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これは明らかに、性的いたずら目的で一緒に入浴しようと誘ったのだろう。子供が賢くて幸いだったのだが、幼い娘のいる女性はこんな男と再婚したら、絶対に娘に手を出されると思ったほうがいい。母親が再婚して、その義父に強引に犯されたという話は多いのである。たしか、漫画家の内田春菊もそうだったらしい。
ただし、母親というのは、男親に比べて、娘の貞操とか処女性というのにはまったく価値を置いていないという感じもある。甚だしい場合は、再婚した相手が娘に手を出した時に、娘をライバル視し、夫に抗議するより娘のほうにひどいいじめをすることもあるとか。
もちろん、母親と娘は「仲のいい友達関係」になれることも多いわけだが、こと恋愛とか性的関係の問題になると、女は(モラルとか義理とかが頭から消え去って)動物的になる、と私は思っている。


兵庫県高砂警察署=高砂市荒井町 © Copyright(C) 2018 神戸新聞社 All Rights Reserved. 兵庫県高砂警察署=高砂市荒井町

 交際相手の長女(5)を殴ってけがを負わせたとして、兵庫県警高砂署は8日、傷害の疑いで、会社員の男(25)=兵庫県小野市=を逮捕した。同署の調べに「一緒に風呂に入ろうと誘ったが断られたので腹が立った」と容疑を認めているという。

 逮捕容疑は11月27日夜、高砂市内に住む交際女性(25)のアパートで、保育園児の長女の両頬を平手で殴り、全治1週間の皮下出血を負わせた疑い。

 同署によると、近所の男性から「子どもの泣き声がする」と110番があり発覚。長女は児童相談所が保護した。

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確か弓月光は高校生くらいでデビューして、還暦すぎの現在まで一度も雑誌に自作が載らなかったことがないというギネス級の漫画家だと思う。絵柄が最初から可愛くて、その絵柄をほとんど変えていない、という点でも稀有で、それは書き続けている話の内容と絵柄が最初から現在まで一貫しているためだろう。そして、「軽いお色気と笑いと明るさ」というのは、よほどの道学者でもないかぎり、誰の心も求めるものだと思う。
漫画と小説という違いは別として、私は、松本清張という作家は天才だと思うが、お色気と笑いと明るさの対極にある作風なので、死後にはその名前を聞くこともほとんど無い。
  1. 弓月 光‏ @h_yuzuki 12月4日
  1. う〜〜ん、これは漫画で食ってる人にしかわからない話かもしれません。
  2. 3件の返信 5件のリツイート 20 いいね
  1. あ、そういうお姉ちゃんが大好きなので楽しみながら描いております
  2. 6件のリツイート 31 いいね
  1. いや、上がどっさりいるのは嫌ってほどわかっていますので
  1. 自分の絵は今風でもなく上手くも無いし、すごい話を作れるわけでも無いのにまだ少し需要があるのは、この手のコメディ描く人が少ないからではないかと思ってます。
    1. すごいお話が作れる人は絵がそこそこでも結構需要はあるんですけどねぇ。
私は、子供のころに「てりゅうだん」という読み方を聞いた時に、それは間違いだろう、と思ったのだが、旧日本陸軍や自衛隊ではそれが当たり前の読み方らしい。
なぜ「てりゅうだん」という読み方を奇異に感じるのかと言うと、「て」は訓読み、「りゅうだん」は音読みという湯桶読みで、そういう読み方の熟語は少ないからである。「湯桶(ゆとう)」にしても、本来は「ゆおけ」でいいはずだ。
ただ、専門家集団というのは一般社会とは違う「専門語」をわざわざ作る傾向があり、軍隊の独自用語もそれだろう。いわゆる「ジャーゴン」である。医療用語や科学用語、英文法用語などもジャーゴンだらけだ。要するに、素人の目に不可解なものにし、内部の汚い事実を隠し、外部には偉く見せるためである。

なお、「手榴弾」は「榴弾」が先に存在し、手で投げる榴弾だから「手投げの榴弾」ということで「て・りゅうだん」でいいのだ、という理屈は可能である。しかし、マスコミは文系秀才が多いから、その「湯桶読み」を奇異に感じ、「しゅりゅうだん」と呼んできたのだろう。


(ウィキペディアより転載)

日本での呼称[編集]

現在、日本では手榴弾をマスコミのみが「しゅりゅうだん」または「てなげだん」と呼称し、名称が統一されていないが、日本軍や自衛隊では手榴弾は一貫して「てりゅうだん」と呼称される。

井沢元彦の「逆説の日本史」の中に「封建制(地方分権制)」と書かれているのを見て、あっ、封建制というのは単純化すれば地方分権制なんだな、と気づき、そうなるとアメリカ合衆国というのは「アメリカ合州国」というべきだ、と言われるように(名前も「ユナイテッドステイツ」つまり、州を結んでできた国である。)中央による各州の統制が小さいのだから、実は現代の封建制国家と見做せるのではないか、と思った。封建領主というのが国王によって任命される(封ぜられる)のに対して、各州の人民が選挙で選んで封じるという違いがあるだけで、内実は「封建制」である国もあるわけだ。
では、日本の各県もそれぞれが独自に地方自治を行っているのだから、「封建制国家」と見做してもいいのではないか。もちろん、中央による統制の必要な部分はあるが、それはどこまで認めるべきかは議論の余地があるだろう。たとえば、県民の大半が反対しているのに沖縄に新基地を作ることに関しては、それは中央の権利なのか、議論していい。そもそも、日本全土にわたって人民の生活のすべてを支配する中央集権の強大さを国民は望んでいるだろうか。
例によって、構想も何も無しに、思いつくまま書きながら考える。
思索のテーマは「ポエジー」とは何か、である。

或る情緒が詩的であると感じるのはなぜか、どういう物事を我々は詩的と感じるかという考察だ。

これには、詩そのものよりも、「詩情を感じさせる映画」「詩情のまったく無い映画」などから考察するのがいいかと思う。
たとえば、「第三の男」などは、詩情性が高いからこそ多くの映画ファンに愛され、名画とされたと思う。単にストーリーだけなら凡百のスリラー映画やサスペンス映画と異なることは無いだろう。一方、最近のハリウッド映画には詩情を感じさせる映画は極端に少ない。これはファンがそれを求めていないのではなく、作り手側が詩情というものを認知する能力が無いのだと思う。70年代くらいまでのハリウッド映画には詩情が存在したのである。これは映画音楽との関連もある。映画音楽がロック系統になると、詩情も糞もなくなり、アクション一辺倒になる。例外は「ジーザス・クライスト・スーパースター」くらいではないか。この場合は題材が題材だから、ロックとの落差で逆に部分的に詩情が際立ったとも思える。

では、詩情とは何か。仮説を立ててみる。
「晴れた天気」と「曇り空」と「雨降り」と、どれが一番詩情があるだろうか。これは異論もあるだろうが、私は「雨降り」「曇り空」「晴れ」の順だと思っている。木々の葉から雨の滴がしたたり落ちるさまは実に詩情がある。たとえば新海誠の「言の葉の庭」はそれだけを映画にしたようなアニメである。一方、雲一つ無い快晴の空は気持ちいいが、詩情はさほど無い。強いて詩情らしいのを言えば、深い青い空の中に一種の深淵を感じるくらいだろうか。
「第三の男」のラストシーンで、道の傍で女を待っている男に、女は目もくれず歩み去っていく。男は、何かを噛みしめるようにゆっくりと煙草を吸う。そして男の姿が小さくなって風景の中に飲み込まれ、映画が終わる。まさに、人生の悲哀を凝縮したシーンである。愛する女に愛されない悲しみ。いろいろと献身したつもりの女にむしろ憎悪され無視され去られる悲しみ。愛する価値の無い男(ハリー・ライム)を愛する女という不条理。言葉にはならなくても、観客はそれらの感情を感じ取り、そこに詩情を感じたのである。
さて、詩情とは何か。「悲哀感」に似ている。しかし、悲哀感のようなマイナスの気分とも少し違う。人生の悲哀、あるいは閉塞された状態に対し、それをむしろ肯定し美化的に眺めるもの、という仮説をここで提出しておく。
例えば雨によって自分は今いる場所からほとんど動けない。外の雨を眺めるしかない。しかし、眺めてみると、木々の葉から滴り落ちる雨の粒は宝石のように美しい。その美しさ(の認知)は、自分が置かれた閉塞的状況がもたらしたものでもある。
恋愛が大成功した状況には詩情は無い。失恋にこそ詩情がある。
いわば、芭蕉の「わび・さび」のようなもので、この世界のマイナスとされる事柄の中に美を見出す高度な心的姿勢が詩情の正体ではないか、というのが私の仮説である。
まあ、これはあまりに単純化しすぎていそうだから、特に強弁はしないが、詩情についての一考察である。

















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