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別ブログに書いた「とある」シリーズの脚本分析だが、かなり的を射ていると私自身思うので、ここにも「脚本メモ」の項目に入れておく。

(以下自己引用)

「とある」シリーズは、ある意味ではアニメ脚本の教材になる作品である。

1:話の大筋では視聴者の予想を裏切る。それは、一部の視聴者には「深い」という印象を与え、一部の視聴者には「深い」ではなく「不快」な印象を与える。そもそも予想を裏切るとは「期待外れ」ということであり、本来は不快なものなのだが、期待を外されることに慣れていない視聴者は、それを「深い」と思うわけである。
2:キャラを個性づけるために「無理やり」キャラ作りをする。たとえば、話す時の口調に変な語尾をつけたり土佐弁(坂本竜馬弁)を使わせる。また、「役名」を変な名前にする。また、奇矯な行動をさせる。等々。「魔法」の主人公の口癖は「(俺は)不幸だ~」だが、見ている者からすると、どこも不幸ではない。女にまといつかれることは不幸か? 学校の成績が悪いことや宿題に追われることは、そんなに不幸か? で、この口癖は、彼のオリジナルではない。かなり古くからあるものの模倣だろう。異能の(才能や運命に恵まれた)主人公を軽い不幸に遭わせることは「お約束」である。
3:女キャラは、ロリか巨乳である。
4:最初は「脇役」として登場したキャラに「暗い過去」を与え、それで話を作る。これも、一部の視聴者には「深い」と思わせる手法である。特に、最初は悪役として登場したキャラが、ある話では正義漢として活躍する「意外な面」を見せたりする。これも「深い」と錯覚させる。話を作る側は、新しく悪役を作るより楽である。で、本当ならこれは「キャラの性格の変質」という禁じ手だが、長編作品では「性格の深化」として許容されたりする。しかし、一部の視聴者は「おいおい」と思うはずである。キャラの性格が変わるなら、見ている間中、すべてのキャラをそういう目で見るしかなくなり、つまり「感情移入」が不可能になるのである。
5:主人公やその近辺の人物の無考えな行動により事件が悪化する。つまり、「起こらなくてもいい事件」が起こるが、事件が終わると、事件(事態悪化)の責任は不問にされる。

まあ、とりあえずこんなところである。
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「とある」シリーズを、気が向いた時に見ているのだが、「魔術(魔法か?)」はともかく、「科学」の気持ち悪さは、作品の世界観(と言っても「学園都市」のコンセプトのことだが)そのものにあるか、と思う。つまり、作品全体の底流が、「能力者(つまり超能力者)」の優越感と、「無能力者(普通人)」の劣等感のせめぎ合いなのである。「魔法」のほうは、魔法対科学だから、一応は能力者同士の争いなので、「横の戦い」であって、そういう「上下の戦い」ではない。したがって、優越感と劣等感の気持ちの悪い戦いになっていない。
「科学」の場合、見る者(視聴者)は、「悪の側」となることが多い「無能力者(普通人)」の側だから、その無能力者がコテンパンにやられるのを見ていて気持ちがいいわけがない。私が、「スキルアウト」とかいう不良集団とジャッジメントの戦いで、この高慢なジャッジメントの小娘たちが囚われてレイプされてしまえ、と心の底で思ったのは、当然私も「無能力者」の側だからだ。はたして、放映時に視聴者はこの作品を見ていてそう思わなかったのだろうか。それとも、可愛い中学生だか高校生だかのキャラがあれこれするのを眺めるだけで鼻の下を伸ばしていたのだろうか。まあ、当然後者だろう。作品内で嘲笑されているのは「お前ら」なのだが。
なお、登場する女は基本的に少女であるという「ロリコンアニメ」だから、女性視聴者は見ていてあまり気持ちが良くなかったのではないか。自分が少女の頃にそういう目で見られていたと思うと、不快でたまらなかっただろうと思う。まあ、この作品の「少女」は単なる「記号としての少女」でしかないのだが。どこの世界に白井黒子のようなエロ親父少女がいるか。
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