。)
あるいは、多くの2時間サスペンスでは、親が子を守るために、自己犠牲をして、「私が犯人です」と嘘を言って、殺人犯の汚名を引き受けようとする。これもまた、「我が子のために自分がとんでもない犠牲を引き受ける」という他者愛だ。(自己愛・エゴイズムとは異なる。莫大な自己犠牲をともなう。)逆に、子が親を守るために、「私が犯人です」と嘘をつくこともある。……こういうのは、あまりにもご都合主義な展開ではあるのだが、そこにある自己犠牲の裏に、子や親を愛する本当の愛情が透けて見えるので、視聴者は感動して涙をこぼす。
結局、日本のドラマには、「エゴイスティックな愛」を越えた「他者への愛」(自己犠牲をともなう愛)があるので、視聴者は感動して、涙をこぼす。……このような感動は、米国のドラマではなかなか見られないものだ。
典型的なのは、「グッド・ワイフ」という番組だろう。これは米国のドラマを日本で翻案したものだが、キャラクターの設定がまったく違っていた。
米国のドラマでは、登場人物はみんなエゴイスティックな性格で、自分勝手な行動を取るばかりだ。
日本のドラマでは、自分勝手な行動を取るにしても、そうせざるを得ないような綿密な設定が細かく用意されているので、自分勝手な行動を取ることがあっても、特に不自然には思えない。基本的には誰もが「自分勝手な人間」ではないのだ。だからこそ、一見わがままに見える登場人物にも、視聴者は「なるほど」と感じて、共感できる。
ひるがえって、米国のドラマでは、各人にまったく共感できない。「何だこいつ。自分勝手なことばかり言っていやがる。イヤなやつ」と感じるので、共感できないままだ。もちろん、ドラマにのめりこむこともできない。リアリティーを感じることもない。「どいつもこいつも、自分勝手な馬鹿ばかりだな」という感想を持つだけだ。
なんか、アメリカの愛と、日本の愛を比べると、猿と人間ぐらいの差がある、という感じがしてくる。
( ※ 米国文化を、やたらと道徳や礼節やエチケットが優れている日本文化と比較するのは、もともと無理かもしれないが。)
下の記事におけるアメリカのドラマ(最近の映画やテレビドラマしか見ていないように思える)への批評には賛成である。ただし、アメリカやイギリスのテレビドラマの脚本は、「表層的な面白さ」という点では、抜群の手腕を持っている。たとえば、「ブレーキングバッド」など、「この大筋から、よくこれだけ周到な脚本を書けるなあ」という感嘆を覚えるし、イギリスの「ブラックミラー」など、ブラックSFとして、これも常人には書けないレベルに達している。
しかし、どちらも、「見て良かった」「いい時間を過ごした」とは思えず、むしろ、「悪い時間の過ごし方をした」と思うのである。べつに内容が暗いからとか結末が不幸だから、というわけではなく、「娯楽のためのドラマ」としてどうなのか、と思うわけだ。そりゃあ、善を描くよりは悪を描くほうが、リアルで刺激的な作品は作りやすいだろう。だが、見る側の生理としてどうなのか、ということだ。まあ、南堂氏が言うように、もともとエゴイストしかいない欧米人種の作るドラマだから、そういう作品だらけになるのは当然かもしれない。人間とケダモノの違いである。
引用記事について:米国のドラマについては賛成。日本のドラマはほとんど見ないので判断できないが、視聴感の良さという点で、たとえば「デスパレートな妻たち」という洋ドラマと「逃げるは恥だが役に立つ」を比べれば、同じコメディでも後者が圧倒的に爽やかであるのは明白だろう。つまり、エゴイストたちの恋愛も犯罪も知的なケダモノたちのふるまいでしかない。ただし、面白さ、という点だけで言えば、「デスパレートな妻たち」の脚本も演出も凄い水準である。「グリー!」なども同様。話は面白いが、人間はエゴイストだけであり、モラルの欠如した、猿に近い連中である。
(以下引用)
米国のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、あくまで自分の「愛する」という気持ちに基づく。その愛の対象は、「恋人」「妻」「子」などである。恋愛でなければ、家族愛がテーマとなる。よくあるのは、夫が妻や子を愛するというテーマだ。それで、誘拐された妻子を救おうとしたり、殺された妻子の復讐に立ち上がったりする。そこにある愛は、あくまで個人的な愛だ。エゴイスティックな愛と言ってもいい。その愛が意味を持つのは自分だけであって、他の誰も関係しないような、プライベートな愛だ。
で、その愛の結末は、たいていはカタルシスが起こるようなもの(たとえば悪人の撲滅)である。ただし、それだけだ。「悪人がやっつけられて良かったね」とか、「主人公の愛が成就して良かったね」とか、そんな結末だ。カタルシスは起こるだろうが、別に感動するわけじゃない。「そうかい。よかったね」と思って、それでおしまいだ。
日本のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、恋人や家族を対象とした愛であるもの(いわゆる恋愛ドラマ)はあまり多くない。あるとしても、グズグズしていたりして、あんまり王道の恋愛ドラマにはならない。視聴者がもどかしくなるような恋愛ドラマの方が多い。
その一方で、「他者のため」という非エゴイスティックな愛(あるいは優しさ)をテーマとするドラマはとても多い。特に、医療系はそうだ。この春のドラマで言うと、
・ 白衣の戦士
・ ラジエーション・ハウス
といった医療ドラマが該当する。これらは、(医師ではなく)看護師や医療技師が、患者のためにすごく奮闘する。
これでなくとも、医師を主人公とした同様の医療ドラマがある。たとえば、
・ コード・ブルー
・ 救命病棟24時
がそうだ。これらでも、医師が、患者のためにすごく奮闘する。
その奮闘のレベルは、およそ常識離れをしたレベルの奮闘だ。そのおかげで、患者の命が救われる。
で、それを見た視聴者は、その非エゴイスティックな(滅私的な・自己犠牲的な)奮闘に、感動して、涙をこぼす。
──
そのどちらがいいか、と言えば、人それぞれだろう。どっちにしても、お好みのものを見ればいい。
ただ、私個人の趣味で言えば、アメリカの映画はあまりにも単純で子供じみていて、面白くない。スピードとサスペンスでは上なのだが、「自分のために行動する」という主人公を見ていると、「何てエゴイスティックな人間なんだ」と思って、呆れる。「正義のための行動」という名目で、銃弾をぶっ放して、銃弾の巻き添えを食う人(たとえば下っ端ボディーガード)が出たりすると、「この主人公はただの殺人狂じゃないか」とさえ感じる。馬鹿馬鹿しくて、ナンセンスに感じる。あまりにも粗暴で無慈悲で非人間的であり、とうてい共感できないし、感動なんてもってのほかである。
ただし、唯一の例外と言えるのが、クリント・イーストウッド監督の作品だろうか。彼の作品には、「正義のための殺人をすることの虚しさ」というものが感じられることが多い。シルヴェスター・スタローン主演の後年の映画もそんな感じがある。(どちらも、人生前半ではさんざん人殺しのヒーローを演じてきた。それゆえ、人殺しヒーローの虚しさを理解できるようになったのだろう。)……この二人の映画には、リアリティが感じられるが、同時に、虚しさも感じられる。すっきりした読後感みたいなものは得られない。(むしろ重苦しさを感じる。)
一方で、日本映画は全然逆だ。主人公は、カッコいいヒーローであるどころか、カッコ悪い愚直な馬鹿であることさえある。(たとえば「白衣の戦士」がそうだ。)しかし、愚直なほどにも奮闘して、結局は患者の生命や人生を救う。主人公は奮闘することで、自分は何も得ることはできず、骨折り損のくたびれもうけというところだが、たとえ自分はどれほど(労力の)損をしようとも、相手の患者には莫大な利益をもたらす。たとえば、死ぬはずだった命を救う。(ラジエーション・ハウスの前回放送では、内山理名の演じた患者の命を救う。)
あるいは、多くの2時間サスペンスでは、親が子を守るために、自己犠牲をして、「私が犯人です」と嘘を言って、殺人犯の汚名を引き受けようとする。これもまた、「我が子のために自分がとんでもない犠牲を引き受ける」という他者愛だ。(自己愛・エゴイズムとは異なる。莫大な自己犠牲をともなう。)逆に、子が親を守るために、「私が犯人です」と嘘をつくこともある。……こういうのは、あまりにもご都合主義な展開ではあるのだが、そこにある自己犠牲の裏に、子や親を愛する本当の愛情が透けて見えるので、視聴者は感動して涙をこぼす。
結局、日本のドラマには、「エゴイスティックな愛」を越えた「他者への愛」(自己犠牲をともなう愛)があるので、視聴者は感動して、涙をこぼす。……このような感動は、米国のドラマではなかなか見られないものだ。
典型的なのは、「グッド・ワイフ」という番組だろう。これは米国のドラマを日本で翻案したものだが、キャラクターの設定がまったく違っていた。
米国のドラマでは、登場人物はみんなエゴイスティックな性格で、自分勝手な行動を取るばかりだ。
日本のドラマでは、自分勝手な行動を取るにしても、そうせざるを得ないような綿密な設定が細かく用意されているので、自分勝手な行動を取ることがあっても、特に不自然には思えない。基本的には誰もが「自分勝手な人間」ではないのだ。だからこそ、一見わがままに見える登場人物にも、視聴者は「なるほど」と感じて、共感できる。
ひるがえって、米国のドラマでは、各人にまったく共感できない。「何だこいつ。自分勝手なことばかり言っていやがる。イヤなやつ」と感じるので、共感できないままだ。もちろん、ドラマにのめりこむこともできない。リアリティーを感じることもない。「どいつもこいつも、自分勝手な馬鹿ばかりだな」という感想を持つだけだ。
なんか、アメリカの愛と、日本の愛を比べると、猿と人間ぐらいの差がある、という感じがしてくる。
( ※ 米国文化を、やたらと道徳や礼節やエチケットが優れている日本文化と比較するのは、もともと無理かもしれないが。)
「クッキー焼いてフリマで売ってろ」発言が炎上した大きな理由は、クッキーとフリマという、女性の好きなものの代表的なものを完全否定し、そこにフェミニズム魂を掻き立てられた層が大きかったためだと思う。実際、郡氏の心底には「女性憎悪・女性嫌悪」があるからこそ、「クッキー」と「フリマ」という言葉が出てきたと私は心理分析する。
と同時に、郡氏は現在の言論状況全体への不満や苛立ちがあり、それがSNS批判となったのではないか。つまり、献本への返事をなぜSNSに上げる必要があるのか、という批判は、SNSに上げる行為よりも、実はSNSという存在への不満や嫌悪が先にあったのだと推定する。
郡氏は、「ユリイカ」の元編集長らしいが、あきらかに現代の言語世界は「ユリイカ」的なものから遠く離れている。SNS上でユリイカ的な言辞を弄したら、「馬鹿じゃねえの」「何言ってるかわかんね」と思われるだけだろう。つまり、彼は1970年代の化石なのである。
なお、私は高卒してすぐかそこらに「ユリイカ」を読んで、まったく理解できなかった。つまり、気取りまくった文学青年のための同人誌のようなものだ。素人読者を最初から拒絶する世界だったのである。今となっては、読まなくて良かったと思う。そのために精神を健全に保てた。未だにその残党が出版界周辺に棲息していたことのほうが驚異である。
と同時に、郡氏は現在の言論状況全体への不満や苛立ちがあり、それがSNS批判となったのではないか。つまり、献本への返事をなぜSNSに上げる必要があるのか、という批判は、SNSに上げる行為よりも、実はSNSという存在への不満や嫌悪が先にあったのだと推定する。
郡氏は、「ユリイカ」の元編集長らしいが、あきらかに現代の言語世界は「ユリイカ」的なものから遠く離れている。SNS上でユリイカ的な言辞を弄したら、「馬鹿じゃねえの」「何言ってるかわかんね」と思われるだけだろう。つまり、彼は1970年代の化石なのである。
なお、私は高卒してすぐかそこらに「ユリイカ」を読んで、まったく理解できなかった。つまり、気取りまくった文学青年のための同人誌のようなものだ。素人読者を最初から拒絶する世界だったのである。今となっては、読まなくて良かったと思う。そのために精神を健全に保てた。未だにその残党が出版界周辺に棲息していたことのほうが驚異である。
- 郡淳一郎さんがリツイート
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オルタナ出版史の主題のひとつは、作家の代理人でも版元の使用人でもない「編集」は立つのか、通るのか。必然的に著作権、版権と敵対し、作者を主語とする文学史、出版社を主体とする出版史との階級闘争の様相を呈する。文学の下部構造と出版の無意識に手をつっこんでガタガタ言わせなければならない。
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郡淳一郎さんがリツイート
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わたしも炎上したい!
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編集者にとって、テクストは「選択又は配列」のための「素材」(「著作権法 第2章第1節第12条〔編集著作物〕」)に過ぎないもんでね。ごめんね。https://twitter.com/tonookamarina/status/1121650591627759617 …
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