しかし朝鮮を馬鹿にするのも、たゞ近来の事だヨ。昔は、日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからノー。特に土木事業などは、尽く朝鮮人に教はつたのだ。数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だつたのサ。
古代史の本を読んでいると、まさにこの勝海舟の言葉のとおりである。皇室や古代王族豪族の中には朝鮮人の血がかなり入っていると思う。
「剣と鏡」のもうひとつのテーマは、朝鮮政治事情(高句麗・百済・新羅の紛争)と日本政治のリンクである。中大兄皇子と中臣鎌足は、南淵請安の教えで朝鮮政治事情や中国政治事情を学び、危機感を募らせていたことが大化の改新の心理的エンジンになった、というのが私の考え。
ついでにメモしておくが、「天皇」という呼称は7世紀以降のものらしいので、「剣と鏡」を書く際に注意すること。「大王」という呼称が適切か。
漢字表記では「もっとも尊い人」は「尊(みこと)」、それに次ぐのが「命(みこと)」で、同じ「みこと」呼びでも違いがある。なぜ「みこと」というのか、語源が興味深いが、「御子」から来たのか、「御言葉」から来たのか、それともまったく違う語源なのか。なお、言葉を「ことのは」と言ったように、「こと」だけでも言葉を意味する。言葉には霊があるという「言霊信仰」と「みこと」という呼称に関係があるのかどうか。
「剣と鏡」のもうひとつのテーマは、朝鮮政治事情(高句麗・百済・新羅の紛争)と日本政治のリンクである。中大兄皇子と中臣鎌足は、南淵請安の教えで朝鮮政治事情や中国政治事情を学び、危機感を募らせていたことが大化の改新の心理的エンジンになった、というのが私の考え。
ついでにメモしておくが、「天皇」という呼称は7世紀以降のものらしいので、「剣と鏡」を書く際に注意すること。「大王」という呼称が適切か。
漢字表記では「もっとも尊い人」は「尊(みこと)」、それに次ぐのが「命(みこと)」で、同じ「みこと」呼びでも違いがある。なぜ「みこと」というのか、語源が興味深いが、「御子」から来たのか、「御言葉」から来たのか、それともまったく違う語源なのか。なお、言葉を「ことのは」と言ったように、「こと」だけでも言葉を意味する。言葉には霊があるという「言霊信仰」と「みこと」という呼称に関係があるのかどうか。
竹熊健太郎《地球人》さんがリツイート
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「剣と鏡」の思想的モチーフは、蘇我氏と中臣氏と天皇家を巡る三つ巴の権力闘争であると同時に、蘇我氏の手法を天皇家と中臣氏が学んで自家中のものにしていくプロセスである。
蘇我氏は朝鮮半島からの渡来人を利用し使役する中で、「経営手法」を熟達させ、朝廷内での立身につなげた。そのために旧来の権力者である「(皇室の傍流としての)神の血筋」を称していた物部氏や中臣氏はどんどん圧迫されていった。
仏教が伝来した時、蘇我氏がそれに飛びついたのは、「日本古来の神々」をアイデンティティの根拠とする物部氏や中臣氏への対抗策として当然であったが、それは神の直流である天皇家をも敵とする危険性も持っていた。しかし、天皇家が神と無関係であることは、天皇家自体が一番よく知っていたことなので、欽明天皇は「蕃神」である仏についての教えが現世利益が本当にあるのなら、受け入れてもいい、と案外柔軟な態度だった。(これはローマ皇帝のキリスト教受容と同じ。宗教の中心にいる者だけが、その宗教がインチキであることを良く知っている。これを「密教」といい、愚かな世間に示す宗教の姿を「顕教」と言う。)だから臣下たちに論争をさせたのである。「まあ、ためしに蘇我氏だけ仏を拝んでみたら」という天皇の言葉で一応の決着はつく。
その後、疫病の流行は仏教を受け入れたためだ、という噂なども流されるが、官僚能力の高い蘇我氏の地位は揺るがず、それに伴って、「仏教にはご利益があるかもしれない」と、仏教を信じる人も朝廷に増えていった。
そして、物部氏を蘇我氏が打ち滅ぼしたことで「崇仏廃仏論争」は蘇我氏の勝ちとなった。
その仏教を本気で信じたのが聖徳太子で、太子は仏教の本質を理解していたから「世間虚仮唯仏是真」という態度で、権力闘争を好まず、蘇我氏の傀儡として一生を終えた。
聖徳太子が亡くなり、その子供である山背大兄王は王位への欲望が強く、蘇我氏に逆らうことがあったため、蘇我氏の入鹿が短慮から彼を打ち滅ぼす。だが、これが蘇我氏滅亡のきっかけとなる、というのは蝦夷自身がよく分かっていた。世間の人望の高い聖徳太子の一族を滅亡させたことで、世間の批判が蘇我氏に集まることを熟知していたからだ。
こうしたすべてを長い間じっと観察していたのが中大兄皇子と中臣鎌足であった。(以上、第一部と第二部)
*天智天皇は死亡時に46歳、中臣鎌足はその2年前に死去。死亡時56歳。つまり、鎌足は天智より12歳年長。
蘇我氏は朝鮮半島からの渡来人を利用し使役する中で、「経営手法」を熟達させ、朝廷内での立身につなげた。そのために旧来の権力者である「(皇室の傍流としての)神の血筋」を称していた物部氏や中臣氏はどんどん圧迫されていった。
仏教が伝来した時、蘇我氏がそれに飛びついたのは、「日本古来の神々」をアイデンティティの根拠とする物部氏や中臣氏への対抗策として当然であったが、それは神の直流である天皇家をも敵とする危険性も持っていた。しかし、天皇家が神と無関係であることは、天皇家自体が一番よく知っていたことなので、欽明天皇は「蕃神」である仏についての教えが現世利益が本当にあるのなら、受け入れてもいい、と案外柔軟な態度だった。(これはローマ皇帝のキリスト教受容と同じ。宗教の中心にいる者だけが、その宗教がインチキであることを良く知っている。これを「密教」といい、愚かな世間に示す宗教の姿を「顕教」と言う。)だから臣下たちに論争をさせたのである。「まあ、ためしに蘇我氏だけ仏を拝んでみたら」という天皇の言葉で一応の決着はつく。
その後、疫病の流行は仏教を受け入れたためだ、という噂なども流されるが、官僚能力の高い蘇我氏の地位は揺るがず、それに伴って、「仏教にはご利益があるかもしれない」と、仏教を信じる人も朝廷に増えていった。
そして、物部氏を蘇我氏が打ち滅ぼしたことで「崇仏廃仏論争」は蘇我氏の勝ちとなった。
その仏教を本気で信じたのが聖徳太子で、太子は仏教の本質を理解していたから「世間虚仮唯仏是真」という態度で、権力闘争を好まず、蘇我氏の傀儡として一生を終えた。
聖徳太子が亡くなり、その子供である山背大兄王は王位への欲望が強く、蘇我氏に逆らうことがあったため、蘇我氏の入鹿が短慮から彼を打ち滅ぼす。だが、これが蘇我氏滅亡のきっかけとなる、というのは蝦夷自身がよく分かっていた。世間の人望の高い聖徳太子の一族を滅亡させたことで、世間の批判が蘇我氏に集まることを熟知していたからだ。
こうしたすべてを長い間じっと観察していたのが中大兄皇子と中臣鎌足であった。(以上、第一部と第二部)
*天智天皇は死亡時に46歳、中臣鎌足はその2年前に死去。死亡時56歳。つまり、鎌足は天智より12歳年長。
1:天智10年(671年)10月17日:天智発病
2:大海人皇子を呼んで天皇位を譲る意図を示す。大海人固辞する。帝位は皇后に譲り、大友皇子を皇太子にするべきだと言う。(大友が天皇になった場合、自分の身が危ないので、皇后が天皇にいる間に何とかしようという意図か。)
3:即日(17日)大海人出家し、私的所有の兵器を国庫に返還する。
4:19日、吉野に入る。送別の諸大臣官人、宇治で別れる。或る人、「虎に翼を付けて野に放ったようなものだ」と。大海人一行、旧蘇我馬子邸で泊まる。
5:20日、大海人、舎人たちに「私は出家するので、私に従いたいものは従え、朝廷で出世したいものは戻って朝廷に仕えよ」と言う。最初は全員留まり、再度言うと半数が近江に帰る。
6:12月、天智死去。
7:5月、大海人の舎人、近江朝廷の「大海人皇子追討」らしき動きを報告。
8:6月22日、大海人、美濃での徴兵と不破道の封鎖を指令。
9:6月24日、大海人皇子、吉野脱出。大友、追討の建議を拒否。
10:6月25日、大海人、鈴鹿山道封鎖。(以下、主語は基本的に大海人皇子)
11:6月26日、朝明川にて伊勢天照大神遥拝。
12:6月27日、高市皇子の言葉を嘉し、軍事大権を授ける。野上行宮に入る。
13:6月29日、大伴吹負ら、大和古京で蜂起、占領。
14:7月2日、大友軍の中で内紛、山部王、殺さる。蘇我果安、自殺。
15:7月4日、吹負、大友軍と戦い、敗れるが、追撃を逃れる。
16:7月5日、大友軍、河内から大和に攻め入る。大海人軍、撤退。
17:7月22日、村国男依、大友軍主力を瀬田で撃破。
18:7月23日、大友皇子、山前で自害。25歳。
19:8月25日、戦犯の処罰。27日、戦功者を褒賞。
20:673年2月27日、天武天皇即位。
2:大海人皇子を呼んで天皇位を譲る意図を示す。大海人固辞する。帝位は皇后に譲り、大友皇子を皇太子にするべきだと言う。(大友が天皇になった場合、自分の身が危ないので、皇后が天皇にいる間に何とかしようという意図か。)
3:即日(17日)大海人出家し、私的所有の兵器を国庫に返還する。
4:19日、吉野に入る。送別の諸大臣官人、宇治で別れる。或る人、「虎に翼を付けて野に放ったようなものだ」と。大海人一行、旧蘇我馬子邸で泊まる。
5:20日、大海人、舎人たちに「私は出家するので、私に従いたいものは従え、朝廷で出世したいものは戻って朝廷に仕えよ」と言う。最初は全員留まり、再度言うと半数が近江に帰る。
6:12月、天智死去。
7:5月、大海人の舎人、近江朝廷の「大海人皇子追討」らしき動きを報告。
8:6月22日、大海人、美濃での徴兵と不破道の封鎖を指令。
9:6月24日、大海人皇子、吉野脱出。大友、追討の建議を拒否。
10:6月25日、大海人、鈴鹿山道封鎖。(以下、主語は基本的に大海人皇子)
11:6月26日、朝明川にて伊勢天照大神遥拝。
12:6月27日、高市皇子の言葉を嘉し、軍事大権を授ける。野上行宮に入る。
13:6月29日、大伴吹負ら、大和古京で蜂起、占領。
14:7月2日、大友軍の中で内紛、山部王、殺さる。蘇我果安、自殺。
15:7月4日、吹負、大友軍と戦い、敗れるが、追撃を逃れる。
16:7月5日、大友軍、河内から大和に攻め入る。大海人軍、撤退。
17:7月22日、村国男依、大友軍主力を瀬田で撃破。
18:7月23日、大友皇子、山前で自害。25歳。
19:8月25日、戦犯の処罰。27日、戦功者を褒賞。
20:673年2月27日、天武天皇即位。
私自身の別ブログに載せてある記事だが、これも備忘のためと安全保存のためこちらにも載せておく。
「ディック」は「リチャード」の愛称だが、チ○ポ、○ン○コを意味する俗語でもある。
「11・22・63」の最初のあたりに出たリチャード・ニクソンの応援ポスターに「俺たちのディックを舐めるな」みたいな、下ネタのキャッチフレーズがあって、それで「ああ、ディックとはアレのことなんだ」と知った。というか、思い出した。以前に聞いた記憶があるのだ。
なお、「11・22・63」は、ケネディ暗殺を防いでいたらアメリカの未来は良くなったはずだ、という能天気な考えがアホくさくて、視聴するのをやめた。
それくらいなら、サラエボでのオーストリア皇太子暗殺を防いでいたら第一次世界大戦は起こらず、ドイツの戦後の悲惨さから生まれたヒトラーの国粋主義思想も起こらず、その結果第二次世界大戦も起こらなかった可能性がある。
実は、そういうアイデアの小説を書きたくて、第一次大戦前の歴史本を少し読んだのだが、面倒くさくて投げだした。そこで、このアイデアは一般に開放するwww
なお、その小説は子供向け冒険活劇として書くつもりで、主人公はシャーロック・ホームズの娘、あるいは姪(つまりマイクロフト・ホームズの娘)のシャーロット・ホームズというお転婆娘にする予定だったが、このアイデアも誰でも使用して良い。
敵側は、「大サラエボ主義」のテロリスト集団「黒手組(ブラックハンド)」という実在の集団で、皇太子暗殺は、この組織の下っ端がやったものである。この犯罪の真の首謀者とも言うべき陸軍大学教官か何かの男は、べつにこの犯罪の罪を問われていない。
*江戸川乱歩の小説「黒手組」は、実在の黒手組とは無関係の話。
さて、余談が長くなったが、要するに、「先っぽが×な○○○○」とは、「(先っぽが)ブルーなディック」ということだと解説したかっただけである。
浅利与一義遠 @hologon15 11時間前
「11・22・63」の最初のあたりに出たリチャード・ニクソンの応援ポスターに「俺たちのディックを舐めるな」みたいな、下ネタのキャッチフレーズがあって、それで「ああ、ディックとはアレのことなんだ」と知った。というか、思い出した。以前に聞いた記憶があるのだ。
なお、「11・22・63」は、ケネディ暗殺を防いでいたらアメリカの未来は良くなったはずだ、という能天気な考えがアホくさくて、視聴するのをやめた。
それくらいなら、サラエボでのオーストリア皇太子暗殺を防いでいたら第一次世界大戦は起こらず、ドイツの戦後の悲惨さから生まれたヒトラーの国粋主義思想も起こらず、その結果第二次世界大戦も起こらなかった可能性がある。
実は、そういうアイデアの小説を書きたくて、第一次大戦前の歴史本を少し読んだのだが、面倒くさくて投げだした。そこで、このアイデアは一般に開放するwww
なお、その小説は子供向け冒険活劇として書くつもりで、主人公はシャーロック・ホームズの娘、あるいは姪(つまりマイクロフト・ホームズの娘)のシャーロット・ホームズというお転婆娘にする予定だったが、このアイデアも誰でも使用して良い。
敵側は、「大サラエボ主義」のテロリスト集団「黒手組(ブラックハンド)」という実在の集団で、皇太子暗殺は、この組織の下っ端がやったものである。この犯罪の真の首謀者とも言うべき陸軍大学教官か何かの男は、べつにこの犯罪の罪を問われていない。
*江戸川乱歩の小説「黒手組」は、実在の黒手組とは無関係の話。
さて、余談が長くなったが、要するに、「先っぽが×な○○○○」とは、「(先っぽが)ブルーなディック」ということだと解説したかっただけである。
浅利与一義遠
ディック・ブルーナで、先っぽが×な〇〇〇〇を思い付いてしまって、ごめんなさい。 合掌
1:538年(一説に552年)仏教公伝。宣化天皇。百済聖明王より。
2:539年、宣化没、欽明即位。
3:552年、仏教公伝。崇仏派の蘇我稲目、廃仏派の物部尾輿の対立。*物部氏は軍事専門家
4:562年、新羅、任那(大伽耶)を滅ぼす。
5:571年、欽明没、572年敏達即位。573年、厩戸皇子生まれる?
6:581年、隋の建国。高句麗・百済、隋の冊封を受ける。
7:585年、敏達没、用明即位。仏教受容に関し、蘇我馬子、物部守屋の対立。
8:586年、穴穂部皇子、炊屋姫皇后(後の推古)をレイプ未遂。背後に物部守屋。
9:587年、用明没。穴穂部、皇位を狙うが暗殺される。蘇我馬子、泊瀬部皇子ら諸皇子と図って物部守屋を討伐。聖徳太子(厩戸皇子)も戦に参加。崇峻(泊瀬部?)即位。
10:隋による中国統一。均田制、租庸調、科挙などを実施(大化の改新のモデル)推古即位。
12:593年、聖徳太子摂政となる。
13:594年、三宝興隆の詔。
14:600年、遣隋使を送る。
15:603年、冠位十二階制定。604年、憲法十七条制定。
16:607年、小野妹子の遣隋使、608年、小野妹子・南淵請安・僧旻・高向玄理ら隋へ。
17:618年、隋から唐へ禅譲。少し後、高句麗・百済・新羅、唐の冊封を受ける。
18:622年、聖徳太子没。626年、蘇我馬子没。628年、推古没。629年舒明即位。
19:640年、南淵請安ら帰朝。641年、舒明没。642年皇極即位。
20:642年、蘇我蝦夷・入鹿の専横。入鹿、古人を推し、山背大兄王を襲い、敗死させる。
21:645年、乙巳の変。皇極退位、孝徳即位。中大兄皇子は皇太子となる。
22:646年、改新の詔。公地公民制、班田収授法など制定。難波宮へ遷都。
23:649年、右大臣蘇我倉山田石川麻呂、謀反の嫌疑で自害させられる。
24:653年、中大兄皇子、孝徳との不和により飛鳥宮へ帰る。654年、孝徳没。
25:655年、斉明(皇極)重祚。
26:658年、孝徳の子、有馬皇子、謀反の罪で処刑。
27:659年、阿倍比羅夫、蝦夷征討。
28:660年、唐・新羅連合軍、百済を滅ぼす。鬼室福信ら挙兵。
29:661年、鬼室の請により百済王子余豊璋を百済に送る。百済救援の陣内で斉明没。
30:663年、豊璋、謀反の疑いで鬼室を処刑、白村江の戦いの敗北。
31:664年、冠位二十六階制定。国土防衛のため防人、狼煙台、水城を設置。
32:667年、近江大津宮へ遷都。
33:668年、天智即位。669年、中臣鎌足に大織冠・大臣位を授ける。藤原姓となる。
34:669年、中臣鎌足没。670年、庚午年籍を作る。新羅による半島統一。法隆寺消失。
35:671年、大友皇子、太政大臣となる。大海人皇子、出家し吉野に向かう。天智没。
36:672年、壬申の乱。大海人皇子、吉野進発。美濃から近江に向かう。
37:673年、飛鳥浄御原宮で天武天皇即位。
38
39
40
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
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