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「マイナビニュース」から転載。
プロのクリエイターの談話はたいてい面白い。思いがけない物の見方をしていることがよくある。
たとえば、手塚漫画とちばてつやの漫画のテンポの違い、というのは私は初めて聞いた。しかも、世界観や世界像では手塚漫画の影響を強く受けていると思われる(「メトロポリス」をアニメ化したほど影響を受けている)大友が、手塚よりもちばの方に、テンポが近い、と言っているのだから面白い。
ちば漫画のフレーミングの的確さの指摘も、初めて言われたことではないか。やはり、多くの人の心を捉えた巨匠たちの創造物には、思いがけない細部に大きな長所があるようだ。


なお、大友克洋は、「AKIRA」のようなハードSFよりも、シニカルな筆致で日常的な世界を描いた短編にこそ一番の長所があると私は思っている。「童夢」などはそのミックスか。そのあたりの振幅というか、作家的個性は、あまり言われないが、山上たつひこにどこか似ている。ただ、大友にある、大光景から小光景まで見事に描けるカメラ的(映画的)な絵画技法の点が大きく違うので、その個性の類似が気づかれないのだろう。
さらに言えば、「物語(ストーリー)」よりも、映像(絵)の方に関心の中心がある、という点では、大友は新海誠にも似ている。




(以下引用)


2018/11/10 12:10:00

ビッグに聞く:第20回 大友克洋 ちばてつやの意外な影響 気になる新…
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連載企画「ビッグに聞く」に登場した大友克洋さん

 今年、創刊50周年のマンガ誌「ビッグコミック」(小学館)の関係者に、名作誕生の裏側や同誌について聞く連載企画「ビッグに聞く」。第20回は、「AKIRA」などで知られるマンガ家で映画監督の大友克洋さんが登場。同誌への思い、転機、ファンが待ち望む新作について聞いた。

 ◇ビッグはいつもビッグであってほしい

 大友さんは「ビッグコミック」を創刊号から読んでいた。当時は13歳だったといい「創刊号はよく覚えてますよ。平とじ(背表紙がある製本)ですもん。来た!と思った。買って手に持つ喜びがあった。僕はいつだって新しいものを追っかけているので、マンガはこうなっていくんだなあと思った」と振り返る。

 同誌について「マンガ家にとって、ハードルが高い雑誌はあっていいのよ。『ここにはなかなか描けないよ』っていうステータスね。誰でも描けるマンガ誌を作っちゃいけない。むしろ『ここに載るには100年早いわ!』と言ってていい。ビッグはいつもビッグであってほしいね」という印象があるという。

 ◇「童夢」を描いているくらいの時、マンガの文法を見付けようとした

 マンガの世界には「大友以前、大友以後」という言葉がある。大友さんの革新的な表現がマンガを変えたとも言われている。大友さんは「新しい表現をどんなふうにやろうかなという気持ちは常にあります。でも、お客さんがいるのだから、『どうやって読者を話に乗せてくの?』と考えるようになった時期があるんですよ。『童夢』を描いてるくらいの時、マンガの文法を見付けようとした」と転期を語る。

 「手塚治虫作品も石ノ森章太郎作品も読み直した。手塚作品は展開が速くて話が遠くまで行くんですよ。アニメっぽい、ディズニーっぽい人物たちが突拍子もないことをしながらどんどん進んでいく。それは僕にはテンポが速過ぎた。一番テンポが合ったのが、ちばてつや作品だったんです。ある日、吉祥寺のそば屋で手に取ったビッグをめくっていて『のたり松太郎』を読んだ。これだ!見付けた!と。歩き方のスピードがちょうど同じ感じがする。これがいいんじゃねえかと、ちば作品を随分と勉強しましたね」

 ちばさんのマンガを「何より、フレーミングが素晴らしいよね。きちんとした背景の中にきちんと人物がいるんです。分かりやすく描いている。近ごろのマンガを読むと、人物がどこで何をやっているかが分からないものが多い。カッコいい絵なんだけど、人物に寄り過ぎていて、読者の読みやすさのことを考えてないよね。ちばさんは、ちゃんと引いて描いている。客観性を入れると世界は広くなるし、話は面白くなるんですけどね」と分析する。

 大友さんの新作を待ち望むファンは多い。「今、マンガで描きたいものは?」と聞いてみると「もちろんありますよ」と即答。「中身は内緒です。長編です。ガリガリガリ、紙に鉛筆で描くと引っかかる感覚。あのガリガリガリに快楽はあるんです。ガリガリから人が生まれていくのを見ていると、そりゃあ、マンガを描くのを誰もやめないですよ」と明かす。詳細は語ってくれなかったが、長編の新作となれば、期待が高まる。

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※本記事は掲載時点の情報であり、最新のものとは異なる場合があります。予めご了承ください。

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これは明らかに、性的いたずら目的で一緒に入浴しようと誘ったのだろう。子供が賢くて幸いだったのだが、幼い娘のいる女性はこんな男と再婚したら、絶対に娘に手を出されると思ったほうがいい。母親が再婚して、その義父に強引に犯されたという話は多いのである。たしか、漫画家の内田春菊もそうだったらしい。
ただし、母親というのは、男親に比べて、娘の貞操とか処女性というのにはまったく価値を置いていないという感じもある。甚だしい場合は、再婚した相手が娘に手を出した時に、娘をライバル視し、夫に抗議するより娘のほうにひどいいじめをすることもあるとか。
もちろん、母親と娘は「仲のいい友達関係」になれることも多いわけだが、こと恋愛とか性的関係の問題になると、女は(モラルとか義理とかが頭から消え去って)動物的になる、と私は思っている。


兵庫県高砂警察署=高砂市荒井町 © Copyright(C) 2018 神戸新聞社 All Rights Reserved. 兵庫県高砂警察署=高砂市荒井町

 交際相手の長女(5)を殴ってけがを負わせたとして、兵庫県警高砂署は8日、傷害の疑いで、会社員の男(25)=兵庫県小野市=を逮捕した。同署の調べに「一緒に風呂に入ろうと誘ったが断られたので腹が立った」と容疑を認めているという。

 逮捕容疑は11月27日夜、高砂市内に住む交際女性(25)のアパートで、保育園児の長女の両頬を平手で殴り、全治1週間の皮下出血を負わせた疑い。

 同署によると、近所の男性から「子どもの泣き声がする」と110番があり発覚。長女は児童相談所が保護した。

確か弓月光は高校生くらいでデビューして、還暦すぎの現在まで一度も雑誌に自作が載らなかったことがないというギネス級の漫画家だと思う。絵柄が最初から可愛くて、その絵柄をほとんど変えていない、という点でも稀有で、それは書き続けている話の内容と絵柄が最初から現在まで一貫しているためだろう。そして、「軽いお色気と笑いと明るさ」というのは、よほどの道学者でもないかぎり、誰の心も求めるものだと思う。
漫画と小説という違いは別として、私は、松本清張という作家は天才だと思うが、お色気と笑いと明るさの対極にある作風なので、死後にはその名前を聞くこともほとんど無い。
  1. 弓月 光‏ @h_yuzuki 12月4日
  1. う〜〜ん、これは漫画で食ってる人にしかわからない話かもしれません。
  2. 3件の返信 5件のリツイート 20 いいね
  1. あ、そういうお姉ちゃんが大好きなので楽しみながら描いております
  2. 6件のリツイート 31 いいね
  1. いや、上がどっさりいるのは嫌ってほどわかっていますので
  1. 自分の絵は今風でもなく上手くも無いし、すごい話を作れるわけでも無いのにまだ少し需要があるのは、この手のコメディ描く人が少ないからではないかと思ってます。
    1. すごいお話が作れる人は絵がそこそこでも結構需要はあるんですけどねぇ。
私は、子供のころに「てりゅうだん」という読み方を聞いた時に、それは間違いだろう、と思ったのだが、旧日本陸軍や自衛隊ではそれが当たり前の読み方らしい。
なぜ「てりゅうだん」という読み方を奇異に感じるのかと言うと、「て」は訓読み、「りゅうだん」は音読みという湯桶読みで、そういう読み方の熟語は少ないからである。「湯桶(ゆとう)」にしても、本来は「ゆおけ」でいいはずだ。
ただ、専門家集団というのは一般社会とは違う「専門語」をわざわざ作る傾向があり、軍隊の独自用語もそれだろう。いわゆる「ジャーゴン」である。医療用語や科学用語、英文法用語などもジャーゴンだらけだ。要するに、素人の目に不可解なものにし、内部の汚い事実を隠し、外部には偉く見せるためである。

なお、「手榴弾」は「榴弾」が先に存在し、手で投げる榴弾だから「手投げの榴弾」ということで「て・りゅうだん」でいいのだ、という理屈は可能である。しかし、マスコミは文系秀才が多いから、その「湯桶読み」を奇異に感じ、「しゅりゅうだん」と呼んできたのだろう。


(ウィキペディアより転載)

日本での呼称[編集]

現在、日本では手榴弾をマスコミのみが「しゅりゅうだん」または「てなげだん」と呼称し、名称が統一されていないが、日本軍や自衛隊では手榴弾は一貫して「てりゅうだん」と呼称される。

井沢元彦の「逆説の日本史」の中に「封建制(地方分権制)」と書かれているのを見て、あっ、封建制というのは単純化すれば地方分権制なんだな、と気づき、そうなるとアメリカ合衆国というのは「アメリカ合州国」というべきだ、と言われるように(名前も「ユナイテッドステイツ」つまり、州を結んでできた国である。)中央による各州の統制が小さいのだから、実は現代の封建制国家と見做せるのではないか、と思った。封建領主というのが国王によって任命される(封ぜられる)のに対して、各州の人民が選挙で選んで封じるという違いがあるだけで、内実は「封建制」である国もあるわけだ。
では、日本の各県もそれぞれが独自に地方自治を行っているのだから、「封建制国家」と見做してもいいのではないか。もちろん、中央による統制の必要な部分はあるが、それはどこまで認めるべきかは議論の余地があるだろう。たとえば、県民の大半が反対しているのに沖縄に新基地を作ることに関しては、それは中央の権利なのか、議論していい。そもそも、日本全土にわたって人民の生活のすべてを支配する中央集権の強大さを国民は望んでいるだろうか。
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